『光る君へ』「進むべき道」 ― 2024-04-01
2024年4月1日 當山日出夫
『光る君へ』第13回「進むべき道」
この回で、紫式部は彰子と出会ったということになる。女房として出仕するのは、もっと後のことになるが。
やはり気になったのは、文字のこと。
文字が読めないばかりに子どもを売ることになってしまった、ということなのだが、この場面で出てきた文書は、漢字カタカナ文であった。常識的な日本語の文字と表記についての知識としては、この時代、一〇世紀の末、まだこのような形式の文書が一般に書かれたとは考えにくい。このあたりは、ドラマとして見ておけばいいということなのだろうが。
また、まひろは、市井の人びとに文字を教えようとしている。平安時代、京の都とはいえ、一般庶民が文字の読み書きを必要としたとは、思えないのであるが、このあたりはどうだろうか。また、『源氏物語』に出てくる、貴族ではない一般庶民の姿は、かなり見下した価値観で書かれている。まあ、これは、『源氏物語』の読者である上流の貴族層の意識を反映したものということになるのかもしれないが。
リテラシー、読み書きが出来ることが幸福である、というのは、あまりに近代的な価値観であるかもしれない。
仮名の練習として、「あめつち」が登場したのは妥当というべきか。
倫子は、道長が持っていた文を見つける。それは、昔、まひろが道長に送った漢詩を書いたものである。それを見て、倫子は、女性が書いたものではないか、と言っていた。筆跡を見て、書き手が男性か女性か判断したことになる。
昔、学生のころ、古文書学の授業で先生が言っていた。文書の文字を見て、それが男性が書いたものか、女性が書いたものか、判断できなければならない。現在、書いた筆跡で男女を論じようものなら、批判的な目で見られかねない時代なのであるが、しかし、筆跡の男女差というのはあってもおかしくはない。(ワープロやスマートフォンで文章をつづる現代でも、その用語、用字、文体などから、書き手を判別することは出来る可能性がある。)
ところで、このドラマを見ていて思うことの一つとして、宮中の天皇の玉座がちょっとショボいような気がしてならない。画面で見るかぎり、兼家の住まいの方が、天皇よりも豪華である。さて、実際に平安時代の宮中で天皇は、どんなふうにしていたのだろうか。
平安時代の貴族の婚姻のシステムは、どうも分かりにくい。そこに、安易に現代の男女の感情を投影してみるということは、避けるべきことかもしれない。いや、そうではなく、どのような婚姻のシステムであろうと、男女の愛憎の気持ちは普遍的なものである、と見ることもできるのだが。だからこそ、『源氏物語』が今にいたるまで読み継がれているのである。
それにしても、定子が出てくるとどうしても「ていし」と読んでしまう。たぶん、見ている人のかなりがそうかもしれない。彰子は、私の頭のなかでは「しょうし」である。
2024年3月31日記
『光る君へ』第13回「進むべき道」
この回で、紫式部は彰子と出会ったということになる。女房として出仕するのは、もっと後のことになるが。
やはり気になったのは、文字のこと。
文字が読めないばかりに子どもを売ることになってしまった、ということなのだが、この場面で出てきた文書は、漢字カタカナ文であった。常識的な日本語の文字と表記についての知識としては、この時代、一〇世紀の末、まだこのような形式の文書が一般に書かれたとは考えにくい。このあたりは、ドラマとして見ておけばいいということなのだろうが。
また、まひろは、市井の人びとに文字を教えようとしている。平安時代、京の都とはいえ、一般庶民が文字の読み書きを必要としたとは、思えないのであるが、このあたりはどうだろうか。また、『源氏物語』に出てくる、貴族ではない一般庶民の姿は、かなり見下した価値観で書かれている。まあ、これは、『源氏物語』の読者である上流の貴族層の意識を反映したものということになるのかもしれないが。
リテラシー、読み書きが出来ることが幸福である、というのは、あまりに近代的な価値観であるかもしれない。
仮名の練習として、「あめつち」が登場したのは妥当というべきか。
倫子は、道長が持っていた文を見つける。それは、昔、まひろが道長に送った漢詩を書いたものである。それを見て、倫子は、女性が書いたものではないか、と言っていた。筆跡を見て、書き手が男性か女性か判断したことになる。
昔、学生のころ、古文書学の授業で先生が言っていた。文書の文字を見て、それが男性が書いたものか、女性が書いたものか、判断できなければならない。現在、書いた筆跡で男女を論じようものなら、批判的な目で見られかねない時代なのであるが、しかし、筆跡の男女差というのはあってもおかしくはない。(ワープロやスマートフォンで文章をつづる現代でも、その用語、用字、文体などから、書き手を判別することは出来る可能性がある。)
ところで、このドラマを見ていて思うことの一つとして、宮中の天皇の玉座がちょっとショボいような気がしてならない。画面で見るかぎり、兼家の住まいの方が、天皇よりも豪華である。さて、実際に平安時代の宮中で天皇は、どんなふうにしていたのだろうか。
平安時代の貴族の婚姻のシステムは、どうも分かりにくい。そこに、安易に現代の男女の感情を投影してみるということは、避けるべきことかもしれない。いや、そうではなく、どのような婚姻のシステムであろうと、男女の愛憎の気持ちは普遍的なものである、と見ることもできるのだが。だからこそ、『源氏物語』が今にいたるまで読み継がれているのである。
