「93歳の新聞記者」2024-06-28

2024年6月28日 當山日出夫

ドキュメント20min. 93歳の新聞記者

今の時代、このようなメディアがある、ということを思ってみるだけでも価値のあることである。

このごろ言われていることとしては、情報の格差である。ニュースを得ることにコストをかける人たちと、無料で得られるニュースしか見ない人たちと、これらの間で社会のなかで分化していくだろうと言われている。そのなかにあって、この新聞はどういう位置づけになるのだろうか。

たしかに地元密着のメディアということにはなるが、このようなものとしては、対象を限定してWEBメディアも考えありえるし、地域のFM放送もありうるだろう。旧態依然とした新聞という形であることに、さほど意味があるとも思えない、というのが正直な感想でもある。

しかし、その一方で、このような形でしか伝えることのできないことがあり、また、このようなメディアが存在するということ、それ自体に意味がある、と考えることもできる。

刺激的、扇情的、にならないこと。これは、今のジャーナリズムに最も欠落している部分である。

世の中の趨勢として、WEBメディアが主流になり、その収益モデルがどうなるか、WEB広告で維持することが可能であるか、という時代になってきている。そして、広告を見ないためにコストをかけてもいい、という考え方の人も出てくる。(私などは、このような立場に近い。広告もまた一つのメディアと思わないでもない。だが、最近は邪魔だと思うことが多くなってきた。)

気になったことはいくつかある。この新聞の収益はどうなっているのか。そう広告を掲載しているわけではないようである。有料としても、いまどき、料金を払う人がどれほどいるのか。一般の新聞でもどんどん部数を減らしている時代である。また、この新聞の過去のバックナンバーは保存されているのだろうか。保存しているとすれば、地域の図書館ということになるのかもしれないが、どうなのだろう。

いろいろ思うことはあるのだが、ジャーナリズム、人にものを伝えるということの意味について、考えることがある。

どうでもいいことかもしれないが、番組の最後に流れていた曲、「風に吹かれて」(ボブ・ディライン)は、もう今の若い人は知らないかなと思う。まあ、この曲を憶えているような視聴者を考えて作ってあるのだといえばそれまでだが。

玉音放送のシーンは、これはお馴染みのものだったが、それと同時に、八月一五日の新聞の紙面が映っていた。これは、珍しいと思う。日本国民(に限らずであるが)は、どうやって終戦(あるいは、敗戦)ということを知ったのか、これはメディア史としても重要なことの一つであると思っている。あの昭和天皇のラジオの声だけで、事態が理解できたとも思えないのである。

2024年6月27日記

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