「シリーズ原発事故2024(1)最新報告 汚染水・処理水との戦い」2024-03-15

2024年3月15日 當山日出夫

サイエンスZERO シリーズ原発事故2024 (1)最新報告 汚染水・処理水との戦い

今年も三月になると様々な震災関係の番組が放送される。そのなかにあって、この番組はやはり独自の視点から教えてくれるところがある。

まず第一に、「汚染水」と「処理水」の違い。世の中には、処理水のことを汚染水と言うことで、あえて不安をあおるむきの言説もある。しかし、これは区別しなければならないだろう。すくなくとも、ALPS処理水が、地下水を原因として発生する汚染水とは違う性質のものであることは、基本的に区別して議論する必要がある。それを一緒にして、汚染水と言ってしまうと、その先の議論ができない。仮に政治的立場から汚染水ということはあってもいいとしても、その概念の区別は絶対に必要である。

第二には、ALPS処理水にともなって発生するスラリーの問題。これは、今までの報道で伝えられてこなかった部分である。たぶん、今後のことを考えると、トリチウムをふくんだ処理水よりも、スラリーの方がより重大な課題になるかと思われる。

技術的な課題としては、ALPS処理水からトリチウムを取り除く研究も進められている。また、スラリーをセメントで固める方法の研究もある。まったく将来の展望が無いというわけではない。

番組では語っていなかったが、廃炉については、石棺方式という意見がある。これで地下水の流れを止めることができるならいいかもしれないが、いくら上から固めてしまっても地下を流れる水があるなら汚染水は発生する。それを処理水にすることはどうしても必要になるだろう。その処理として、海洋放出ということも避けて通ることはできない。

こういった視点で原子力発電所の廃炉の問題を考えるというのは、サイエンスZEROならではの、番組の作り方かと思う。

ところで、(もう隠居した立場からのことになるのだが)このような研究分野にこれからの若い人たちは、どの程度の関心をもっているのだろうか。放射性物質の管理という問題は、これからの人間の社会にとって欠かせないことである。おおきなビジネスにつながるということはないかもしれないが、科学と技術、それが社会とどうかかわるかという観点からは、重要な研究課題である。

2024年3月14日記

「私は“生きている” 進化する人型ロボット」2024-03-15

2024年3月15日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー 私は“生きている” 進化する人型ロボット

二〇二二年、イギリスの制作。

もとのタイトルは、「CYBORG SOCIETY」。これは番組のなかで使われることばである。現代社会は、人間とテクノロジーが融合した社会になっている。もし機械の部分だけをとりのぞいてしまったら、人間は生きていくことができない。

今や大多数の人間が手元にスマートフォンを持ち、それがないと生活に支障をきたすまでになっている。(私は、いろいろ考えていまだにスマートフォンを持たないで暮らしているのだが)

ChatGPTが登場したのが二〇二二年の終わりのころであった。かなり大きくメディアに取りあげられたのを憶えている。しかし、私が見た限りでは、日本のメディア、特にテレビなどでの報道は、レベルが低すぎる、という印象であった。こんなに自然な日本語の文章で答えを返してくる、あるいは、逆に、こんな質問には間違ってしまう、まだ生成AIを信用することはできない……まあ、だいたいこんなふうな議論であった。生成AIを活用するとしても、普通の人間とはまた異なった視点からの答えを出すことが可能である、といった程度のことであった

AIについて語るとき、それは、人間の意識とはなんであるか、生と死を分けるものはなんであるのか、人間の人間たるゆえんはどこにあるのか、人間にとって自由意志はなにか……きわめて思弁的な問いかけをはらむ。この番組では、それに解答を出すということはしてない。いや、AIはまだまだ進歩し続けるので、将来のことは分からないのだが、近い未来において、いや今もうすでに、人間とテクノロジーの融合した社会になっているので、これはまさに考えなければならない課題として提示している。

興味深いことのひとつは、AIを作った研究者でさえも、AIがどのような答えを出してくるのか予想できない、ということである。たしかにコンピュータがプログラミングによって動いているのだが、AIはもはやプログラミングの支配下にはない。

今の科学の知見からするならば、人間の本質を考えるのは、脳にもとめるか、遺伝子にもとめるか、ということになる。これは、私としても特に異論があるわけではない。少なくとも生物としての人間についてはそうである。

(番組では語っていなかったが)しかし、人間は社会的に成長して人間となる。その教育の過程で、言語を習得して母語とし、歴史的、文化的、気候風土的な、さまざまな環境のなかで大人になる。これらを超越した「人間」というものを考えることができるのだろうか、と私は思うのである。

人間が死んで、その死体、あるいは、脳を冷凍保存する事業がある。そのようなことが行われているということは知識としては知っていたのだが、実際にどのように行われているのかをテレビの画面で見たのは初めてになる。そのように判断して自分の死体や脳を冷凍保存するという人がいてもいいとは思う。まあ、私としては、普通に死んでいくのがいいと思うのだけれども。

そういえば、昔、子どものころ、テレビで見た「鉄腕アトム」のことを思い出した。アニメのなかで、ロボットに人権を認めるべきかどうかという議論がなされていた。かつての奴隷のように働かされているロボットに、人間と同じような権利を認めるべきかどうか、まさに、かつての黒人奴隷を彷彿とさせるものであったかと記憶する。この議論に真っ向からとりくまなければならない時代に今はなっている。

AIと人間のこと、あるいは人間にとってテクノロジーとはいったい何であるのか、人間と社会の本質がどう変化してきたのか、問いかけなければならない時代であるということを考えさせる番組であった。

2024年3月8日記

サンシュユ2024-03-15

2024年3月15日 當山日出夫

今日(2024年3月15日)のサンシュユ。

サンシュユ

サンシュユ

サンシュユ

サンシュユ

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD