「男子バスケ 世代を越えた逆転劇〜オリンピック 48年の挑戦〜」2024-07-18

2024年7月18日 當山日出夫

新プロジェクトX 男子バスケ 世代を越えた逆転劇〜オリンピック 48年の挑戦〜

もうじきパリでオリンピックである。それを意識しての企画なのだろうと思う。だが、たぶんバスケットの試合は見ないと思う。そもそも、オリンピック自体にほとんど興味がない。

バスケットボールについては、Bリーグというのがあるのは知っている。私の地元にもチームがあるので、夕方のNHKのローカルニュースの時間には、かならず取りあげられる。ただ、そのことを知っているだけのことである。

まあ、スポーツというと、プロ野球だけというような時代が長く続いてきたことを思うと、最近は風向きが変わってきた。といって、別にサッカーに興味があるということでもない。まあ、なんとなくプロ野球べったりの状態がいやなだけである。

ところで、番組であつかっていた、自力でのオリンピック出場は、これはこれとして関係者にとっては、非常に大きなことであるにちがいない。これは、日本の企業のあり方の問題でもある。有名で勝てるスポーツには、金を出すが、経営が苦しくなってきたら手をひく。それも、スポーツの競技大会などで、スポンサーとして企業名を多く目にするようになってきた。これも、世の中全体の意識の変化ということかとも思う。だが、その一方で、スポーツにからむ利権が大きな問題となったことは、前回の東京オリンピックのときのこととして記憶に新しい。

バスケットボールに身長別クラス分けというのは、どうしてないのだろうかとも思う。格闘技では、体重別に分けられている。バスケットボールとかバレーボールなど、身長別(チームの平均身長別)というようなルールがあってもいいようなものかもしれない。だが、これも、実際にプレーをしている選手にとっては、そんなことは関係なく、技術と体力の勝負ということなのかとも思う。

それにしても、この番組の作り方、昔昔のスポ根ドラマである。こういう作り方は、もう古いのではないかと思うが、どうだろうか。むしろ、近年のスポーツ科学の研究成果として、どんなトレーニングが有効なのか、というような観点をもっととりこんだほうがいいのではないかと思う。

2024年7月15日記

「地下鉄サリン事件 知られざる格闘の真実」2024-07-18

2024年7月18日 當山日出夫

アナザーストーリーズ 地下鉄サリン事件 知られざる格闘の真実

一九九五年のこの事件のことは記憶している。その前年ぐらいから、オウム真理教をめぐって様々に報道があり、そのいくつかはテレビで見ていた。(事件の発端となった目黒の公証人役場の事件のことについては、学生のとき目黒に住んでいたので、テレビに映った映像を見て、あのあたりかななども思ったものである。)

その日、朝、テレビをつけたら何か東京で事件があったらしいというぐらいの認識であった。それが、オウム真理教のやったことがわかって一件落着となるのは、上九一色村で潜んでいた麻原彰晃(ATOKでは、この人名は変換してくれなかった)が捕まってからのことになる。

番組を見ながらいろいろと思ったことはある。

おそらく聖路加病院は大混乱だったにちがいない。たしか、この病院の場合、サリンに対する治療薬をストックして持っていたということが幸いしたかと、何かで見たと憶えているのだが、このあたりは実際はどうだったのだろうか。都会の普通の病院に大量にストックがあるような医薬品ではないだろう。サリンであるということを特定するプロセス、その治療薬を確保して使用にいたるプロセス、このことだけでもかなり興味深いところがある。

自衛隊の任務も命がけということになる。日頃の訓練のときから、自衛官は死というものを意識せざるをえない職業なのだが、もし、この事件のとき、自衛官に犠牲が出ていたら、日本の社会としてどう対応することになったろうか、考えてみることになる。(自衛官が靖国神社に参拝することが、問題視されるのが今の日本である。では、自衛官の信仰とか精神的よりどころとか、改めてきちんと考えておくべきことである。)

しかし、封印された命令書を勝手に開封していいのだろうか。もう退官したから、ということではあったろうが。

自衛隊が現場に向かうときの映像を見ると、前を警察のパトカーが走っていた。緊急事態であったも、自衛隊の車両がサイレンをならして優先的に通行できるという法的な制度になっていなかったはずである。(これは、いまではどうなっているのだろうか。)

犯人のひとりが、もとは東京大学で物理学を学んでいた(あるいは、研究していた)ということで、取りあげられていた。そのような人物が何故オウム真理教にのめりこんでいったのかは、謎ということなのだろうが、それよりも、岸田一隆のことばが印象に残る。宇宙の一三八億年の歴史は人間を抜きに語れる。その全体を理解するには、人間の脳の能力では限界がある。それは確かにそのとおりかと思う。

サイエンスという方法論で、この世の中の一切合切を理解できるのか、これは難しい問題をはらんでいるかと思う。ある立場としては、サイエンスというのは人間がこの世界を理解するための方法論の一つである、ということもできるだろう。サイエンスの認識、方法論、そして、その限界というものについて、科学者と一般の人びとの間で、どのような社会的合意がなりたっているのか、これは、これからの社会にとって、重要な課題であるにちがいない。

2024年7月17日記