それにしても、定子が出てくるとどうしても「ていし」と読んでしまう。たぶん、見ている人のかなりがそうかもしれない。彰子は、私の頭のなかでは「しょうし」である。
2024年3月31日記
「中島みゆき 〜映像に命をふきこむ歌〜」 ― 2024-04-01
2024年4月1日 當山日出夫
NHK MUSIC SPECIAL 中島みゆき 〜映像に命をふきこむ歌〜
テレビで歌番組を見ることはほとんどないのだが、これは録画しておいて見た。四月から「新プロジェクトX」の主題歌が、再び「地上の星」が使われることをうけてのものであろう。
番組の内容としては、これまでの中島みゆきの歌のなかから、テレビドラマの主題歌として作られたものを、順番に紹介するということであった。
私は、中島みゆきのアルバムCDは、全部持っているつもりでいる。少なくとも今手に入るものは買ってある。すべてWalkmanに入れている。形式はFLAC。
どの歌も常日頃からなじんでいるものばかりである。
このような形で、ドラマの主題歌となった曲を続けて聞くと、やはり中島みゆきの歌にある、「抵抗の精神」とでもいうべきものを感じる。時流にながされず、自分のあり方を見つめる姿勢というべきだろうか。それから、自分のアイデンティティを求めてさすらうこころ、というべきだろうか。
「地上の星」もいいが、私としては「ヘッドライト・テールライト」の方が好きである。
なお、私が最も好きな中島みゆきの曲は、「肩に降る雨」である。この曲を好きだという人は、どれほどいるだろうか。
2024年3月29日記
NHK MUSIC SPECIAL 中島みゆき 〜映像に命をふきこむ歌〜
テレビで歌番組を見ることはほとんどないのだが、これは録画しておいて見た。四月から「新プロジェクトX」の主題歌が、再び「地上の星」が使われることをうけてのものであろう。
番組の内容としては、これまでの中島みゆきの歌のなかから、テレビドラマの主題歌として作られたものを、順番に紹介するということであった。
私は、中島みゆきのアルバムCDは、全部持っているつもりでいる。少なくとも今手に入るものは買ってある。すべてWalkmanに入れている。形式はFLAC。
どの歌も常日頃からなじんでいるものばかりである。
このような形で、ドラマの主題歌となった曲を続けて聞くと、やはり中島みゆきの歌にある、「抵抗の精神」とでもいうべきものを感じる。時流にながされず、自分のあり方を見つめる姿勢というべきだろうか。それから、自分のアイデンティティを求めてさすらうこころ、というべきだろうか。
「地上の星」もいいが、私としては「ヘッドライト・テールライト」の方が好きである。
なお、私が最も好きな中島みゆきの曲は、「肩に降る雨」である。この曲を好きだという人は、どれほどいるだろうか。
2024年3月29日記
ザ・バックヤード「東京動物専門学校」 ― 2024-04-02
2024年4月2日 當山日出夫
ザ・バックヤード 東京動物専門学校
こういう学校があることを、この番組で初めて知った。いわれてみれば、動物園の飼育員さんたちは、どういう教育をうけてその職についているのだろうかと思う。
二八〇種の動物がいる。ちっちゃな動物園より数が多い。そのすべての動物の飼育を体験しないといけない。
まず留意しなければいけないことが、動物は危険なものであるということ。ホワイトタイガーを飼っているのも、そのためだという。
試験として、餌作りがあるというのは面白い。マニュアルを見ながらやっているのかと思っていたのだが、そうではなく、動物ごとに決められた食材があり、それを切る大きさも決まっている。それを暗記していないといけない。
薪割りもする。ロープも結ぶ。畑で農作業もする。動物の飼育にかかわるあらゆることを学ぶことになる。
この番組は、次年度も続くようだ。続けて見ることにしようと思う。
2024年3月30日記
ザ・バックヤード 東京動物専門学校
こういう学校があることを、この番組で初めて知った。いわれてみれば、動物園の飼育員さんたちは、どういう教育をうけてその職についているのだろうかと思う。
二八〇種の動物がいる。ちっちゃな動物園より数が多い。そのすべての動物の飼育を体験しないといけない。
まず留意しなければいけないことが、動物は危険なものであるということ。ホワイトタイガーを飼っているのも、そのためだという。
試験として、餌作りがあるというのは面白い。マニュアルを見ながらやっているのかと思っていたのだが、そうではなく、動物ごとに決められた食材があり、それを切る大きさも決まっている。それを暗記していないといけない。
薪割りもする。ロープも結ぶ。畑で農作業もする。動物の飼育にかかわるあらゆることを学ぶことになる。
この番組は、次年度も続くようだ。続けて見ることにしようと思う。
2024年3月30日記
「古代メキシコ 失われた文明の謎」 ― 2024-04-02
2024年4月2日 當山日出夫
フロンティア 古代メキシコ 失われた文明の謎
マヤ文明については、その名前を知っているぐらいである。学校の教科書に出てきていたのを憶えている。スペインにほろぼされた、中央アメリカの古代文明というぐらいの認識でいた。
