『虎に翼』「女子と小人は養い難し?」 ― 2024-06-16
2024年6月16日 當山日出夫
『虎に翼』第11週「女子と小人は養い難し?」
たまたまのことになるが、『虎に翼』と同時に再放送が始まった過去の朝ドラとして、朝は『オードリー』があり、昼は『ちゅらさん』がある。全部見ているので、どうしても比較して見てしまうところがある。
『ちゅらさん』で、金曜日の放送だったが、一風館の住人の島田さんが病気で倒れてそれを恵里が面倒を見ているとき、島田さんが、あのままオペラを聴きながら死んでしまいたかった、と言った。それに対して恵里は、そんなことはないと反発する。それを聞いていた管理人さんのみづえが、このようなことを言っていた……正しくはないかもしれないけれど、なんとなく分かる気がする、と。
もう私も老人になってしまって、ドラマのなかの島田さんやみづえさんよりも年が上になってしまった(と思う)。そのせいもあるのだが、正しくはないかもしれないが、なんとなく分かる気がする、ということが、実感されるようになってきている。
これは、『虎に翼』で描いていることとは、相容れない考え方である。『虎に翼』では、法の正しさ、それに従うことの意味、法は何のためにあるのか、というようなことが語られる。このような議論は、それはそれとしてきわめて重要であることは理解できる。さらには、法哲学というような分野のことも考えなければならない。
しかし、実際の人間の暮らしのなかにおいては、法的な、あるいは、道徳的な正しさはそうかもしれないが、かならずしも自分の実感としてはそうは感じられないという部分があることは確かである。生きていくうえでの生活感覚とでもいうことができるだろうか。
『虎に翼』というドラマが、一部のファンには好評、いや絶賛されている一方で、それに同調しない人たちもいる。私の見るところ、いずれもドラマのなかで描かれる「正しさ」の主張と、その表現のあり方について、賛同したり、逆に、違和感を感じたりということであるようだ。
正しい、正しくない……その正しさも一つとはかぎらないが……ということと次元を異にして、人びとの生活感覚を描いている部分というと、母親のはると義理の姉になる花江の二人ということになるだろうか。そして、『虎に翼』を絶賛する人たちも、あるいは批判的に見る人たちも、はると花江のことには、あまり関心がないようである。
ところで、ドラマでは、いよいよ家庭裁判所の設立ということになった。寅子は、そこの裁判官になるはずである。
これからドラマのなかで出てくる家庭裁判所は、法の正義をつらぬくというところなのだろうか、ということが気になるところである。家庭の問題にしても、少年事件にしても、法的にはこうなることなのだが、その当事者たちの境遇や心情をおもんぱかってみるならば、必ずしも法にしたがうだけでは解決できないという部分が多いように思うのだが、どうだろうか。
この週で描いていたこととしては、花岡のこととか、轟のこととか、崔香淑のこととか、多岐川のこととか、いろいろあるし、思うところは多々あるのだが、まず何よりも、正しさと人間の情というものをこれからこのドラマはどう描いていくことになるのか、このことが気になっている。たとえ、法は人をしあわせにするためにあるのだと確信しているとしても、その解釈や運用において最後は人の判断によることになるはずである。
2024年6月15日記
『虎に翼』第11週「女子と小人は養い難し?」
たまたまのことになるが、『虎に翼』と同時に再放送が始まった過去の朝ドラとして、朝は『オードリー』があり、昼は『ちゅらさん』がある。全部見ているので、どうしても比較して見てしまうところがある。
『ちゅらさん』で、金曜日の放送だったが、一風館の住人の島田さんが病気で倒れてそれを恵里が面倒を見ているとき、島田さんが、あのままオペラを聴きながら死んでしまいたかった、と言った。それに対して恵里は、そんなことはないと反発する。それを聞いていた管理人さんのみづえが、このようなことを言っていた……正しくはないかもしれないけれど、なんとなく分かる気がする、と。
もう私も老人になってしまって、ドラマのなかの島田さんやみづえさんよりも年が上になってしまった(と思う)。そのせいもあるのだが、正しくはないかもしれないが、なんとなく分かる気がする、ということが、実感されるようになってきている。
これは、『虎に翼』で描いていることとは、相容れない考え方である。『虎に翼』では、法の正しさ、それに従うことの意味、法は何のためにあるのか、というようなことが語られる。このような議論は、それはそれとしてきわめて重要であることは理解できる。さらには、法哲学というような分野のことも考えなければならない。
しかし、実際の人間の暮らしのなかにおいては、法的な、あるいは、道徳的な正しさはそうかもしれないが、かならずしも自分の実感としてはそうは感じられないという部分があることは確かである。生きていくうえでの生活感覚とでもいうことができるだろうか。
『虎に翼』というドラマが、一部のファンには好評、いや絶賛されている一方で、それに同調しない人たちもいる。私の見るところ、いずれもドラマのなかで描かれる「正しさ」の主張と、その表現のあり方について、賛同したり、逆に、違和感を感じたりということであるようだ。
