『街道をゆく モンゴル紀行』司馬遼太郎/朝日文庫2023-08-01

2023年8月1日 當山日出夫

モンゴル紀行

司馬遼太郎.『街道をゆく モンゴル紀行』(朝日文庫).朝日新聞出版.2008

もとは一九七三年から七四年、「週刊朝日」連載。

一九七三年というと、まだ東西冷戦のまっただなかである。ソ連という国が厳然としてあり、モンゴルもまた社会主義国であった。

この当時、日本から直接モンゴルに行くことはできなかった。いったんソ連に入って、二回乗り換えて、ようやくモンゴルに到達する。その道中が、この当時のソ連とはこんなものだったのかと、今になっては、妙に懐かしく感じられるほど、まさに社会主義的、官僚的、非生産的、非効率的……およそサービスなどという概念が欠如した国であったことが分かる。

言うまでもなく、司馬遼太郎は、今の大阪大学外国語学部、その前は大阪外国語大学、そして、その前の学校で、モンゴル語を学んでいる。随所で、日本語とモンゴル語のことが出てくる。

草原と砂漠の国である。この地に暮らしてきた遊牧民の歴史に思いをはせている。そのスケールが、この文章では大きい。ジンギス・カンのモンゴル帝国、あるいは、それ以前における、中国の周辺にいた遊牧民族のことに話しがおよんでいる。東アジアの歴史を、遊牧民の立場から考えるところがある。この意味では、日本という国を稲作の国としてとらえている、他の「街道をゆく」の日本についてのものと、少しおもむきを異にする。

夜、満天の星空を見て、古来、草原と砂漠の民にとって、自然とはどんなものであったか思うあたりは興味深い。聖母マリアの処女懐胎の話しも、砂漠地帯において、このような星空を見ていれば納得できるものであったと思うあたり、司馬遼太郎の文学的感性が発揮されているところである。

遊牧の民に親近感をいだいているのだが……さて、今のモンゴルはどうなっているであろうか。おそらく、国際情勢として、中国とロシアの間にあってどう生きて行くかという選択になるのであろうし、社会の近代化にともなって、遊牧生活から定住生活に変わってきているのだろうと思う。

まったく個人的なことだが、以前、モンゴルからの留学生を教えたことがある。始めは日本語もたどたどしかったが、そのうち流暢に日本語を話すようになった。教えたのは、二年ほどの間だったが、今はどうしているだろうか。

2023年7月11日記

ドキュメント20min.「ラスト・イニング 宮崎 vs.沖縄」2023-08-01

2023年8月1日 當山日出夫

ドキュメント20min. ラスト・イニング 宮崎 vs.沖縄

私は野球にはほとんど関心がない。プロ野球は実際に見たことがない。テレビでも見ない。高校野球は、夏の間、テレビがついていてたまに見ることがあるくらいである。

高校生のころは京都だった。そのころ、高校野球の、京都と滋賀で代表を決めていた。これが、一県につき一つの学校が基本になるのは、いつからだったろうか。

沖縄がまだアメリカの統治下にあったとき、甲子園に出場することがあった、このことは、この番組を見て始めて知った。(アメリカ統治下において、どれほどのつながりが日本と沖縄の間に具体的にあったのだろうか、これは非常に興味のあることである。)

宮崎に勝って沖縄高校が甲子園に行くことになった。負けた宮崎の高校は、恥だと言われた。沖縄を見下す意識があってのことである。(これも、今の時代になって回顧するから言えることではあるが。)一方、沖縄としても、ヤマトンチュに勝ったという意識でいた。

もう六一年前の話である。

このときの両校のピッチャーの二人が、まだ存命であったということにも驚く。その再開のシーンはいい。

そろそろ高校野球のシーズンである。高校野球の歴史の中にはこのような一コマもあったのか、非常に興味深い番組であった。

2023年7月31日記

『ハンチバック』市川沙央2023-08-02

2023年8月2日 當山日出夫

ハンチバック

市川沙央.『ハンチバック』.文藝春秋.2003

芥川賞である。

この作品については、いろいろな見方ができるだろう。純然とした文学として読むこともできるし、あるいは、著者の置かれた境遇、立場を考えながら読むこともできる。あるいは、障害者という、これまであまり文学作品で描いてこなかったテーマをあつかった作品として読むこともできる。

私としては、著者がどのような人物であるかを考慮しつつも、ただ、これは文学としてすぐれていると言っておきたい。文学とは何か、これは困難な問題であるが、少なくとも、人間とはなんであるかを書いている、このことは確かである。この意味において、この作品は、人間とは何か、それが障害者の視点からということもあるが、普遍的に、人間の本質をうがっている。