正確な天文の知識を持っていたことが分かるという。また、それが、古代におこった日蝕に関連するらしい。考古学的な発掘から、古代の人びとの世界観はどんなものだったか、考えることになる。
発掘された人骨から、DNAを分析することは、現在では普通に行われることになっているかと思うのだが、これも近年になって手法が進化している。その人のDNAの全貌を解読することも可能になる。
それによって、古代メソアメリカの文明をになった人びとがどこからやってきたのか、たどることが可能になる。生贄が行われていたが、その生贄になった人びとと、支配層であった人びととの関係も明らかにすることができる。DNAとしては、ことなる集団ということらしい。
年縞を調査することによって、古代の気象が分かる。メソアメリカ文明が衰退した時期は、大きな気候変動があった時期ということになる。
この番組は、人文学と自然科学と、両方の視点を融合させようとして作っているようだ。人間にとって文明とは何か、問いかけるところがある。
ところで、番組の最初の方で出てきていた、一次文明。古代に、その地域独自に花開いた文明である。マヤ文明もそうだし、メソポタミア文明などもそうである。では、これらの文明をになった人びとは、どこから来て、そして、どこに行ったのか……たぶん、地球規模でのホモ・サピエンスの痕跡とDNAの調査から、総合的に考える、そのような学問の時代が、もうそこまできている。あるいは、すでに始まっているということになるのだろう。そしてそれは、旧来の「人種」とか「民族」とかの概念に根本的な変革をせまるものになるだろう。その学問的成果をどう考えるかは、社会の問題でもある。
スペインがアステカから持ち去った金は、ローマの教会で装飾に使われている。これを見て、文明の歴史は、そう簡単に白黒つけられるものではない、と語っていたのが印象に残る。
番組の内容とは関係ないかもしれないが、三方五湖にある年縞博物館には行ってみたいと思う。ここでは、過去七万年の年縞を見ることができる。ホモ・サピエンスの歴史である。
2024年3月30日記
フロンティア 古代メキシコ 失われた文明の謎
マヤ文明については、その名前を知っているぐらいである。学校の教科書に出てきていたのを憶えている。スペインにほろぼされた、中央アメリカの古代文明というぐらいの認識でいた。
正確な天文の知識を持っていたことが分かるという。また、それが、古代におこった日蝕に関連するらしい。考古学的な発掘から、古代の人びとの世界観はどんなものだったか、考えることになる。
発掘された人骨から、DNAを分析することは、現在では普通に行われることになっているかと思うのだが、これも近年になって手法が進化している。その人のDNAの全貌を解読することも可能になる。
それによって、古代メソアメリカの文明をになった人びとがどこからやってきたのか、たどることが可能になる。生贄が行われていたが、その生贄になった人びとと、支配層であった人びととの関係も明らかにすることができる。DNAとしては、ことなる集団ということらしい。
年縞を調査することによって、古代の気象が分かる。メソアメリカ文明が衰退した時期は、大きな気候変動があった時期ということになる。
この番組は、人文学と自然科学と、両方の視点を融合させようとして作っているようだ。人間にとって文明とは何か、問いかけるところがある。
ところで、番組の最初の方で出てきていた、一次文明。古代に、その地域独自に花開いた文明である。マヤ文明もそうだし、メソポタミア文明などもそうである。では、これらの文明をになった人びとは、どこから来て、そして、どこに行ったのか……たぶん、地球規模でのホモ・サピエンスの痕跡とDNAの調査から、総合的に考える、そのような学問の時代が、もうそこまできている。あるいは、すでに始まっているということになるのだろう。そしてそれは、旧来の「人種」とか「民族」とかの概念に根本的な変革をせまるものになるだろう。その学問的成果をどう考えるかは、社会の問題でもある。
スペインがアステカから持ち去った金は、ローマの教会で装飾に使われている。これを見て、文明の歴史は、そう簡単に白黒つけられるものではない、と語っていたのが印象に残る。
番組の内容とは関係ないかもしれないが、三方五湖にある年縞博物館には行ってみたいと思う。ここでは、過去七万年の年縞を見ることができる。ホモ・サピエンスの歴史である。
2024年3月30日記
「舟を編む ~私、辞書つくります~」(7) ― 2024-04-03
2024年4月3日 當山日出夫
舟を編む ~私、辞書つくります~ (7)
ドラマのなかで、「遣らずの雨」が出てきていた。今では、普通に使うことばではない。ことばとしては知っていたが、その使用例に実際に接したのはひょっとすると、始めてかもしれない。このことばを憶えたのは高校生のときである。NHKの夜のドラマで、『若い人』を放送したことがある。石坂洋次郎の小説が原作である。主演は松阪慶子。北海道の女学校の生徒の役である。ヒロインの名前は江波恵子。ドラマのなかで「やらずのあめ」と言っていたのを記憶している。ただ、このことばは、原作なかには出てこない。原作の小説は、だいたい一〇年おきぐらいに読み返すことにしている本である。今まで何度か読んできている。
テレビを見ていて(録画であるが)、久しぶりに、『若い人』のことを思い出した。
