「トットちゃんの学校 〜戦時下に貫いた教育の夢〜」2024-07-10

2024年7月10日 當山日出夫

新プロジェクトX 「トットちゃんの学校 〜戦時下に貫いた教育の夢〜」

この番組の制作スタッフは憶えていないことになるだろうが、NHKが昔放送したドラマに『あいうえお』というのがあった。私が小学校のころのことだったろうか。半世紀以上も昔のことになる。北海道の開拓民の村の小学校が舞台のドラマだった。昔のことだし、そんなに熱心に見たということではないので、内容についてはほとんど憶えていない。だが、明治の昔、北海道の開拓民の姿を描くとき、小学校という設定であったことは、確かなこととして記憶している。印象として残っているのは、その当時の人びとにとって、教育というのが、まさにエネルギーを費やすに価することだったことになる。

本当かどうかは知らないが……近代になって海外に移住した日本人が、現地でまず作ったのが小学校であった、という話しをどこかで読んだ記憶がある。別の国から来た人たちは、まず教会を作ったらしい。これも本当かどうかということもあるが、日本人ならではのこととして印象に残っている。

教育とはコストをかけなければならないものである。その価値がある。おそらく過去の日本人たちは、そのように暮らしてきたのであり、近代国家を作ってきた。

もう今年度で辞めてしまったが、大学生に講義をするとき、折りをみて次のことを語るようにしていた。義務教育というが、その義務とはだれのどんな義務か。子どもが学校に行く義務ではない。そうではなくて、親が子どもを学校に通わせる義務ということ、言いかえれば、子どもを労働力として使ってはいけない、教育を受けさせなければいけない、という意味での義務である。

この番組を見てまず思ったことは、二〇年とはずいぶん短いなあ、ということである。

私が高校生のとき、担任だった先生が次のような話しをしていた。教育の結果というのは、生徒が卒業してから死ぬときにならないとわからない。いや、死んでもわからないかもしれない。

これに比べると、二〇年後の結果とは、とても気の短い話しだと感じたのが個人的には正直な感想である。

教育の目的、価値は、どこにあるのだろうか。たぶん、次の二つになると思う。

一つには、その生徒、学生が将来の仕事として、社会や国家、さらには、人類のために役立つ人材となること。

もう一つは、その生徒、学生が、幸福な生活を送ることができるようになること。

この二つは別に矛盾することではないと思っている。

いうまでもないが、教育は「歴史」と「伝統」をふまえたものでなければならない。(狭隘な国粋主義のことではない。)

幸福な生活と書いてみた。今の日本の社会で教育を語るとき、あまりにもコスト計算に傾きがちである。具体的には中学受験にどれだけお金がかかるか、それでどんな大学に行くことになるのか。その結果、年収としていくら稼げる仕事につくことができるか。ありていにいえば、すべて金銭で評価することが普通におこなわれるようになってきている。これには、私は、どうしても違和感を感じざるをえない。(無論、同じような生活を送るとしても、非正規雇用よりも正規雇用で年収も多い方がいいにとは思うのだが。)

かつてのトモヱ学園のことを語るのに、著名なタレントであったり、物理学者であったりが、登場する必要はない。そこの卒業生たちが、どのような人生をその後おくることになったのか、幸福な生活をいとなむことができたのか、それだけで十分なのである。

2024年7月8日記

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