『虎に翼』「女房は山の神百石の位?」 ― 2024-07-14
2024年7月14日 當山日出夫
『虎に翼』「女房は山の神百石の位?」
あいかわらずこのドラマは視聴率はいいようであるし、SNSでは絶賛されている。それを見ていると、これまで朝ドラは見ていなかったが、このドラマは見ているというものがある。このような人たちをふくめての視聴者、視聴率ということになる。
私の感じるところとしては、特にきわだって面白いとは思わない。そんなにつまらないとも思わない。朝ドラとしては、普通の出来だと思っている。ただ、このドラマは、これまでの朝ドラとは違う作り方を考えて作ってあると感じるところはある。
SNSなどでは、あまり話題になっていないようなことについて、私の思うところを書いてみたいと思う。
大きなドラマの流れとしては、前の週で、ボスを倒して、新たなステージにはいったことになる。ボスは、この場合、穂高先生に設定されていた。ステージを新たにして、新たなパワーを得るために、アメリカに行ってくることになる。そして、イニシエーション(通過儀礼)を経て、生まれかわってさらにパワーアップして、次の段階をめざして旅に出る。イニシエーションは、この場合は家族会議による自己否定(これは擬制的な死でもある)である。擬死から再生して、次の目的地(新潟)へと旅立つ。
非常に分かりやすい物語の作り方である。あまりにも分かりやすいので、なんとなく馬鹿にされているような気がしないでもない。ほら、みんなが昔遊んだゲームとおんなじでしょ……と。
かつての自分の恩師が、成長したのちには、倒すべき宿敵として現れることになる、どこかで見たと思ったら、『オードリー』のなかの映画で、この設定が使ってあった。はっきりいって、『寅に翼』は昔のチャンバラ時代劇映画をなぞっているである。だから、分かりやすい。いろいろ新機軸で作ってあるドラマでありながら、意外とオーソドックスというかステレオタイプの作り方になっている。
ところで、ラジオ番組で寅子が言っていたことは、かなり重要である。最高裁長官が、家庭裁判所の仕事は女性にふさわしいと言ったのに対して、寅子は、全面的に否定する。ここで、ラジオの放送で家裁の判事補が最高裁長官にまっこうから反論するということの是非はおいておく。それよりも重要なことは、寅子は、家裁の仕事に男性女性の区別は関係ないと言っていた。その人間の適性で判断されるべきであると。
これは、裁判官として適切な仕事ができるなら、別に全員が男性であってもかまわない、あるいは、逆に女性ばかりであってもかまわない、ということになる。これは、一般に同意できることだろうか。
機会の平等が保証されているのならば、結果の平等は特に重要ではない、ということになる。機会の平等と結果の平等、これは重要な論点である。機会の平等は社会のなかで制度的にはっきりしていることであるが、結果の平等とはどのような状態であるのか、難しい問題をふくむかもしれない。単純に考えれば、結果的にも男女同数という形になるが、実際にはなかなかそうはならない。だからこそ、「ガラスの天井」として問題になる。そして、場合によっては強引なアファーマティブアクションの導入ということもある。
このような重要な問題をふくむ発言であったのだが、この論点をめぐって、このドラマをめぐる話題として大きく取りあげられることはなかったようである。これは何故なのだろう。女性の社会進出をめぐっては、今でも大きな論点となるところなのだが、ドラマのなかでは、寅子が最高裁長官にたてついたというエピソードで終わってしまっていた。
また、寅子が担当した離婚裁判。寅子は、男女平等にあつかって判断しますということを言っていた。裁判官が女性であるからといって、妻に有利になるようなことはない、と。
これはたしかにそのとおりのまさに正論である。しかし、男性と女性とで、微妙な心情の理解ということになると、違いがまったくないといっていいだろうか。このあたりは、男女の平等ということと関係して、かなりややこしい議論があることかもしれないと思うのだが、ドラマのなかでは、特にさらにつっこんで考えるという方向にはむかっていなかった。ここでは、最高裁長官が言った、女性の考え方や発想という観点が意味をもつかもしれないという部分である。
現代、首相が女性閣僚の任命のとき、女性ならではの感性、と言っただけで批判される時代である。見方によっては、一種のタブーになっている論点かもしれない。
その一方で、女性の医師であることを求める女性がいることも事実である。女医と書いてある看板は目にする。あるいは、女性であることを明示してあるような弁護士事務所の広告なども目にする。これは、社会の人びとの意識が遅れていると言っていいことになるのだろうか。