辞書のデータ整理にXMLを使うのは、常識のうちだろう。ただ、データがXMLで記述されている、あるいは、マークアップされているからといって、そのまますぐにデジタルの辞書になるわけではない。そのデータの加工の手間暇も辞書の制作コストのうちである。
このドラマで言うデジタルの辞書とは、どんなものなのだろうか。ジャパンナレッジのようなWEB版課金システムなのか。そのアクセスのためのキーが、紙の辞書と一緒についてくるということであるのか。あるいは、DVD版、USBメモリ版のようなパッケージなのだろうか。大漢和のように。このあたりのことが明確にならないと、ただデジタルの利便性と言っても、はっきりしないところがある。
紙の辞書はもうからないかもしれない。では、デジタル辞書ならもうかるかというと、どうだろうか。自前でサーバを管理運営するのは、かなりコストがかかるだろう。ならば、ジャパンナレッジに乗り込んでしまおうというのが、現実のデジタル辞書の世界であるようにも思える。
それから、製紙の用語として、a価、b価とあったが、なるほど、こういうところに使うのかと思ったところでもある。これは、Lab系の色彩表示の方法である。(これについて書くと、かなり色彩学の専門的な議論になるが。)色彩をあつかうには、RGBよりも、Lab(L*a*b*)の方が扱いやすいし、ヒストグラムを作ると、三次元空間に立体的に把握することができる。
余計なことかもしれないが、雑誌がWEBになってRGBだから色が表示できると、ドラマのなかであったのは、ちょっと短絡的である。厳密には、ディスプレイの機能、画像データの作り方によって、扱えるRGBは同じではない。PCで見ることが前提ならば、sRGBということになると思うが。
この先、このドラマがどの方向に向かうかは分からないが、デジタル辞書の良さの一つは、ユニバーサルデザインに向いていることである。たとえば、紙の重い辞書を、身体に障害のある人が使うにはハードルがある。また、視覚障害のある人のためには、デジタル版が必須といっていいだろう。こういう側面も、デジタルの辞書の利点として、考えるべきだと私は思っている。
2024年4月1日記
舟を編む ~私、辞書つくります~ (7)
ドラマのなかで、「遣らずの雨」が出てきていた。今では、普通に使うことばではない。ことばとしては知っていたが、その使用例に実際に接したのはひょっとすると、始めてかもしれない。このことばを憶えたのは高校生のときである。NHKの夜のドラマで、『若い人』を放送したことがある。石坂洋次郎の小説が原作である。主演は松阪慶子。北海道の女学校の生徒の役である。ヒロインの名前は江波恵子。ドラマのなかで「やらずのあめ」と言っていたのを記憶している。ただ、このことばは、原作なかには出てこない。原作の小説は、だいたい一〇年おきぐらいに読み返すことにしている本である。今まで何度か読んできている。
テレビを見ていて(録画であるが)、久しぶりに、『若い人』のことを思い出した。
辞書のデータ整理にXMLを使うのは、常識のうちだろう。ただ、データがXMLで記述されている、あるいは、マークアップされているからといって、そのまますぐにデジタルの辞書になるわけではない。そのデータの加工の手間暇も辞書の制作コストのうちである。
このドラマで言うデジタルの辞書とは、どんなものなのだろうか。ジャパンナレッジのようなWEB版課金システムなのか。そのアクセスのためのキーが、紙の辞書と一緒についてくるということであるのか。あるいは、DVD版、USBメモリ版のようなパッケージなのだろうか。大漢和のように。このあたりのことが明確にならないと、ただデジタルの利便性と言っても、はっきりしないところがある。
紙の辞書はもうからないかもしれない。では、デジタル辞書ならもうかるかというと、どうだろうか。自前でサーバを管理運営するのは、かなりコストがかかるだろう。ならば、ジャパンナレッジに乗り込んでしまおうというのが、現実のデジタル辞書の世界であるようにも思える。
それから、製紙の用語として、a価、b価とあったが、なるほど、こういうところに使うのかと思ったところでもある。これは、Lab系の色彩表示の方法である。(これについて書くと、かなり色彩学の専門的な議論になるが。)色彩をあつかうには、RGBよりも、Lab(L*a*b*)の方が扱いやすいし、ヒストグラムを作ると、三次元空間に立体的に把握することができる。
余計なことかもしれないが、雑誌がWEBになってRGBだから色が表示できると、ドラマのなかであったのは、ちょっと短絡的である。厳密には、ディスプレイの機能、画像データの作り方によって、扱えるRGBは同じではない。PCで見ることが前提ならば、sRGBということになると思うが。
この先、このドラマがどの方向に向かうかは分からないが、デジタル辞書の良さの一つは、ユニバーサルデザインに向いていることである。たとえば、紙の重い辞書を、身体に障害のある人が使うにはハードルがある。また、視覚障害のある人のためには、デジタル版が必須といっていいだろう。こういう側面も、デジタルの辞書の利点として、考えるべきだと私は思っている。
2024年4月1日記
「もしものプライス あの歴史全力で見積もってみた!」 ― 2024-04-03
2024年4月3日 當山日出夫
もしものプライス あの歴史全力で見積もってみた!
