『虎に翼』「男は度胸、女は愛嬌?」2024-06-02

2024年6月2日 當山日出夫

『虎に翼』第9週「男は度胸、女は愛嬌?」

この週で、最初の回にもどったことになる。日本国憲法を、寅子が河原で読むシーンである。

日本国憲法については、様々に議論がある。私の立場としては、憲法もまた歴史の所産である、ということになる。日本国憲法がどのようにして制定され、そして、それが日本に住む人びとの生活や意識にどう影響を与えてきたのか、また、この憲法を今後どうするべきなのか、その時々の国際情勢、国内情勢、いろんな要因によって変わっていくことになる。ただ、「不磨の大典」としてはならないとは思う。

憲法が変わったからといって、それですぐに生活がどうなるわけではない。しかし、寅子は、ここで大きく舵をきることになる。

弟の直明に、家の大黒柱にならなくていい、男がそういう役割を担わなくていいと言う。まあ、確かに憲法にしたがうならばそうなのかもしれないが、現実には無理である。誰かが働かなくては、猪爪家の家計は維持できない。寅子は法律の仕事に復帰しようとするのだが、まだ職が決まったわけではない。これまでの仕事は、マッチであるが、どうも内職という程度の規模である。これでは、直明に帝国大学に行きなさいということにはならないだろうと思うが、どうだろうか。まずは、少なくとも寅子の就職が決まってからのことである。

寅子の言った、男性は一家の大黒柱にならなくてもいい、このことについて、私の見た限りで、X(Twitter)などではほとんど注目があつまっていなかった。本来ならば、女性の権利の主張と、男性の責務からの解放は、一つのことがらであるはずである。だが、男性としての責務からの解放については、反応がなかった。

これは、今にいたるまで、弱い立場にある男性を生み出す一つの要因である。現在にいたるまで、男性だからという責務から自由になっているとはいえない。これは、女性だからということで、不当なあつかいをうけることと同じこととしてつながっているはずのものである。しかし、このところに無関心でいられるというのは、女性の権利を語る人びとの、人間と社会と歴史についての理解の浅さとしか思えない。

直明は岡山の学校に行っていたことになっている。普通に考えれば、旧制の六高である。新しい学校の制度になるまでは、旧制の高校を卒業すれば、概ね希望する大学に進学できたということのようなのだが、戦後の混乱期に実際はどうだったのだろうか。

このあたり、東北帝国大学に進学するという設定でもよかったように思う。東北帝国大学は、日本で最初に女子学生を受け入れた大学である。これは明治大学よりも早い。

父親の直言が亡くなったのだが、その直前に、家族の前で、花江は猪爪家の人間であるということを確認していた。ここは、かなり古風な家族観によるものになるだろう。古い民法の規定ではどうなるのか、ということはこのドラマでは出てきていなかった。

(さかのぼってみることになるが)花江と直道は結婚してから、近所の別の家に住むことになった。一方、寅子は優三と結婚して佐田寅子になってからも、猪爪家に住んでいる。このあたり、ややこの時代としては、不自然かなと感じないではない。まあ、今の時代なら、普通にありうることではあるのだが。ドラマでは描かれていなかったが、書生をしていた優三がそこの家のお嬢さんと結婚して、同じ家に住み続けるというのは、かなり肩身の狭い思いをしただろうと思う。しかし、そのようなことを感じさせないのが、優三の優しさ、ということになる。

このドラマは、いろいろとこれまでの朝ドラとは違った作り方をしている。例えば、寅子が子どもを産むところがなかった。また、玉音放送のシーンがなかった。これは、このような方針であることは理解できる。しかし、なぜそのように作ったのか、疑問に感じないではない。

モデルが三淵嘉子であるとすると、寅子は後に家庭裁判所にかかわることになる。とすれば、母親になることを寅子自身がどう感じるのか、ということは重要な意味があるかもしれない。あるいは、だからこそ、女性が母親であることから距離をおいた立場というのが必要であったのかもしれない。子どもに対する母親の思いというものは、おそらく将来の寅子が家庭裁判所であつかう事案に深くかかわることだろう。

女性=母親、そして、子どもに対する母親の愛情は絶対に正しいという、旧来のステレオタイプから脱却することになるのだろうか。

玉音放送のシーンはあった方がよかったと思う。これは、日本の終戦、敗戦ということを、寅子のみならず、特に穂高や桂場が、どのような思いで迎えたかが、おそらく戦後の活動に影響するだろうと思うからである。場合によっては、降伏文書に調印した日(九月二日)を描くべきだったろうか。法的にはこの方が意味がある。

強いて考えてみるならばであるが、戦時中に法律にたずさわっていた人びと、弁護士や検察官、裁判官などは、戦争に対して責任ということをまったく感じなかったのだろうか。これまでのところ、このドラマでは、この点を全然えがいてきていない。そして、戦争が終わると、法律の専門家として仕事を継続することになる。たしかに、国家としての継続性、安定性のための、法の安定的な運用ということはあるだろう。法の正義と、悪としての戦争は、どう考えるべきなのだろうか。

次週以降、戦後のことになるのだが、戦争に責任を感じる法律家というのは出てくるのだろうか。また、GHQとの関係は描くことになるのだろうか。

2024年6月1日記

ウチのどうぶつえん「模索する動物園」2024-06-02

2024年6月2日 當山日出夫

ウチのどうぶつえん 模索する動物園

これは面白かった。

長崎の動物園で、放し飼いをしているという事例。これは、事前に説明がなければ、お客さんはおどろくだろう。ビーバーが、運ぶ木をえり好みしているのは、なんともいえない。(そういえば、昔、多摩の動物園で孔雀が自由にしているのを見た記憶があるのだが、どうだったのだろうか。)

のとじま水族館の生きものたちをすくう活動は、とてもいいことだと思う。たまたま、今年のお正月の夕方はテレビを見ていて、緊急地震速報から見ていた。地震の被害の様子が気になってはいたものの、水族館がどうなっているのまでは気が回らなかったというのが実際のところである。こういうときに、日本の各地の水族館や動物園が協力しあえるシステムがあるということなのだろう。

対馬のチョウの繁殖は、いろいろと考えるところがある。鹿が増えすぎて、チョウの食べる植物が無くなってしまったということなのだが、鹿による被害のことは、いろいろとニュースなどで目にする。農作物への被害などが主なものとして報じられる。しかし、地域の生態系を破壊するという点では、これも重要な問題かと思う。それにしても、チョウのペアリングは根気のいる仕事である。たぶん、私は、とてもできない。また、卵を生んでもそれを成虫にまで育てるのも大変である。なるほど、こういう仕事もしているのかと思った次第である。

2024年6月1日記