正しい、正しくない……その正しさも一つとはかぎらないが……ということと次元を異にして、人びとの生活感覚を描いている部分というと、母親のはると義理の姉になる花江の二人ということになるだろうか。そして、『虎に翼』を絶賛する人たちも、あるいは批判的に見る人たちも、はると花江のことには、あまり関心がないようである。
ところで、ドラマでは、いよいよ家庭裁判所の設立ということになった。寅子は、そこの裁判官になるはずである。
これからドラマのなかで出てくる家庭裁判所は、法の正義をつらぬくというところなのだろうか、ということが気になるところである。家庭の問題にしても、少年事件にしても、法的にはこうなることなのだが、その当事者たちの境遇や心情をおもんぱかってみるならば、必ずしも法にしたがうだけでは解決できないという部分が多いように思うのだが、どうだろうか。
この週で描いていたこととしては、花岡のこととか、轟のこととか、崔香淑のこととか、多岐川のこととか、いろいろあるし、思うところは多々あるのだが、まず何よりも、正しさと人間の情というものをこれからこのドラマはどう描いていくことになるのか、このことが気になっている。たとえ、法は人をしあわせにするためにあるのだと確信しているとしても、その解釈や運用において最後は人の判断によることになるはずである。
2024年6月15日記
「ヒグマ事件 150年間に何が起きた? 〜なぜ獣害は発生?知られざる生態〜」 ― 2024-06-16
2024年6月16日 當山日出夫
ダークサイドミステリー ヒグマ事件 150年間に何が起きた? 〜なぜ獣害は発生?知られざる生態〜
面白かった。
一番興味深かったのは、残っているヒグマの骨の分析から、過去に何を食べてきたのかが分かるということ。それによると、明治の初めごろまでは、ヒグマは肉食であった。エゾシカやサケなどを食べていたのだろう。それが、北海道に人……この場合は開拓にやってきた人びとということになるが……多く住むようになって、エゾシカは絶滅寸前まで減少し、サケも減少した。その結果、ヒグマは、ドングリなどを食べるようになった。しかし、ヒグマの生物としての体の作り方は、肉食のときのままである。
それが、北海道に多く人が住むようになって、ヒグマの生息域に人間の食べるもの、農作物などが存在するようになると、その味を覚える。また、土葬された人間の死体を食べることも憶える。ヒグマは、人間に近く暮らすようになる。人間を襲うヒグマも希に存在するようになる。
一九九〇年ごろまでは、ヒグマを駆除する目的で山に入りこんで猟をしていたが、それが止めになってしまった。人を恐れることがなくなったヒグマは、食べ物をもとめて人間の居住地に近づく。近づいてエサをあさっていても、それに人間が危害を加えることはない。テレビの取材があっても、それを見ているだけである。
ヒグマは学習能力が高いので、一度憶えた味をもとめて人間のところに近づくことを憶えてしまうと、それを繰り返すようになる。
結局、人間とヒグマは共存できない……というのが、この番組の結論ということになる。せいぜい広い地域で、棲み分けることぐらいである。きれいごととして、人間と野生動物の共存の可能性を考えるという、普通の番組の作り方とは違っている。だからといって、北海道のヒグマを全面的に駆除してしまえばいいというわけではないのだが。
2024年6月12日記
ダークサイドミステリー ヒグマ事件 150年間に何が起きた? 〜なぜ獣害は発生?知られざる生態〜
面白かった。
一番興味深かったのは、残っているヒグマの骨の分析から、過去に何を食べてきたのかが分かるということ。それによると、明治の初めごろまでは、ヒグマは肉食であった。エゾシカやサケなどを食べていたのだろう。それが、北海道に人……この場合は開拓にやってきた人びとということになるが……多く住むようになって、エゾシカは絶滅寸前まで減少し、サケも減少した。その結果、ヒグマは、ドングリなどを食べるようになった。しかし、ヒグマの生物としての体の作り方は、肉食のときのままである。
それが、北海道に多く人が住むようになって、ヒグマの生息域に人間の食べるもの、農作物などが存在するようになると、その味を覚える。また、土葬された人間の死体を食べることも憶える。ヒグマは、人間に近く暮らすようになる。人間を襲うヒグマも希に存在するようになる。
一九九〇年ごろまでは、ヒグマを駆除する目的で山に入りこんで猟をしていたが、それが止めになってしまった。人を恐れることがなくなったヒグマは、食べ物をもとめて人間の居住地に近づく。近づいてエサをあさっていても、それに人間が危害を加えることはない。テレビの取材があっても、それを見ているだけである。
ヒグマは学習能力が高いので、一度憶えた味をもとめて人間のところに近づくことを憶えてしまうと、それを繰り返すようになる。
結局、人間とヒグマは共存できない……というのが、この番組の結論ということになる。せいぜい広い地域で、棲み分けることぐらいである。きれいごととして、人間と野生動物の共存の可能性を考えるという、普通の番組の作り方とは違っている。だからといって、北海道のヒグマを全面的に駆除してしまえばいいというわけではないのだが。
2024年6月12日記
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