テレビの番組表でたまたま見つけたので録画しておいた。なかなか面白かった。まあ、どこまで信用できるかということについては、疑問に思わないでもないが、しかし、江戸時代の参勤交代がいかに大変なことであったか分かる。
仙台藩の場合、参勤交代の片道だけで、だいたい数億円の費用がかかったということでいいのだろう。そして、帰りの道中もある。さらには、江戸の藩邸の維持費用その他、経費は膨大なものになったと考えられる。
このあたり、日本の近世史研究では、どのように研究されているのだろうか。最新の歴史学の知見も知りたいところである。
参勤交代があることで、道中で落としてくれる金をめあてにしていた小藩があったというのは、面白い。
ともあれ、参勤交代ということで、日本中の交通、通信のインフラ整備、また、道中での様々な消費活動、さらには、江戸と地方の往復による人とモノの様々な交流、これらを総合的に考えるならば、決してマイナスばかりだったとはいえないことになる。
近世の封建制度の歴史のみならず、経済、文化、社会、広範囲にわたって考える価値のあることになる。
少なくとも数百人規模の集団が道中を旅したことになる。その旅行のプランをたたて実行するという実務能力もまた、歴史的に評価していいのではないかと思う。
番組の中に出てきていた、甲冑を作る職人。いまでも作る人がいるということに、ちょっと驚いた。修理をする人はいるだろうと思ってはいたのだが。
2024年3月31日記
もしものプライス あの歴史全力で見積もってみた!
テレビの番組表でたまたま見つけたので録画しておいた。なかなか面白かった。まあ、どこまで信用できるかということについては、疑問に思わないでもないが、しかし、江戸時代の参勤交代がいかに大変なことであったか分かる。
仙台藩の場合、参勤交代の片道だけで、だいたい数億円の費用がかかったということでいいのだろう。そして、帰りの道中もある。さらには、江戸の藩邸の維持費用その他、経費は膨大なものになったと考えられる。
このあたり、日本の近世史研究では、どのように研究されているのだろうか。最新の歴史学の知見も知りたいところである。
参勤交代があることで、道中で落としてくれる金をめあてにしていた小藩があったというのは、面白い。
ともあれ、参勤交代ということで、日本中の交通、通信のインフラ整備、また、道中での様々な消費活動、さらには、江戸と地方の往復による人とモノの様々な交流、これらを総合的に考えるならば、決してマイナスばかりだったとはいえないことになる。
近世の封建制度の歴史のみならず、経済、文化、社会、広範囲にわたって考える価値のあることになる。
少なくとも数百人規模の集団が道中を旅したことになる。その旅行のプランをたたて実行するという実務能力もまた、歴史的に評価していいのではないかと思う。
番組の中に出てきていた、甲冑を作る職人。いまでも作る人がいるということに、ちょっと驚いた。修理をする人はいるだろうと思ってはいたのだが。
2024年3月31日記
「映像記録 東京裁判」 ― 2024-04-04
2024年4月4日 當山日出夫
映像の世紀バタフライエフェクト 映像記録 東京裁判
小林正樹監督の映画「東京裁判」は見た。そのころ東京に住んでいた。映画館に行ったのを憶えている。
「映像の世紀」として東京裁判をとりあげるとなると、私の世代では、どうしても映画で見たことを思い出してしまう。私が映画を見て最も印象に残っているシーンは、絞首刑判決を聞かされたときの広田弘毅の姿であった。ちらりと傍聴席を見上げたときのことが、深くこころに残っている。そこには、娘たちが傍聴にきていたはずである。映画を見たとき一番印象に残ったシーンであったが、「映像の世紀」でもこの場面を大きくとりつかっていた。
東京裁判を、今の時代に「映像の世紀」として取りあげる意味はいったいどこにあるのだろうか、という気がしていた。東京裁判については、特に、新しい映像資料があるというものではない。
たしかに、その解釈や歴史的意義をめぐっては、今日まで様々に議論のある裁判である。
強いて私なりに思うことを書いてみるならば、次のようになるだろうか。
第一には、昭和天皇の責任を問うことがなかったことである。歴史学の立場からするならば、昭和天皇に「ベトー」(否)ということはできなかったというのが、常識的な見解だろう。とはいえ、政治的、法的に責任がないことと、そのまま天皇の地位にいつづけることとは、また違うとも、どうしても思えてならない。もし、昭和天皇が退位ということでけじめをつけることがあったとしたら、その後の日本の政治はまた変わったものになっただろうと思う。(ただ、私は、現在の象徴天皇制を否定するものではない。このような形で天皇制を受け継ぐことは、結果的には良かったことであると思っている。もし、天皇制を廃止するということになったなら、おそらく元天皇、皇族という人たちの処遇についてどうするのがいいのか、非常に深刻な問題をかかえこむことになったにちがいない。極端な場合、天皇制復活をとなえるウルトラナショナリズムの再来ということもあり得たかと思うが、これは考えすぎだろうか。)
第二には、いわゆる東京裁判史観というものをめぐる議論である。いまだに東京裁判を不当であると考える人もいる。一方、東京裁判を受け入れることによって、戦後の民主的な政治制度が確立したと、肯定的に考える人もいる。私としては、それが勝者が敗者を裁くという歪んだものであったにせよ、しかし、それを否定してしまっては、建設的な議論にはならないと考える。強いていえば、そのような形を受け入れることによってしか、日本の歩むべき道はないと考えるということになるであろうか。東京裁判の結果としてもたらされた戦後民主主義が「虚妄」であるとしても、それにかけるしかない。
