『虎に翼』「家に女房なきは火のない炉のごとし?」 ― 2024-06-23
2024年6月23日 當山日出夫
『虎に翼』「家に女房なきは火のない炉のごとし?」
あいかわらずこのドラマは、一部の人びとには絶賛されているようなのだが、私としてはいろいろと不満に思うところがある。はっきり言ってこのドラマは作り方、脚本、演出が雑になってきていると感じる。
まず、寅子は法律家のはずである。戦災孤児の問題を法律の問題としてはどうあつかうことになるのか、まったく描かれなかった。おそらくは身元の特定、場合によっては戸籍の作成ということも必要になっただろう。犯罪があったとしても、少年法によってどう対処することになるのか、ということもある。ここで家庭裁判所の仕事がどうであるのか、ということになるはずだと思うのだが、法律的な部分には寅子はまったくかかわっていなかった。ドラマの作りかた、脚本としても、ここのところはまったく無視していた。
寅子は道男を家につれて帰るのだが、まったく個人の善意、あるいは、おせっかいである。事前に自分の家族に何の相談もない。大学生の道明は昼間は留守にしているから、家にいるのは母(はる)と花江と子供たちである。このような家に、非行少年(スリにかかわっているということは寅子は見て知っている)を連れてくるという設定は、どう考えてもありえないと思う。
道男の年齢は、一六~七ということだったということのようだったが、家庭裁判所の判事補でもある寅子としては、まずするべきは身元の特定、年齢の確認、ということのはずである。それをまったくしてない。これを省いて、最終的には寿司屋の仕事につくということになった。だが、この当時、道男の年齢ならば、法的に少年であっても、中学卒業以上の年齢であり、まずするべきは、働きさきを見つけることであったろう。それと、住むべきところを探すのは、ワンセットでないと意味がない。
戦災孤児のことは寅子と猪爪家のこととしてではなく、寅子の家庭裁判所での仕事として描くべきことであったと私は思う。
それから、気になったのは多岐川のことば。国や法はひっくりかえる、そんなもののために死んではならない、という意味のことを言っていた。これは、アナーキストの言う台詞なら理解できるが、現に公務員であり法曹にかかわる人間の言うべきことばではない。
確かに日本は戦争に敗れた。大きく社会の価値観は変わった。それについての証言や体験談は数多くある。だが、日本という国家の連続性は保たれたのも事実である。天皇は残ったし、政府の組織も残った。今の憲法は、手続き上は、古い大日本帝国憲法の改正ということで成立している。寅子のかかわった新しい民法も、旧民法の改正という形をとっていたはずである。ゼロから作ったのではない。国家としての統一性がたもたれてきたからこそ、戦後になってから「八・一五革命説」という学説が登場することになる。
気になることとしては、このドラマでは、三権分立が出てこないことである。寅子は新しい民法にかかわったが、それは、司法省における草案の起草の仕事である。実際にこの法律を決定する権限は、立法府である国会の仕事である。しかし、このドラマでは、国会での議論がどうであったか、その審議のプロセスを無視していた。まるで、寅子たちが新しい民法を決めたかのように描かれていた。これは、三権分立を知らないと言われても仕方ないだろう。
戦災孤児の処遇については、まずは行政の仕事のはずである。これについて、司法の機関である家庭裁判所がかかわることなる法的な問題などについては、これも無視していた。ただ、アメリカの家庭裁判所の理念を日本に持ち込もうとした多岐川のことが出てきただけである。それに法律家である寅子がどう思ったかはまったく描くことなく、多岐川の意見に従っていただけである。
新しい憲法の理念の一つに三権分立があるはずだが、このシステムの中で司法にかかわる寅子の立場や意見がどうなのか、という視点がこのドラマには欠如している。
最後に余計なことを書いてみる。ドラマに出てきた道男は男性であるから、生きていくために犯罪に手をそめることになる。もし、これが女性だったらどうだったろうか。戦災孤児に数のうえで男女差があったとは思えない。女性の場合、てっとりばやく稼ぐには、身を売るしかない。しかも、これはその当時にあっては合法的な行為である。戦後、そのような少女たちは多くいたと思われるが、非行少年にふくまれることはなかったろう。その当時の社会にあって合法的に働いていたことになるからである。一方で戦前から廃娼運動があったことも事実である。
このような少女の姿が、このドラマには出てきていなかった。上野の街頭で客を待つ少女の姿があったとしてもよかったのではないか。その先は、見る側の想像力にまかせることになる。このドラマの制作スタッフは、身を売るしかなかった少女のことは思いがいたらなかったのだろうか。このことは、このドラマを絶賛している人たちについても同様である。
私なら、よねにこう言わせたい。「あのこは誰の世話にもならず働いているんだ。まあ、ほめられた仕事じゃないがな。」
2024年6月22日記