それから、戦後まもなくの離婚裁判である。決して男女は平等ではない。その数年前まで、姦通罪などがあったことになる。また、売春も違法ではなかった。このような時代背景を考えるならば、妻の不貞を、夫の場合とまったく同等に考えることは妥当なことなのだろうか。どちらに厳しくあるべきかということではなく、法的な平等と、人びとの意識においてどうであったかはまた考えるべきことかもしれない。その後、不貞が原因で離婚した男性が再婚するのと、女性の場合とでは、同じであるということでいいだろうか。
このときの寅子の語った、法の下の平等ということは、社会的な不平等を前提にした、あるいは、無視したことではなかったろうか。寅子は、このことについて考えた形跡はなかった。
ドラマは、不満を持った妻が剃刀をふりまわす、裁判所内での傷害未遂事件として終わってしまうことになっていた。そして、その結果、寅子は裁判官として法律的に判断を下すことなく終わった。このドラマでは、極力、寅子に法律的な判断をさせないように作っているようである。これで、リーガルエンターテイメントと言っていいのだろうか。
さらに、このような観点(この時代の男女の非対称性)から考えてみるならば、このドラマで、パンパン(占領下で主に米兵相手の街娼である)が出てきていないということは、考えてみるべきことだと思う。これまでの朝ドラで、パンパンが出ることは珍しいことではない。『虎に翼』の前作『ブギウギ』では、ラクチョウのおミネ、として登場して重要な役割であった。ちょっとさかのぼれば、『カーネーション』でも登場してきていた。特にドラマのなかで役が割り当てられているということではなくても、戦後の闇市の風景のなかに、見るからにそれとわかる派手な洋装の女性が映っていることはかなりあった。逆に、このような女性をまったく映さない戦後の街を映した作品もあった。これは、脚本、演出の方針なのであろう。
だが、今回の『虎に翼』では、パンパンは登場させるべき、すくなくとも、画面に映すべきだったと、私は思っている。なぜなら、このような女性たちこそ、いわゆる透明な存在として、寅子には見えなかった可能性があるからである。この時代、パンパンなどは違法ではなかった。だから、犯罪者として、少女であっても家庭裁判所の保護の対象となる少年としてはあつかわれることはなかった。寅子の家に道男がころがりこんできたのは、窃盗などの法律に規定された犯罪をおかしたからである。もし、少女が売春をしていたとしても、寅子にとっては、犯罪をおかしたという目で見ることはなかったはずである。逆に、自分で自立して仕事をして稼いでいたということになる。
無論、売春はほめられたことではないし、また、戦前からあった廃娼運動ということも考えなければならない。だが犯罪ではない以上、法律ではどうすることもできない。
はたして、街をあるく寅子には、パンパンの女性たちはどのようなものとして見えていたことになるのだろうか。ここは、是非ともドラマのなかに描いておいてほしかった部分である。街角にたたずむ少女のそばを、まったく無視して通り過ぎるのでもいい、あるいは、ちょっといやな顔をしてみせるのもいい、この少女たちをどうすることもできないのが法律であると、その限界を心のどこかで感じる寅子の姿を、伊藤沙莉なら演じてみせることができたはずである。
女性の権利、社会進出、ということをメッセージとして打ち出そうとしている、このドラマであるこそ、画面に一瞬でもいいから映しておくべきだったと私は思うのである。傷痍軍人に小銭をめぐむが、パンパンには気づかない(透明な存在)。そんな寅子であってもいいではないだろうか。寅子の人権意識は万能ではなかったかもしれない。そのような時代であったのである。傷痍軍人は映すが、パンパンは映さないという考え方には、私は同意できない。
このドラマは、戦後になってから世相を表現しなくなっている。戦前までは、ラジオのニュース、新聞などで、世相や歴史の流れを描いていた。戦後になって、東京裁判も、サンフランシスコ講和条約(日本の独立)も、朝鮮戦争も、まったく出てきていない。これはどうしたことなのだろうと思う。
世相を描くことがあってこそ、崔香淑/汐見香子のことも、よりいっそうきわだってくる。朝鮮戦争のことを報じる新聞記事が画面に映ることぐらいあってもよかったと思う。(だが、崔香淑の朝鮮での出自、社会的階層、出身地によっては、日本での暮らしも安心できるものではなかったかもしれない。だからこそ、日本で汐見香子として生きていくことになったのだろうが。)
私にとって、『虎に翼』は、朝鮮人女性が登場したドラマであるとともに、パンパンの登場しなかったドラマとして記憶することになると思う。
さて、次週以降、新潟に舞台を移して新たなステージなる。どんなドラマになるか期待して見ることにしよう。
2024年7月13日記