ざっと以上のようなことを考えてみる。
少なくとも、東京裁判をめぐっては、さまざまに議論があるべきだとは思っている。
ところで、「映像の世紀」としての番組の新しさとしては、ドイツでのニュルンベルク裁判と比較していたことである。これはどうかなと思うところがある。そもそも、ナチスのドイツと、戦前の日本では、政治の統治のシステムが大きくことなる。特に、天皇制のもとにおける政治の責任については、考えるべきところが多い。
戦争犯罪は、抽象的な国家ではなく、その指導者の個人の責任である、という法理は現在どれほど一般的になっているのだろうか。このところについて、現在の法律、政治についての見解がどうであるのか、言及があるとよかったと思う。
そして、戦争犯罪のその後の事例として、ベトナム戦争を示すのは、どうなのだろうか。といって、今のパレスチナの様子で示すべきだとは思わないけれど。このあたりの判断は、番組の制作としてかなり考えたうえでのことかもしれない。
余計なことかもしれないが、東京裁判史観というものを肯定的に考えるとしても、歴史の「もしも」として、あの時代、アメリカがどのような外交をしていれば、太平洋戦争を防ぐことができただろうかと考えてみることも、意味のないことではないと思っている。一面的に、日本の侵略主義を悪として断罪するだけでは、歴史から学ぶものは少ないだろう。
2024年4月2日記
映像の世紀バタフライエフェクト 映像記録 東京裁判
小林正樹監督の映画「東京裁判」は見た。そのころ東京に住んでいた。映画館に行ったのを憶えている。
「映像の世紀」として東京裁判をとりあげるとなると、私の世代では、どうしても映画で見たことを思い出してしまう。私が映画を見て最も印象に残っているシーンは、絞首刑判決を聞かされたときの広田弘毅の姿であった。ちらりと傍聴席を見上げたときのことが、深くこころに残っている。そこには、娘たちが傍聴にきていたはずである。映画を見たとき一番印象に残ったシーンであったが、「映像の世紀」でもこの場面を大きくとりつかっていた。
東京裁判を、今の時代に「映像の世紀」として取りあげる意味はいったいどこにあるのだろうか、という気がしていた。東京裁判については、特に、新しい映像資料があるというものではない。
たしかに、その解釈や歴史的意義をめぐっては、今日まで様々に議論のある裁判である。
強いて私なりに思うことを書いてみるならば、次のようになるだろうか。
第一には、昭和天皇の責任を問うことがなかったことである。歴史学の立場からするならば、昭和天皇に「ベトー」(否)ということはできなかったというのが、常識的な見解だろう。とはいえ、政治的、法的に責任がないことと、そのまま天皇の地位にいつづけることとは、また違うとも、どうしても思えてならない。もし、昭和天皇が退位ということでけじめをつけることがあったとしたら、その後の日本の政治はまた変わったものになっただろうと思う。(ただ、私は、現在の象徴天皇制を否定するものではない。このような形で天皇制を受け継ぐことは、結果的には良かったことであると思っている。もし、天皇制を廃止するということになったなら、おそらく元天皇、皇族という人たちの処遇についてどうするのがいいのか、非常に深刻な問題をかかえこむことになったにちがいない。極端な場合、天皇制復活をとなえるウルトラナショナリズムの再来ということもあり得たかと思うが、これは考えすぎだろうか。)
第二には、いわゆる東京裁判史観というものをめぐる議論である。いまだに東京裁判を不当であると考える人もいる。一方、東京裁判を受け入れることによって、戦後の民主的な政治制度が確立したと、肯定的に考える人もいる。私としては、それが勝者が敗者を裁くという歪んだものであったにせよ、しかし、それを否定してしまっては、建設的な議論にはならないと考える。強いていえば、そのような形を受け入れることによってしか、日本の歩むべき道はないと考えるということになるであろうか。東京裁判の結果としてもたらされた戦後民主主義が「虚妄」であるとしても、それにかけるしかない。
ざっと以上のようなことを考えてみる。
少なくとも、東京裁判をめぐっては、さまざまに議論があるべきだとは思っている。
ところで、「映像の世紀」としての番組の新しさとしては、ドイツでのニュルンベルク裁判と比較していたことである。これはどうかなと思うところがある。そもそも、ナチスのドイツと、戦前の日本では、政治の統治のシステムが大きくことなる。特に、天皇制のもとにおける政治の責任については、考えるべきところが多い。
戦争犯罪は、抽象的な国家ではなく、その指導者の個人の責任である、という法理は現在どれほど一般的になっているのだろうか。このところについて、現在の法律、政治についての見解がどうであるのか、言及があるとよかったと思う。
そして、戦争犯罪のその後の事例として、ベトナム戦争を示すのは、どうなのだろうか。といって、今のパレスチナの様子で示すべきだとは思わないけれど。このあたりの判断は、番組の制作としてかなり考えたうえでのことかもしれない。
余計なことかもしれないが、東京裁判史観というものを肯定的に考えるとしても、歴史の「もしも」として、あの時代、アメリカがどのような外交をしていれば、太平洋戦争を防ぐことができただろうかと考えてみることも、意味のないことではないと思っている。一面的に、日本の侵略主義を悪として断罪するだけでは、歴史から学ぶものは少ないだろう。
2024年4月2日記
「地図で見える!?生物多様性」 ― 2024-04-04
2024年4月4日 當山日出夫
サイエンスZERO 地図で見える!?生物多様性
