「“あの日”を語る料理店」 ― 2024-03-14
2024年3月14日 當山日出夫
ドキュメント20min. “あの日”を語る料理店
二〇一一年三月一一日、午後はテレビを見ていた。でなければ、書斎の机のPCの前にいた。そのころ、Twitterのユーザであったので、そのメッセージを読んでいた。(そのころのTwitterは、もはや存在しない。ある種の公共性というべきものを失ってしまった。)
これは再放送してくれてもいい番組だと思う。
特に悲惨な震災、津波の被害の状況が語られるということではないが、しかし、見ていて非常に共感するものがある。あのとき、何を食べていたのか。逆に、食べ物にまつわる記憶もある。
今年の三月一一日は、たまたま家にいない日だったので、テレビはほとんど見ていない。たぶんいくつかの特集番組はあったと思うが、録画する気もしないので録画していない。
ただ、この番組は、気をつけて録画しておいて見るようにしていたので、後日見た。この番組のことは、私のこれからの生活のなかで記憶に残るものの一つになっていくことだろう。これから笹かまぼこを食べることがあると、この番組のことを思い出すことになるだろうかと思う。
2024年3月13日記
ドキュメント20min. “あの日”を語る料理店
二〇一一年三月一一日、午後はテレビを見ていた。でなければ、書斎の机のPCの前にいた。そのころ、Twitterのユーザであったので、そのメッセージを読んでいた。(そのころのTwitterは、もはや存在しない。ある種の公共性というべきものを失ってしまった。)
これは再放送してくれてもいい番組だと思う。
特に悲惨な震災、津波の被害の状況が語られるということではないが、しかし、見ていて非常に共感するものがある。あのとき、何を食べていたのか。逆に、食べ物にまつわる記憶もある。
今年の三月一一日は、たまたま家にいない日だったので、テレビはほとんど見ていない。たぶんいくつかの特集番組はあったと思うが、録画する気もしないので録画していない。
ただ、この番組は、気をつけて録画しておいて見るようにしていたので、後日見た。この番組のことは、私のこれからの生活のなかで記憶に残るものの一つになっていくことだろう。これから笹かまぼこを食べることがあると、この番組のことを思い出すことになるだろうかと思う。
2024年3月13日記
「舟を編む ~私、辞書つくります」(4) ― 2024-03-14
2024年3月14日 當山日出夫
舟を編む ~私、辞書つくります~
辞書を机の前に立てておくとき、上下を逆にすることの解説からはじまった。これは、このドラマの最初の回でもそうだった。そのことについて、書いてみたのだが、ドラマのなかで、ここにきて説明があった。
ただ、辞書は、ビニールのカバーを外して裸にした方が使いやすい。箱を棄てるのはもちろんである。手に取ったときの感触まで含めて、辞書は表紙の素材なども考えてあるものである。
河童であるが、私が思い出すのは、水木しげるの「河童の三平」と、それから酒の黄桜のCMぐらいだろうか。とっくりをもっていたかどうかまで、はっきりとは憶えていない。
辞書のイラストの問題だが、紙の辞書においてということで考えると、ドラマで描いていたようになるだろう。これも、今のデジタル辞書の世界では、紙面という物理的な制約がないので、多様なイラストや写真を掲載することも可能になっている。WEB上には様々なイラストや写真がある。そして、これからのAIの時代では、それらを学習して提示することになるのだが、そこにある偏りがあることが問題になる。(さて、今のAIに河童やアルパカの絵を描けと命じた場合、どんな絵を描くことになるだろうか。)
『大渡海』では誤用という説明は避ける方針のようである。そのかわりに俗用ということにする。これを、国語学、日本語学的に言いかえるならば、辞書が規範的であるか記述的であるか、ということになる。一般の利用者が辞書にもとめるものは、規範があることは確かである。しかし、ことばの研究者、観察者としては、記述的にとらえたい。この問題は、辞書をめぐっては、これからも議論のつづくテーマであるだろう。
「こだわる」ということばについては、いわゆる正しい本来の用法と、現在普通に使われる用法とで、意味が逆になってしまっている例として、よく知られているものである。今の使い方を誤用とするのは、記述的な立場からはためらうことになるはずである。
余計なことかもしれないが、ドラマのなかに出てくる編集部には、大漢和の新しい版(修訂版)が映っていない。二〇一七年の設定なら、新しい大漢和がおいてあってもいいだろう。
国文科という名称が出てきたが、現在、国文科という名前を使っている大学はわずかしかない。ほとんどが日本文学科に名称変更している。その前に、国語学会が日本語学会に名前を変えている。ただ、見出し語の認定というのはかなり専門的知識がいることなので、学生アルバイトだけでは無理かもしれないと思うがどうだろうか。
他社の国語辞典の見出しのチェックであるが、厳密な作業としては、これは複数の人間の目で見て、ダブルチェックしないといけない。ここのところは省略してあったということだろうか。
2024年3月13日記
舟を編む ~私、辞書つくります~
辞書を机の前に立てておくとき、上下を逆にすることの解説からはじまった。これは、このドラマの最初の回でもそうだった。そのことについて、書いてみたのだが、ドラマのなかで、ここにきて説明があった。
ただ、辞書は、ビニールのカバーを外して裸にした方が使いやすい。箱を棄てるのはもちろんである。手に取ったときの感触まで含めて、辞書は表紙の素材なども考えてあるものである。
河童であるが、私が思い出すのは、水木しげるの「河童の三平」と、それから酒の黄桜のCMぐらいだろうか。とっくりをもっていたかどうかまで、はっきりとは憶えていない。
辞書のイラストの問題だが、紙の辞書においてということで考えると、ドラマで描いていたようになるだろう。これも、今のデジタル辞書の世界では、紙面という物理的な制約がないので、多様なイラストや写真を掲載することも可能になっている。WEB上には様々なイラストや写真がある。そして、これからのAIの時代では、それらを学習して提示することになるのだが、そこにある偏りがあることが問題になる。(さて、今のAIに河童やアルパカの絵を描けと命じた場合、どんな絵を描くことになるだろうか。)
『大渡海』では誤用という説明は避ける方針のようである。そのかわりに俗用ということにする。これを、国語学、日本語学的に言いかえるならば、辞書が規範的であるか記述的であるか、ということになる。一般の利用者が辞書にもとめるものは、規範があることは確かである。しかし、ことばの研究者、観察者としては、記述的にとらえたい。この問題は、辞書をめぐっては、これからも議論のつづくテーマであるだろう。
「こだわる」ということばについては、いわゆる正しい本来の用法と、現在普通に使われる用法とで、意味が逆になってしまっている例として、よく知られているものである。今の使い方を誤用とするのは、記述的な立場からはためらうことになるはずである。
余計なことかもしれないが、ドラマのなかに出てくる編集部には、大漢和の新しい版(修訂版)が映っていない。二〇一七年の設定なら、新しい大漢和がおいてあってもいいだろう。
国文科という名称が出てきたが、現在、国文科という名前を使っている大学はわずかしかない。ほとんどが日本文学科に名称変更している。その前に、国語学会が日本語学会に名前を変えている。ただ、見出し語の認定というのはかなり専門的知識がいることなので、学生アルバイトだけでは無理かもしれないと思うがどうだろうか。
他社の国語辞典の見出しのチェックであるが、厳密な作業としては、これは複数の人間の目で見て、ダブルチェックしないといけない。ここのところは省略してあったということだろうか。
2024年3月13日記
最近のコメント