『虎に翼』「女房は山の神百石の位?」
あいかわらずこのドラマは視聴率はいいようであるし、SNSでは絶賛されている。それを見ていると、これまで朝ドラは見ていなかったが、このドラマは見ているというものがある。このような人たちをふくめての視聴者、視聴率ということになる。
私の感じるところとしては、特にきわだって面白いとは思わない。そんなにつまらないとも思わない。朝ドラとしては、普通の出来だと思っている。ただ、このドラマは、これまでの朝ドラとは違う作り方を考えて作ってあると感じるところはある。
SNSなどでは、あまり話題になっていないようなことについて、私の思うところを書いてみたいと思う。
大きなドラマの流れとしては、前の週で、ボスを倒して、新たなステージにはいったことになる。ボスは、この場合、穂高先生に設定されていた。ステージを新たにして、新たなパワーを得るために、アメリカに行ってくることになる。そして、イニシエーション(通過儀礼)を経て、生まれかわってさらにパワーアップして、次の段階をめざして旅に出る。イニシエーションは、この場合は家族会議による自己否定(これは擬制的な死でもある)である。擬死から再生して、次の目的地(新潟)へと旅立つ。
非常に分かりやすい物語の作り方である。あまりにも分かりやすいので、なんとなく馬鹿にされているような気がしないでもない。ほら、みんなが昔遊んだゲームとおんなじでしょ……と。
かつての自分の恩師が、成長したのちには、倒すべき宿敵として現れることになる、どこかで見たと思ったら、『オードリー』のなかの映画で、この設定が使ってあった。はっきりいって、『寅に翼』は昔のチャンバラ時代劇映画をなぞっているである。だから、分かりやすい。いろいろ新機軸で作ってあるドラマでありながら、意外とオーソドックスというかステレオタイプの作り方になっている。
ところで、ラジオ番組で寅子が言っていたことは、かなり重要である。最高裁長官が、家庭裁判所の仕事は女性にふさわしいと言ったのに対して、寅子は、全面的に否定する。ここで、ラジオの放送で家裁の判事補が最高裁長官にまっこうから反論するということの是非はおいておく。それよりも重要なことは、寅子は、家裁の仕事に男性女性の区別は関係ないと言っていた。その人間の適性で判断されるべきであると。
これは、裁判官として適切な仕事ができるなら、別に全員が男性であってもかまわない、あるいは、逆に女性ばかりであってもかまわない、ということになる。これは、一般に同意できることだろうか。
機会の平等が保証されているのならば、結果の平等は特に重要ではない、ということになる。機会の平等と結果の平等、これは重要な論点である。機会の平等は社会のなかで制度的にはっきりしていることであるが、結果の平等とはどのような状態であるのか、難しい問題をふくむかもしれない。単純に考えれば、結果的にも男女同数という形になるが、実際にはなかなかそうはならない。だからこそ、「ガラスの天井」として問題になる。そして、場合によっては強引なアファーマティブアクションの導入ということもある。
このような重要な問題をふくむ発言であったのだが、この論点をめぐって、このドラマをめぐる話題として大きく取りあげられることはなかったようである。これは何故なのだろう。女性の社会進出をめぐっては、今でも大きな論点となるところなのだが、ドラマのなかでは、寅子が最高裁長官にたてついたというエピソードで終わってしまっていた。
また、寅子が担当した離婚裁判。寅子は、男女平等にあつかって判断しますということを言っていた。裁判官が女性であるからといって、妻に有利になるようなことはない、と。
これはたしかにそのとおりのまさに正論である。しかし、男性と女性とで、微妙な心情の理解ということになると、違いがまったくないといっていいだろうか。このあたりは、男女の平等ということと関係して、かなりややこしい議論があることかもしれないと思うのだが、ドラマのなかでは、特にさらにつっこんで考えるという方向にはむかっていなかった。ここでは、最高裁長官が言った、女性の考え方や発想という観点が意味をもつかもしれないという部分である。
現代、首相が女性閣僚の任命のとき、女性ならではの感性、と言っただけで批判される時代である。見方によっては、一種のタブーになっている論点かもしれない。
その一方で、女性の医師であることを求める女性がいることも事実である。女医と書いてある看板は目にする。あるいは、女性であることを明示してあるような弁護士事務所の広告なども目にする。これは、社会の人びとの意識が遅れていると言っていいことになるのだろうか。
