『ブギウギ』「ワテかて必死や」 ― 2024-02-18
2024年2月18日 當山日出夫
『ブギウギ』第20週「ワテかて必死や」
朝ドラを見るとき、気にかけていることがある。終戦から戦後の風俗についての描写である。具体的には、玉音放送をどう描くか、ということがある。また、戦後の闇市などの描写で、パンパンが登場するかどうか、ということもある。
これまでの朝ドラで、パンパンが重要な役割を担っていたものとしては、『カーネーション』を思い出す。だが、その他の朝ドラの場合、パンパンを映すということがそもそも無いという作品もあった。そのような女性をドラマの画面に映すことへの抵抗があったということなのかもしれない。
『ブギウギ』では、珍しく(と言っていいだろう)、パンパンの女性たちが、ストーリーの重要な役割を与えられて登場していた。彼女たちにも、そのような境遇に身をおくことになった理由がある。そのようにしか生きるしかなかった時代でもある。生きていくためには、好きでもない男に抱かれなければならない。それを無かったことにする、ということは私はあまり好きではない。
それにしても、パンパンの女性たちの服装は、実際はどうだったのだろうかと思う。ドラマに映る女性たちは、そのファッションを見ただけで、すぐにそれと分かる。特に、頭のスカーフが特徴的である。このあたりのことについて、実証的に研究したものがあるのかどうか、私は知らない。
有楽町界隈のパンパンの親分のおミネ(田中麗奈)がよかった。
それから、この週で印象に残っているのは、タイ子。スズ子と別れて東京に行ってから不幸がつづいたようだ。が、この時代、タイ子のような人生を送った人びとも、たくさんいたにちがいない。靴磨きの達彦も、戦後の時代にあっては、珍しくなかっただろう。(そういえば、このごろでは、街を歩いていても、靴磨きという人を見かけなくなったと思うのだが、どうだろうか。)
タイ子は脚気だという。脚気はかつては日本においてごく普通の病気の一つであった。今の知識からすれば、栄養さえ十分にとっていれば大丈夫である。そういえば、『おしん』でも、おしんは脚気で倒れたことがあったかと思い出す。
「ジャングル・ブギー」の舞台もよかった。ドラマのなかでは名前は出てきていなかったが、この曲の作詞は、黒澤明である。
次週は、また茨田りつ子が登場するようだ。タナケンも出てくるらしい。楽しみに見ることにしよう。
2024年2月17日記
『ブギウギ』第20週「ワテかて必死や」
朝ドラを見るとき、気にかけていることがある。終戦から戦後の風俗についての描写である。具体的には、玉音放送をどう描くか、ということがある。また、戦後の闇市などの描写で、パンパンが登場するかどうか、ということもある。
これまでの朝ドラで、パンパンが重要な役割を担っていたものとしては、『カーネーション』を思い出す。だが、その他の朝ドラの場合、パンパンを映すということがそもそも無いという作品もあった。そのような女性をドラマの画面に映すことへの抵抗があったということなのかもしれない。
『ブギウギ』では、珍しく(と言っていいだろう)、パンパンの女性たちが、ストーリーの重要な役割を与えられて登場していた。彼女たちにも、そのような境遇に身をおくことになった理由がある。そのようにしか生きるしかなかった時代でもある。生きていくためには、好きでもない男に抱かれなければならない。それを無かったことにする、ということは私はあまり好きではない。
それにしても、パンパンの女性たちの服装は、実際はどうだったのだろうかと思う。ドラマに映る女性たちは、そのファッションを見ただけで、すぐにそれと分かる。特に、頭のスカーフが特徴的である。このあたりのことについて、実証的に研究したものがあるのかどうか、私は知らない。
有楽町界隈のパンパンの親分のおミネ(田中麗奈)がよかった。
それから、この週で印象に残っているのは、タイ子。スズ子と別れて東京に行ってから不幸がつづいたようだ。が、この時代、タイ子のような人生を送った人びとも、たくさんいたにちがいない。靴磨きの達彦も、戦後の時代にあっては、珍しくなかっただろう。(そういえば、このごろでは、街を歩いていても、靴磨きという人を見かけなくなったと思うのだが、どうだろうか。)
タイ子は脚気だという。脚気はかつては日本においてごく普通の病気の一つであった。今の知識からすれば、栄養さえ十分にとっていれば大丈夫である。そういえば、『おしん』でも、おしんは脚気で倒れたことがあったかと思い出す。