『虎に翼』「家に女房なきは火のない炉のごとし?」
あいかわらずこのドラマは、一部の人びとには絶賛されているようなのだが、私としてはいろいろと不満に思うところがある。はっきり言ってこのドラマは作り方、脚本、演出が雑になってきていると感じる。
まず、寅子は法律家のはずである。戦災孤児の問題を法律の問題としてはどうあつかうことになるのか、まったく描かれなかった。おそらくは身元の特定、場合によっては戸籍の作成ということも必要になっただろう。犯罪があったとしても、少年法によってどう対処することになるのか、ということもある。ここで家庭裁判所の仕事がどうであるのか、ということになるはずだと思うのだが、法律的な部分には寅子はまったくかかわっていなかった。ドラマの作りかた、脚本としても、ここのところはまったく無視していた。
寅子は道男を家につれて帰るのだが、まったく個人の善意、あるいは、おせっかいである。事前に自分の家族に何の相談もない。大学生の道明は昼間は留守にしているから、家にいるのは母(はる)と花江と子供たちである。このような家に、非行少年(スリにかかわっているということは寅子は見て知っている)を連れてくるという設定は、どう考えてもありえないと思う。
道男の年齢は、一六~七ということだったということのようだったが、家庭裁判所の判事補でもある寅子としては、まずするべきは身元の特定、年齢の確認、ということのはずである。それをまったくしてない。これを省いて、最終的には寿司屋の仕事につくということになった。だが、この当時、道男の年齢ならば、法的に少年であっても、中学卒業以上の年齢であり、まずするべきは、働きさきを見つけることであったろう。それと、住むべきところを探すのは、ワンセットでないと意味がない。
戦災孤児のことは寅子と猪爪家のこととしてではなく、寅子の家庭裁判所での仕事として描くべきことであったと私は思う。
それから、気になったのは多岐川のことば。国や法はひっくりかえる、そんなもののために死んではならない、という意味のことを言っていた。これは、アナーキストの言う台詞なら理解できるが、現に公務員であり法曹にかかわる人間の言うべきことばではない。
確かに日本は戦争に敗れた。大きく社会の価値観は変わった。それについての証言や体験談は数多くある。だが、日本という国家の連続性は保たれたのも事実である。天皇は残ったし、政府の組織も残った。今の憲法は、手続き上は、古い大日本帝国憲法の改正ということで成立している。寅子のかかわった新しい民法も、旧民法の改正という形をとっていたはずである。ゼロから作ったのではない。国家としての統一性がたもたれてきたからこそ、戦後になってから「八・一五革命説」という学説が登場することになる。
気になることとしては、このドラマでは、三権分立が出てこないことである。寅子は新しい民法にかかわったが、それは、司法省における草案の起草の仕事である。実際にこの法律を決定する権限は、立法府である国会の仕事である。しかし、このドラマでは、国会での議論がどうであったか、その審議のプロセスを無視していた。まるで、寅子たちが新しい民法を決めたかのように描かれていた。これは、三権分立を知らないと言われても仕方ないだろう。
戦災孤児の処遇については、まずは行政の仕事のはずである。これについて、司法の機関である家庭裁判所がかかわることなる法的な問題などについては、これも無視していた。ただ、アメリカの家庭裁判所の理念を日本に持ち込もうとした多岐川のことが出てきただけである。それに法律家である寅子がどう思ったかはまったく描くことなく、多岐川の意見に従っていただけである。
新しい憲法の理念の一つに三権分立があるはずだが、このシステムの中で司法にかかわる寅子の立場や意見がどうなのか、という視点がこのドラマには欠如している。
最後に余計なことを書いてみる。ドラマに出てきた道男は男性であるから、生きていくために犯罪に手をそめることになる。もし、これが女性だったらどうだったろうか。戦災孤児に数のうえで男女差があったとは思えない。女性の場合、てっとりばやく稼ぐには、身を売るしかない。しかも、これはその当時にあっては合法的な行為である。戦後、そのような少女たちは多くいたと思われるが、非行少年にふくまれることはなかったろう。その当時の社会にあって合法的に働いていたことになるからである。一方で戦前から廃娼運動があったことも事実である。
このような少女の姿が、このドラマには出てきていなかった。上野の街頭で客を待つ少女の姿があったとしてもよかったのではないか。その先は、見る側の想像力にまかせることになる。このドラマの制作スタッフは、身を売るしかなかった少女のことは思いがいたらなかったのだろうか。このことは、このドラマを絶賛している人たちについても同様である。
私なら、よねにこう言わせたい。「あのこは誰の世話にもならず働いているんだ。まあ、ほめられた仕事じゃないがな。」
2024年6月22日記
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