それから、戦後まもなくの離婚裁判である。決して男女は平等ではない。その数年前まで、姦通罪などがあったことになる。また、売春も違法ではなかった。このような時代背景を考えるならば、妻の不貞を、夫の場合とまったく同等に考えることは妥当なことなのだろうか。どちらに厳しくあるべきかということではなく、法的な平等と、人びとの意識においてどうであったかはまた考えるべきことかもしれない。その後、不貞が原因で離婚した男性が再婚するのと、女性の場合とでは、同じであるということでいいだろうか。
このときの寅子の語った、法の下の平等ということは、社会的な不平等を前提にした、あるいは、無視したことではなかったろうか。寅子は、このことについて考えた形跡はなかった。
ドラマは、不満を持った妻が剃刀をふりまわす、裁判所内での傷害未遂事件として終わってしまうことになっていた。そして、その結果、寅子は裁判官として法律的に判断を下すことなく終わった。このドラマでは、極力、寅子に法律的な判断をさせないように作っているようである。これで、リーガルエンターテイメントと言っていいのだろうか。
さらに、このような観点(この時代の男女の非対称性)から考えてみるならば、このドラマで、パンパン(占領下で主に米兵相手の街娼である)が出てきていないということは、考えてみるべきことだと思う。これまでの朝ドラで、パンパンが出ることは珍しいことではない。『虎に翼』の前作『ブギウギ』では、ラクチョウのおミネ、として登場して重要な役割であった。ちょっとさかのぼれば、『カーネーション』でも登場してきていた。特にドラマのなかで役が割り当てられているということではなくても、戦後の闇市の風景のなかに、見るからにそれとわかる派手な洋装の女性が映っていることはかなりあった。逆に、このような女性をまったく映さない戦後の街を映した作品もあった。これは、脚本、演出の方針なのであろう。
だが、今回の『虎に翼』では、パンパンは登場させるべき、すくなくとも、画面に映すべきだったと、私は思っている。なぜなら、このような女性たちこそ、いわゆる透明な存在として、寅子には見えなかった可能性があるからである。この時代、パンパンなどは違法ではなかった。だから、犯罪者として、少女であっても家庭裁判所の保護の対象となる少年としてはあつかわれることはなかった。寅子の家に道男がころがりこんできたのは、窃盗などの法律に規定された犯罪をおかしたからである。もし、少女が売春をしていたとしても、寅子にとっては、犯罪をおかしたという目で見ることはなかったはずである。逆に、自分で自立して仕事をして稼いでいたということになる。
無論、売春はほめられたことではないし、また、戦前からあった廃娼運動ということも考えなければならない。だが犯罪ではない以上、法律ではどうすることもできない。
はたして、街をあるく寅子には、パンパンの女性たちはどのようなものとして見えていたことになるのだろうか。ここは、是非ともドラマのなかに描いておいてほしかった部分である。街角にたたずむ少女のそばを、まったく無視して通り過ぎるのでもいい、あるいは、ちょっといやな顔をしてみせるのもいい、この少女たちをどうすることもできないのが法律であると、その限界を心のどこかで感じる寅子の姿を、伊藤沙莉なら演じてみせることができたはずである。
女性の権利、社会進出、ということをメッセージとして打ち出そうとしている、このドラマであるこそ、画面に一瞬でもいいから映しておくべきだったと私は思うのである。傷痍軍人に小銭をめぐむが、パンパンには気づかない(透明な存在)。そんな寅子であってもいいではないだろうか。寅子の人権意識は万能ではなかったかもしれない。そのような時代であったのである。傷痍軍人は映すが、パンパンは映さないという考え方には、私は同意できない。
このドラマは、戦後になってから世相を表現しなくなっている。戦前までは、ラジオのニュース、新聞などで、世相や歴史の流れを描いていた。戦後になって、東京裁判も、サンフランシスコ講和条約(日本の独立)も、朝鮮戦争も、まったく出てきていない。これはどうしたことなのだろうと思う。
世相を描くことがあってこそ、崔香淑/汐見香子のことも、よりいっそうきわだってくる。朝鮮戦争のことを報じる新聞記事が画面に映ることぐらいあってもよかったと思う。(だが、崔香淑の朝鮮での出自、社会的階層、出身地によっては、日本での暮らしも安心できるものではなかったかもしれない。だからこそ、日本で汐見香子として生きていくことになったのだろうが。)
私にとって、『虎に翼』は、朝鮮人女性が登場したドラマであるとともに、パンパンの登場しなかったドラマとして記憶することになると思う。
さて、次週以降、新潟に舞台を移して新たなステージなる。どんなドラマになるか期待して見ることにしよう。
2024年7月13日記
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