「ジャングル・ブギー」の舞台もよかった。ドラマのなかでは名前は出てきていなかったが、この曲の作詞は、黒澤明である。
次週は、また茨田りつ子が登場するようだ。タナケンも出てくるらしい。楽しみに見ることにしよう。
2024年2月17日記
フランケンシュタインの誘惑E+「強制終了 人工知能を予言した男」 ― 2024-02-18
2024年2月18日 當山日出夫
フランケンシュタインの誘惑E+ 「強制終了 人工知能を予言した男」
二〇一九年の放送の再放送である。
ChatGPTが登場したのが、一昨年、二〇二二年の秋のことだった。その翌年、二〇二三年から、ChatGPTの話題でもちきりになり、本もいくつか出た。その何冊かは買った。今でも、その流れ、生成AIについては議論が続いている。同様の番組を今つくるとなると、違った方向からのものになるかもしれない。
この番組を、今の時点で再放送する意味は確かにあると思う。少なくとも二〇一九年の時点では、AIはさしせまった人類の脅威にはなっていなかった。
なかで、人工知能学会の倫理規定が紹介されていたことは、興味深い。
番組の終わりで、チューリングの予言が紹介されていた。いずれ、AIが人間を凌駕するときがくるだろう。
ところで、私がAIと言って思い浮かべるのは、映画『2001年宇宙の旅』における、HAL9000である。(このあたりは、生まれた年代の差ということなのかもしれないが。)
AIについての議論はこれからも盛んになっていくにちがいない。いや、人間とは何かということを考えるとき、もはやAIのことを抜きにして考えることはできなくなったと言ってもいいだろう。
ところで、この番組で面白かったのは、ドイツの使った暗号機「エニグマ」のこと。これを解読したのが、チューリングということになる。エニグマの仕組みの説明は分かるのだが、エンコードは分かるが、それをデコードする仕組みが、今一つ分からない。このあたりは、私に暗号についての知識が無いからということになるのだが。
知能とは何かを考えるとき、「チューリング・テスト」だけで考えていいのだろうか、ということが課題であるかとも思う。「知能」「知識」「意識」についてどう考えればいいのか、混乱しているが今の時代かもしれない。そうこうしているうちに、シンギュラリティーが現実のものになるかもしれない。
2024年2月16日記
フランケンシュタインの誘惑E+ 「強制終了 人工知能を予言した男」
二〇一九年の放送の再放送である。
ChatGPTが登場したのが、一昨年、二〇二二年の秋のことだった。その翌年、二〇二三年から、ChatGPTの話題でもちきりになり、本もいくつか出た。その何冊かは買った。今でも、その流れ、生成AIについては議論が続いている。同様の番組を今つくるとなると、違った方向からのものになるかもしれない。
この番組を、今の時点で再放送する意味は確かにあると思う。少なくとも二〇一九年の時点では、AIはさしせまった人類の脅威にはなっていなかった。
なかで、人工知能学会の倫理規定が紹介されていたことは、興味深い。
番組の終わりで、チューリングの予言が紹介されていた。いずれ、AIが人間を凌駕するときがくるだろう。
ところで、私がAIと言って思い浮かべるのは、映画『2001年宇宙の旅』における、HAL9000である。(このあたりは、生まれた年代の差ということなのかもしれないが。)
AIについての議論はこれからも盛んになっていくにちがいない。いや、人間とは何かということを考えるとき、もはやAIのことを抜きにして考えることはできなくなったと言ってもいいだろう。
ところで、この番組で面白かったのは、ドイツの使った暗号機「エニグマ」のこと。これを解読したのが、チューリングということになる。エニグマの仕組みの説明は分かるのだが、エンコードは分かるが、それをデコードする仕組みが、今一つ分からない。このあたりは、私に暗号についての知識が無いからということになるのだが。
知能とは何かを考えるとき、「チューリング・テスト」だけで考えていいのだろうか、ということが課題であるかとも思う。「知能」「知識」「意識」についてどう考えればいいのか、混乱しているが今の時代かもしれない。そうこうしているうちに、シンギュラリティーが現実のものになるかもしれない。
2024年2月16日記
最近のコメント