『虎に翼』「女の知恵は鼻の先?」2024-06-09

2024年6月9日 當山日出夫

『虎に翼』第10週「女の知恵は鼻の先?」

近代の法的な家父長制的家族制度というのは、明治になってからできあがったものである、とドラマの中で言っていた。これに対して、X(Twitter)などでは、絶賛されている。

しかし、このようなことは、ちょっと歴史についての知識があれば、当たり前のことである。強いて言うほどのことではない。ましてや、このことについて、まるで鬼の首でも取ったかのようにはしゃぐことではない。

いわゆる「創られた伝統」である。このことの意味することには、慎重でなければならない。これは、本来の意味での保守的な人間こそが、深く考えていることである、と私は思っている。

まず、近代の民族国家、国民国家にとって、「創られた伝統」はその必要があってのものであるということがある。国家、国民、民族の統合の基盤にあるものとして、歴史的に何を意識することになるのか、その具体的な現れの一つである。このようなものは、ドラマで問題にしている家父長制以外にも、たくさんある。身の周りの年中行事や衣食住にかんするもので、伝統的と感じられるものの多くは、近代になってから創出され、あるいは、再定義されたものがある。

「創られた伝統」だから、壊していい、無視していい、というのは、人間とはどんなふうにして生きているものなのか、ということについての、まったく軽薄な考え方である。人間は、そのようにしか生きられないものである、という側面を考えておかなければならない。国家とか民族とか国民とかというものは、そのようなものなのである。そして、人間についてのこのような認識を基本にしてこそ、異なる価値観や伝統や文化を持った他の人びとへの理解と共感がある。ただ観念的に人間の平等を言うだけでは、摩擦を生むだけである。

現在の日本で「創られた伝統」の最たるものは、象徴天皇制である。

しかし、「創られた伝統」に拘束されてはいけない。そのような性質のものでああることを分かったうえで、人びとの生活のなかでどうあるべきか、反省しつづける必要がある。この意味で、戦後になって民主的に民法を改正することに、問題があるわけではない。

さらに、たしかに家父長制は明治になってから法的に決められたことではある。だが、それ以前、旧民法の制定以前の人びとは、いったいどんな暮らし方をしてきたのか、考えてみる必要もある。おそらく現在の、あるいは、ドラマの設定の時代の知見としても、古代から江戸時代まで、決して日本に暮らしてきた人びとの大多数は、必ずしも家父長制的な制度のなかにのみあったのではないだろう。人びとの暮らしの歴史のなかの多様性ということを考えてみてもいいのではないか。

おそらく、江戸時代の武士階層などは、家父長制的制度であっただろう。だが、それ以外の多くの人びとは、実際にはどうだったのだろうか。(分からないというのが本当のところかもしれない。家族制度についての人びとの意識というものは、文献史料には残りにくいものである。学問的には、民俗学とか歴史人口学などの研究領域になるだろう。)

また、ドラマのこれまでをふりかえってみて、旧民法が、寅子の勉強や仕事のさまたげになったということは、まったくなかったはずである。その時代であるにもかかわらず、寅子の法律の道への希望を応援したのは父親である。旧民法にしたがったこととしては、優三と結婚して、姓が猪爪から佐田に変わったことぐらいである。結婚することは、妻として法的に準禁治産者になることを知っていたはずだが、そのことが結婚のさまたげにはなっていなかった。寅子は、むしろ社会的地位を得るために結婚した。法律を学ぶことについても、弁護士になることについても、旧民法の壁にはばまれたということはなかった。弁護士を辞めることにはなったが、このことは、旧民法とは関係ない。結婚して子どものいる女性は仕事をしてはいけない、などという規定があるから辞めたわけではない。(周囲の人びとは、誰も仕事を辞めろとは言っていなかった。寅子が、自分でそう思っただけのことである。)

そもそも、寅子が法律の勉強を始めるきっかけになった場面を思い出してみる。結婚した女性は無能力者であるという発言が教室から聞こえてきて、疑問に思ったということであった。このところも、旧民法が、国民の間にひろく浸透したものであったならば、高等女学校までの当時の女性としてはハイレベルの教育を受けていた寅子が、そのことを知らないはずがない。言いかえるならば、旧民法がどれほど国民の間に浸透していたか、まずこれを疑問視するエピソードになるはずのところである。

法律の制度としてどうあるか、ということと、人びとがどのような生活感覚で暮らしてきたのかという実態とは、別の次元のことがらである。(だからこそ、闇の食糧を食べずに餓死する判事が生まれてくることになる。)

現実には、多くの人びとは法律でがんじがらめの状態で束縛を感じながら生きてきたわけではないし、今でもそうである。

では、法律の規定が、人びとの生活感覚に近いものであればそれでいいのか、となるとまた話しは別問題である。日常生活の一挙手一投足まで法律で決められているような社会を人びとは望むのだろうか。私は、たとえ憲法であっても、それが日常生活の隅々にまで入りこんで人びとの意識や行動を規定するような社会は、まっぴらである。人びとが平和に民主的に暮らすということの理念的基盤は、他にもとめられるべきものであると考える。憲法からスタートするのではなく、憲法がどのような理念のもとに制定されたものでるか、そこをこそ考えるべきである。憲法は権力をしばるものではあるが、同時に、その制定にはなにがしか権力の介在を必要とする。権力と無縁な憲法はありえない。憲法は、宗教の啓典ではないのである。

X(Twitter)ではあまり反応がなかったことの一つに、神保教授のことばがある。未来の理想を追求して今の人びとの生活を破壊するよりも、今目の前にいる人びとのしあわせを考えるべきではないか……このような趣旨であった(この発想は、本来の意味での保守主義……エドマンド・バークのいう……である。脚本はここをきちんとふまえてつくってある)。これは、現在のリベラルの弱点の一つである。この場合、理想の未来こそ大事なのであると、きちんと反論すべきなのである。このとき、寅子は、姓の問題に言及していたが、これは論点のすりかえである(そもそも、姓もまた明治になってからの「創られた伝統」なのであるが、問題視していない)。この発言に、まともに反論できないようでは、現在のリベラルが衰弱したと言われてもしかたがない。

付言するならば、家父長制が「創られた伝統」であり非民主的であるとして否定されるならば、姓もまた、同様に「創られた伝統」であって、どのような親(父または母)から生まれたかを名乗らねばならないことを強制するものであり、非民主的であり個人の自由を制限するものであると否定することもできる。このことについて、夫婦同姓にせよ、別姓にせよ、それを主張するものは合理的に説明しなければならない。なお、現行の民法では、姓を変更することは可能である。これは、三淵嘉子がかかわることになる家庭裁判所の仕事になる。

2024年6月8日

「アポロ13号の奇跡 緊迫の87時間」2024-06-09

2024年6月9日 當山日出夫

アナザーストーリーズ アポロ13号の奇跡 緊迫の87時間

この事故のときのことは記憶している。また、映画はテレビで放送されたのは見た。

見て思うことは、現場の力、とでもいうべきだろうか。NASAの体制が非常に硬直したものであったことは問題だと思うが、それを救ったのはメーカーの現場の技術者たちであったということになる。この番組で描いていたところでは、であるが。そして、これは、映画では出てこなかったことである。

印象に残るのは、船内の二酸化炭素をどうするか。実際に宇宙船の中に何があるのか、使えるものは何なのか、地球にいても完全に把握できていた、というのはやはりすごいことだと思う。

これは、ヒーローの物語としてではなく、現場のエンジニアの知見をどう共有するか、もし事故がおこったとき、どう対応するかということになるかという教訓を得ることができるだろう。

2024年6月8日記