人間が、社会の中で生きて行くとはどういうことなのか、あるいは、「身体性」とはなんであるのか、さまざまに考えるところがある。

なお私は、この作品を紙の本で読んだ。見ると、Kindle版もある。Kindleは持っているが、ここ数年使ったことがない。やはり紙の本で読みたいと思う。

2023年8月1日記

バリバラ「芥川賞作家と考える「愛と憎しみの読書バリアフリー」」2023-08-03

2023年8月3日 當山日出夫

バリバラ 芥川賞作家と考える「愛と憎しみの読書バリアフリー」

録画してあったものである。まず、『ハンチバック』を読んでからと思って、後日に見た。

番組の趣旨とはちょっとずれることになるかもしれないが、ここで提起された問題は、テキストとは何か、という問題をはらんでいる。

例えば『源氏物語』。今、この作品を写本や板本のくずし字のテキストで読む読者は、一部の研究者だけである。その研究者でも、普通に読むのは、現代の活字校訂本である。変体仮名を通行の仮名(活字)にして、適宜、漢字をあてたり、句読点をおぎなったりしてある。また、段落ごとに改行して区切ってある。小学館とか岩波などが出している古典の校注テキストである。

現代の校注テキストになった段階で、原文(無論、紫式部が書いたものではなくどれも後世の写本などになるが)、の情報をそのまま伝えてはいない。ひょっとすると大事なものが抜け落ちてしまっているのかもしれない。

だが、それでも、今一般に読むのは、現代の活字校注本においてである。

これで、『源氏物語』のテキストの本質をとらえることができるだろうか。しかし、テキストの本質が残っているとしなければ、現代の古典の研究も読書もなりたたない。

同じようなことは、『万葉集』にも、『古事記』にもいえる。いや、これらの作品になると、もっと事情は複雑である。

さて、書いた作品を、電子的なプレーンテキストで提供することに、何の問題があるのだろうか。紙の本ではなくなったからといって、伝えることのできないようなものは、果たしてその作品の本質的部分なのだろうか。

作家のなかには、自分の作品は、特定の印刷会社で組版したものであることを要求している人もいる。これはこれでいいとして、では、電子的なプレーンテキストになったとき、その作品がそこなわれると言えるだろうか。

これは、日本語のみならず、ことばというものにたずさわっている人間が考えなければならない問題である。昔、PCやワープロが普及し始めたころ、テキストとは何かという問題が一部で議論されたと経験的には思っている。これが、現代の各種のデジタル機器の発達をうけて、新たな段階の議論として、再度検討されなければならないことであると思う。

2023年8月2日記

ザ・バックヤード「高知県立のいち動物公園 第2弾」2023-08-04

2023年8月4日 當山日出夫

ザ・バックヤード 高知県立のいち動物公園 第2弾

第2弾は、動物の健康管理の舞台裏。動物たちの体重測定とか、血液検査とかである。なるほど動物園では、このようにして動物たちの面倒を見ているのかと思う。まずは、体重計に乗ってくれたり、採血させてくれたりするために、そのトレーニングから始めることになる。このような工夫があることを、始めて知った。

ハイエナにしても、カワウソにしても、キリンにしても、おとなしく飼育員のいうことをきいている。

コウモリの健康管理は大変である。年に一回、一斉捕獲ということになっているらしい。いつ生まれたものなのか、マークをつける。このような仕事があっての動物園なのである。

この動物園には一度行ってみたい気がする。

2023年8月3日記

神田伯山のこれがわが社の黒歴史「カルビー 夢の製造ラインの誤算」2023-08-05

2023年8月5日 當山日出夫

神田伯山のこれがわが社の黒歴史 カルビー 夢の製造ラインの誤算

さて、これは、製品そのものの失敗というべきか、あるいは、製造ラインのミスによるものか、どうなるのだろう。

薬膳をお菓子にするというアイデアは悪くないと思う。(ただ、私はお菓子の類をほとんど食べないので、なんとも言えないが。)

やはりミスであったのは、製造ラインの設計と、期間の短縮、ということになるのだろう。カッターで切れない、うまく並ばない、結局は手作業で対応ということになった。

もし、これを今からもう一度作るとしたら、どうなるだろうか。

それから、番組では触れていなかったが、この商品の発売は、ちょうど東日本大震災のときのことになる。これも影響しただろうか。

2023年8月3日記

ドキュメント72時間SP 全国うどん自販機の旅 群馬編2023-08-05

2023年8月5日 當山日出夫

ドキュメント72時間SP 全国うどん自販機の旅 群馬編

このてのうどん自販機を作っている会社はもうないとすると、全国にある自販機については、NHKが調べてみたということなのだろう。まだ残って稼働している機械があること、また、それにお客さんが来ることを考えるならば、今の時代にあった新しい自販機を作るメーカーが出てきてもよさそうに思う。だが、それではやはりだめなのかもしれない。古風な自販機であってこその味というべきだろうか。

