『講釈場のある風景』中公文庫2022-10-29

2022年10月29日 當山日出夫

講釈場のある風景

中央公論新社(編).『作品集 講釈場のある風景』(中公文庫).中央公論新社.2022
https://www.chuko.co.jp/bunko/2022/10/207274.html

講談というものを生で見たり聞いたりという経験はない。思い起こしてみれば、テレビで昔は講談もときどき放送したりしていたような気もするのだが、はっきりと憶えていない。最近よく見るのは、神田伯山である。だが、講釈師として見るというよりも、テレビ番組のナレーションで登場することが多い。まったく、講談というものが、世の中から姿を消してしまっていると言っても過言ではないかもしれない。まさに「絶滅危惧種」である。

この本は、中公文庫のオリジナル編集である。講釈についての文章……エッセイ、芸談・批評、そして、小説……このようないくつかの文章を集めてある。書き手としては、

夏目漱石
永井荷風
小島政二郎
有竹修二
立川談志
瀬戸内寂聴

まず、夏目漱石の『硝子戸の中』から講釈についてのくだりが取ってある。この作品、なんどか読んでいる本なのだが、幼いころの漱石が、講釈を聞きに通っていたことについて、改めて認識することになる。明治のはじめのころ、漱石が生活していたころ、街中には、講釈を聞ける寄席が、いくつもあったことになる。これは、まさに、再認識ということである。

漱石の作品では、落語は印象に残っている。『三四郞』に登場してくる。それから、『門』では、近所の寄席に出かけるシーンがあったはずである。

ともあれ、この本を読むと、講談というものが、近代において、話芸、芸能の中心的な位置にあったことが理解される。

それと、この本では芸能としての講釈が中心になっているので、講談の速記本のことにあまり触れていない。しかし、近代の大衆の読み物として、講談の速記本が広く読まれたということは、よく知られていることだと思う。(ただ、この種類の本は、図書館などの蔵書としては残りにくいものなので、網羅的な研究がどの程度おこなわれているのか、不案内なところがある。ただ、私が知らないということだけなのかもしれないが。)

講談というものは、近代の庶民文化、読書史、出版史、芸能史において、重要な位置をしめる。考えてみれば、『大菩薩峠』とか、吉川英治の作品などは、講談の延長で考えるべきものかもしれない。

近代の日本の、芸能と出版の歴史において、いろいろと考えるところのある一冊になっている。

2022年10月28日記