番組で紹介されていた地図は、これだろう。
日本の生物多様性情報システム
https://biodiversity-map.thinknature-japan.com/
このプロジェクトの意義は、過去の文献データを調査していることと、それをもとに地図をつくり、空白の部分は、自然環境などを考慮するAIによる予測で埋めていく、ということになるのだろう。その結果、全国的な地図を網羅的に作ることができたことになる。
この地図のプロジェクトも面白いのだが、それよりも住宅会社の五種類の木を庭に植える計画が興味深い。いったいどこの会社なのか、NHKの番組だからということもあるのだろうが、説明はなかった。別にこれは、公開してもいい情報だと思うが。
近年、都市部の再開発なで大規模な計画がある。それをニュースなどで見ると、緑地や公園の整備が含まれていることが多い。では、その緑地に、どのような樹木を植えることになるのだろうか、そして、それは、どのような鳥や虫などを呼び寄せることになるのだろうか。こういうことについては、まったく報道されないといっていい。このあたり、都市の緑化計画の基本姿勢にかかわる問題だと思うが、こういうことは環境省の管轄のおよばないところなのだろうか。
それから、庭に木を植えて鳥を観察している家族。別に批判的に見ようと思っているわけではないが、家の中の映像があると、本棚などに目がいってしまう。小学生の子どものいる家庭としては、子ども向けの本とか辞書とかがリビングの本棚にかなりの数おいてある。かなり教育にコストをかけている家庭であることが理解される。こういう家庭だから、庭に五種類の木を植えるプロジェクトにも参加するということはあるのだろうと思う。
番組を見終わってから、紹介されていたHPにアクセスして、今の自分の住まいのあたりを見てみた。色としてはかなり赤い色のところになる。この状態を保っていかなけれならないと思う。
2024年4月3日記
サイエンスZERO 地図で見える!?生物多様性
番組で紹介されていた地図は、これだろう。
日本の生物多様性情報システム
https://biodiversity-map.thinknature-japan.com/
このプロジェクトの意義は、過去の文献データを調査していることと、それをもとに地図をつくり、空白の部分は、自然環境などを考慮するAIによる予測で埋めていく、ということになるのだろう。その結果、全国的な地図を網羅的に作ることができたことになる。
この地図のプロジェクトも面白いのだが、それよりも住宅会社の五種類の木を庭に植える計画が興味深い。いったいどこの会社なのか、NHKの番組だからということもあるのだろうが、説明はなかった。別にこれは、公開してもいい情報だと思うが。
近年、都市部の再開発なで大規模な計画がある。それをニュースなどで見ると、緑地や公園の整備が含まれていることが多い。では、その緑地に、どのような樹木を植えることになるのだろうか、そして、それは、どのような鳥や虫などを呼び寄せることになるのだろうか。こういうことについては、まったく報道されないといっていい。このあたり、都市の緑化計画の基本姿勢にかかわる問題だと思うが、こういうことは環境省の管轄のおよばないところなのだろうか。
それから、庭に木を植えて鳥を観察している家族。別に批判的に見ようと思っているわけではないが、家の中の映像があると、本棚などに目がいってしまう。小学生の子どものいる家庭としては、子ども向けの本とか辞書とかがリビングの本棚にかなりの数おいてある。かなり教育にコストをかけている家庭であることが理解される。こういう家庭だから、庭に五種類の木を植えるプロジェクトにも参加するということはあるのだろうと思う。
番組を見終わってから、紹介されていたHPにアクセスして、今の自分の住まいのあたりを見てみた。色としてはかなり赤い色のところになる。この状態を保っていかなけれならないと思う。
2024年4月3日記
「植物に学ぶ生存戦略 話す人・山田孝之」(9) ― 2024-04-05
2024年4月5日 當山日出夫
植物に学ぶ生存戦略 話す人・山田孝之 (9)
テレビの番組表を見ていて、たまたま気がついたので録画しておいた。う~ん、NHKのEテレは、面白い番組を作る。
扱っていたのは、トマト、ヒガンバナ、ハクサンカメバヒキオコシ。
トマトが、自家受粉すること、それを、マルハナバチが助けていることは、面白い。(さて、ハウス栽培のトマトなどは、どうやって受粉しているのだろうか。)
ヒガンバナの葉のことは初めて知った。我が家の近くに、ヒガンバナの咲くところは、何ヶ所か確認している。ちょうど秋の彼岸のころに咲く。しかし、花が咲いた後の葉のことは知らなかった。今年は、花の後も注意して見ることにしよう。
ハクサンカメバヒキオコシは興味深い。それよりも、オトシブミの方も面白い。オトシブミの名前は知っていたが、実際にこの昆虫が作った揺籃となった葉っぱは見たことがない。
それにしても、林田理沙アナウンサーと山田孝之の会話というか、コントというか、これが面白い。この次も気がつけば見ることにしよう。
2024年3月31日記
植物に学ぶ生存戦略 話す人・山田孝之 (9)
テレビの番組表を見ていて、たまたま気がついたので録画しておいた。う~ん、NHKのEテレは、面白い番組を作る。
扱っていたのは、トマト、ヒガンバナ、ハクサンカメバヒキオコシ。
トマトが、自家受粉すること、それを、マルハナバチが助けていることは、面白い。(さて、ハウス栽培のトマトなどは、どうやって受粉しているのだろうか。)