ただうどんの自販機で購入して食べている人を取材して話しを聞くだけのことなのだが、これが面白い。いろんな人がいるものである。群馬県の地方をめぐる旅ではあるが、そこにはその地域ならではの事情もあり、様々な人びとが暮らしている。

いまふうのことばでいえば、人びとの生活の多様性と言っていいのかと思う。

2023年8月4日記

『らんまん』あれこれ「ヒメスミレ」2023-08-06

2023年8月6日 當山日出夫

『らんまん』第18週「ヒメスミレ」

この週ではいろんなことがあった。

印象に残るのは、万太郎が田邊教授に植物学教室への出入りを禁じられたことである。これは、史実として、牧野富太郎はたしかに東大植物学教室に出入りを禁じられているので、これをなぞっている。

その理由は、考えるところがある。帝国大学理科大学教授という田邊の立場と、まったくの在野であり学歴のない万太郎である。しかし、植物学者としての才能はある。ただ、それだけのことだったら、田邊は出入り禁止にはしなかったろう。おそらくそこの背景にあるのは、万太郎の、純粋な植物への愛情、純真無垢な気持ち、天真爛漫さ、というものであろうかと思う。これは、おそらく田邊教授の生き方と、相容れないものである。といよりも、まったく別の世界のものと言っていいだろうか。

このあたりは、学者の世界によくある反目や嫉妬とはちょっと次元の違った何かであったと感じさせる描写になっていた。

それから、土佐の峰屋のこと。これも史実としては、牧野富太郎は実家はつぶれてしまうということであった。このドラマでは、酒蔵として、酒造りに失敗したということになっていた。さて、これから、綾と竹雄はどう生きていくことになるだろうか。

園子が死んでしまった。明治のはじめのころである。乳幼児死亡率はきわめて高い。子供が死ぬということは、そう珍しいことではなかったはずであるが、しかし、このドラマでは哀切をこめて描いていた。

さて、次週、綾と竹雄もさらに登場するようだ。楽しみに見ることにしよう。

2023年8月5日記

ドキュメント72時間「大阪コリアタウンで会いましょう」2023-08-06

2023年8月6日 當山日出夫

ドキュメント72時間 大阪コリアタウンで会いましょう

近鉄の鶴橋の駅は、たまに大阪に行くときに通ったり、乗り換えにつかったりする。しかし、この駅で降りて街を歩いたということはあまりない。

生野区のコリアタウンである。私の世代の感覚からすると、韓国、朝鮮に対する日本の人びとの感覚は大きく変わってきたことを感じる。それと同時に、韓国、朝鮮の人びとの日本に対する感覚も変わってきている。(ただし、北朝鮮のことについては、よくわからないでいるというのが実際ではあるが。)

私が朝鮮語を勉強したのは、大学生のとき。そのころ、学部では朝鮮語の授業がなかったので、慶應義塾外国語学校の授業を履修した。国語学、日本語の歴史を勉強するのに、朝鮮語の知識は必須だと思ったからである。しかし、このころ、国文学、国語学を勉強する学生で、朝鮮語を学ぼうという学生はほとんどいなかった。

それが近年では、日本語学を勉強しようというならば、朝鮮語、中国語の知識は不可欠というふうに、おおかたの認識が変わってきている。

そして、最近、韓国という国も、普通の外国の国として、多くの人びとに意識されるようになってきている。番組のなかで印象的だったのは、差別とういのは、一方的なものではないということへの言及である。双方の意識の問題というところもある。それが、このところ変わってきていることはたしかだろう。

なお、私は、言語の名称としては、朝鮮語ということにしている。ハングルというのは文字の名称である。

2023年8月5日記

『どうする家康』あれこれ「新たなる覇者」2023-08-07

2023年8月7日 當山日出夫

『どうする家康』第30回「新たなる覇者」

本能寺の変の後の天下はどうなるのか。歴史の結果はわかっているのだが、そこにいたる過程をどう面白く描くかが歴史ドラマであろう。

ここにきて、秀吉と家康の対立ということになる。そこにお市がからんでくる、という構図である。また、茶々がこの回から登場してきている。

見ていてよかったのはお市の方。これまでの戦国時代ドラマのなかで、もっとも魅力的なお市の方であったかもしれない。また、幼いときの家康とのかかわりも、この回の伏線として生きてきている。

このドラマにおける茶々は、お市の方の娘、その遺志をうけつぐものとして存在している。今後どんな淀君が出てくることになるだろうか。

いよいよこれから、天下をめぐってドラマは展開することになる。戦国時代ドラマとしては、次のステージなる。家康と秀吉がこれからどうなるか、楽しみに見ることにしよう。

2023年8月6日記