「“ゲノム編集ベビー誕生”の裏で」2024-02-03

2024年2月3日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー “ゲノム編集ベビー誕生”の裏で

二〇二二年、アメリカの制作。

ゲノム編集ベビーが中国で生まれたことは、ニュースで知ったのを憶えている。そのときは、日本では、非常に厳しい批判があったと記憶する。このとき、中国でならやりかねない、と感じたのが率直な気持ちであった。

実行したのは、中国の科学者の賀建奎であった。ここで問題なのは、彼が特段に優れた技術を持っていたということではない。すでに一般的に技術的には可能であった。それを実行したかどうか、ということである。

ゲノム編集ベビーについては、倫理的に大きな壁があることは確かである。

だが、一方でこうも思う。技術的に可能なことを実現してきたのが人間の歴史ではなかったのか、と。今の時点では、倫理的に問題とされることであっても、いずれ多くの人が、受け入れる時代が来るのかもしれない。そして、それは意外と早くおとずれるかもしれない。

体外受精の技術も、それが出現したときは大きな議論の的であった。しかし、今日では多くの人がそれを認めている。

人口減少が危惧されるなか、どのような人間が生きのびるべきなのか、さしせまった問題としてあることも確かである。

また、中国のゲノム編集ベビーの件については、中国の当局も知っていた、あるいは、世界の関係する科学者も知っていた……ということらしい。容認していた。だが、公表して後、ことが大きくなりすぎたので、否定的な対応をすることになった。このところについて、番組では明言を避けているようだったが。たまたま、誰がその最初の一人になるか、というだけの問題だったのかもしれない。

遺伝子にかかわる疾患だけを問題にしてスタートしたとしても、それはやがて、他の領域にも拡大されることは確かであると思わざるをえない。

ところで、人間にとって遺伝子とはなんであるのか。ここでは、遺伝子決定論というべき発想が基本にあることになる。その一方で、どのような環境で育つかということも考慮にいれなければならない。

そして、同時に、社会の階層化がすすみ、高度な医療……遺伝子操作をふくめて……にアクセスできる人びとと、そうではない人びとを生み出すことにもなる。はたして、人間は、どのようにして平等であり自由なのか。あらためて、根本的なところから考えなおしていかなければならない。これは科学だけの問題ではなく、人間とは何であるかを追求する、人文学の課題でもある。

子供が生まれるのも、また人が病気になり、そして死ぬのも、天の摂理として甘受してきたのが人間の歴史である。そこに宗教が生まれ哲学が生まれた。昔の方が、人間は幸福に生きてきたのかもしれないと思わないでもない。無論、現在の方がいいという面があることも否定はしないのだが。

2024年2月1日記

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