ヒガンバナの葉のことは初めて知った。我が家の近くに、ヒガンバナの咲くところは、何ヶ所か確認している。ちょうど秋の彼岸のころに咲く。しかし、花が咲いた後の葉のことは知らなかった。今年は、花の後も注意して見ることにしよう。
ハクサンカメバヒキオコシは興味深い。それよりも、オトシブミの方も面白い。オトシブミの名前は知っていたが、実際にこの昆虫が作った揺籃となった葉っぱは見たことがない。
それにしても、林田理沙アナウンサーと山田孝之の会話というか、コントというか、これが面白い。この次も気がつけば見ることにしよう。
2024年3月31日記
「未解決事件 下山事件」 ― 2024-04-05
2024年4月5日 當山日出夫
NHKスペシャル 未解決事件 下山事件
下山事件のことは知っている。無論、これは私の生まれる前のことであるので、知識として知っていることになる。これについて書かれたものもいくつか読んだことがある。事件の真相は不明、ということだったと記憶する。
NHKとしては、アメリカの謀略という方向で考えたということのようだ。まあ、これはこれで一つの見方であると思う。
ソ連の仕業、と見せかけて、実は、アメリカの仕業であった、……と見せかけて、本当はソ連が背後にいた、ということであっても、驚かない。
ただ、今の時代から見ると、「反共」ということが今ひとつ分かりにくいかもしれない。私の年代だと、東西冷戦の時代が若いころのことだったので、「反共」ということばについては、かろうじて感覚的に分かるところがある。共産主義に対する忌避感もあるが、具体的には、ソ連とそれから中共(今こんな言い方はしないが)を相手としての、覇権争いということになる。
この時代、ソ連シンパの人も多くいた時代である。もうちょっと後のことになるが、毛沢東が礼讃されていた時代でもある。
こういう感覚は、ベルリンの壁の崩壊、東西冷戦の終結により過去のものとなってしまったと言っていいだろう。今の若い人たちには、理解の難しい(イデオロギーというより)「生活感覚」に近いものかと思う。
確かに、その後の日本の歴史を見るならば、アメリカの圧倒的影響力のもとに戦後の歴史を歩んできたということは、否定できないことである。それを、GHQの時代にさかのぼって考えるというのも、一つの歴史観である。
GHQによる占領の時代のことについて、歴史学の方では、今、どのように考えられているのだろうか。私が昔読んだものとしては、江藤淳がこの時代のことについてかなり書いていたのだが、今では、あまり省みられることはないようだ。
ところで、第一部のドラマの方の始まりは、ロッキード事件のことからであった。下山事件とロッキード事件は直接には関係ないだろうが、しかし、ロッキード事件にもアメリカの陰謀説が言われていることは、確かである。児玉誉士夫がかかわっていることは共通するが。(NHKの意図としては、ロッキード事件もアメリカの陰謀と示唆したかったのかもしれない。)
ちなみに、真山仁の『ロッキード』は面白い本だった。(私の世代としては、田中角栄は悪いやつだというイメージで思ってしまうのだが、ちょっと考え方を改める必要があるかもしれない。)
2024年4月4日記
NHKスペシャル 未解決事件 下山事件
下山事件のことは知っている。無論、これは私の生まれる前のことであるので、知識として知っていることになる。これについて書かれたものもいくつか読んだことがある。事件の真相は不明、ということだったと記憶する。
NHKとしては、アメリカの謀略という方向で考えたということのようだ。まあ、これはこれで一つの見方であると思う。
ソ連の仕業、と見せかけて、実は、アメリカの仕業であった、……と見せかけて、本当はソ連が背後にいた、ということであっても、驚かない。
ただ、今の時代から見ると、「反共」ということが今ひとつ分かりにくいかもしれない。私の年代だと、東西冷戦の時代が若いころのことだったので、「反共」ということばについては、かろうじて感覚的に分かるところがある。共産主義に対する忌避感もあるが、具体的には、ソ連とそれから中共(今こんな言い方はしないが)を相手としての、覇権争いということになる。
この時代、ソ連シンパの人も多くいた時代である。もうちょっと後のことになるが、毛沢東が礼讃されていた時代でもある。
こういう感覚は、ベルリンの壁の崩壊、東西冷戦の終結により過去のものとなってしまったと言っていいだろう。今の若い人たちには、理解の難しい(イデオロギーというより)「生活感覚」に近いものかと思う。
確かに、その後の日本の歴史を見るならば、アメリカの圧倒的影響力のもとに戦後の歴史を歩んできたということは、否定できないことである。それを、GHQの時代にさかのぼって考えるというのも、一つの歴史観である。
GHQによる占領の時代のことについて、歴史学の方では、今、どのように考えられているのだろうか。私が昔読んだものとしては、江藤淳がこの時代のことについてかなり書いていたのだが、今では、あまり省みられることはないようだ。
ところで、第一部のドラマの方の始まりは、ロッキード事件のことからであった。下山事件とロッキード事件は直接には関係ないだろうが、しかし、ロッキード事件にもアメリカの陰謀説が言われていることは、確かである。児玉誉士夫がかかわっていることは共通するが。(NHKの意図としては、ロッキード事件もアメリカの陰謀と示唆したかったのかもしれない。)
ちなみに、真山仁の『ロッキード』は面白い本だった。(私の世代としては、田中角栄は悪いやつだというイメージで思ってしまうのだが、ちょっと考え方を改める必要があるかもしれない。)
2024年4月4日記
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