『虎に翼』「女の情に蛇が住む?」2024-07-28

2024年7月28日 當山日出夫

『虎に翼』「女の情に蛇が住む?」

歴史上の人物としてモデルがある場合、最終的にどのような人物像となるのか、そのイメージに向かってドラマは作られていくものだと思うのだが、『虎に翼』の場合、最終的に寅子はどんな人間になるのだろうか。

そもそもこのドラマのスタートの時点で女学校かスタートしていた。そこからいきなりの明律大学の女子部で法律を学ぶことになっていた。どのような生育環境で、どのような時代背景のもとで育ってきたのか、ということが完全にカットされていた。おそらく意図的にそういう設定にしたのだろうと思うが、場合によっては、これがドラマ全体の構想において無理が生じている理由かもしれないと思う。寅子の家庭環境からすれば、強いて古めかしいことばをつかってみるならば、プチブルお嬢様フェミニズム、といっていいかもしれない。どんな思想にも歴史がある。女性の権利ということについても、時代の変化がある。歴史を無視して、歴史のなかの人物を描こうとすることは無理がある。

この週もいろんなことがつめこみすぎてあって、どうも理解に苦しむところがあった。

新潟での少年犯罪であるが、このとき、寅子は裁判官としてのぞむことになった。これはいいとしても、一九才と二〇才の違いはなんなのか……これは今でも少年犯罪について語るときの論点のひとつであるが……このことを、寅子は真剣に考えたということにはなっていなかった。これは、これから家庭裁判所で少年事件を担当することになることを思うと、もうすこし考える部分の描写があってもよかったのではないだろうか。少年法にも歴史があるはずである。その歴史をこのドラマは描こうとしない。(現在では特定少年ということで、少年に対する法的なあつかいが変わっている。)

新潟で事件をおこした少年たちは、喫茶店ライトハウスにあつまるということと、その中心に美佐江という女子高生がいることが、重要なポイントとしてあった。どの少年少女も、裕福な家庭の育ちで、いわゆる貧困による非行少年ということではなかった。おそらく戦後のある時期、それまでとは違った種類の犯罪が増えてきたということになる。

しかし、ここでもドラマの描写にはかなり無理がある。美佐江は、寅子が「特別」だと言って、赤い腕飾り(今のことばでいえばミサンガということになるだろが)を贈る。それと同じものを、法廷の被告となった男性も身につけていた。これはどうだろうか。寅子が裁判官として法廷に出るのに、もらったアクセサリを着けているのは不自然という感じがするし、被告の男性が身につけているというのも、わざとらしい。なんだかこういう場面を見ると、近代の裁判所というよりも、江戸時代の奉行所の御白州という感じがする。遠山の金四郎なら、このようなことがあってもいいのだろうけれど。

美佐江は、この週で終わるのだろうか。寅子を「特別」と言った意味、犯罪を犯した少年たちの関係、これはあきらかになるのだろうか。あるいは、謎のまま残ることになるのだろうか。いずれにせよ、突然、新潟おいてこのようなことを登場させるというのは、ストーリーの展開において無理があると感じる。戦後の時代の、大きな社会の価値観の変化、人びとのとまどい、ということを、時代背景としてこれまでまったく描いてきていなかったことが、よりその無理な感じを増幅させている。

涼子と玉の関係も不自然である。たまたま新潟で出会ったということは、ドラマの作りからとしていいとしても、そこに寅子が、どのようなかたちでかかわるかということが、どうも釈然としない。

寅子は、玉からこれからの身の振り方について相談を持ちかけられる。だが、それを、寅子は涼子と玉の前でしゃべってしまう。これはどうかと思う。涼子と玉が話し合っているとき、横から大声を上げてわってはいる。

寅子からすれば、涼子と玉のことを思って善意でしていることになるのだろう。だが、これまで、さんざん人からの善意を無視してきたのも寅子である。かつては、人からの好意について、余計なお世話である、と言って拒否してきた。これは、立場を変えてみるならば、寅子が涼子と玉にしたこと、(その後、稲をライトハウスで働くようにしたこともふくめて)これらは、まったく余計なお世話であるとしかいいようがないことだと思う。

私の感覚からするならば、涼子と玉は、主従の関係のままでもよかったと思う。その主従の関係をひきずっていながらも、障害者となった玉と涼子が一緒に生きていくという設定で、十分にその時代のことを描くことができただろう。「涼子ちゃん」という言い方は、いかにも不自然である。せいぜい「涼子さん」だろう。これは、この時期の涼子と玉の年齢を考えてみても、「ちゃん」で呼ぶのは不自然という気がしてならない。

これは現代的な発想かもしれないが、ライトハウスで車椅子の玉が働くという設定なら、そのようなお客様が来店することも想定して、玄関にスロープを設置しておくことがあってもよかったかもしれない。いわゆるバリアフリーは、働く玉だけのためだけではない。お客さんのことも考えるべきである。あるいは、玉のため、そして障害のあるお客様のために玄関を改修してスロープをつくりました、と説明があってもよかったように思う。(しかし、この時代に車椅子で働いたり出歩いたりということ自体、設定として無理かなという気もしなくないが。)

それから気になるのが、涼子の夫であった男性。台詞だけで片づけられてしまっていたが、見方によっては、この男性も戦後の華族制度の廃止にともなって、時代の犠牲者であったかとも思う。このような立場の男性に対して、このドラマは、きわめて冷淡である。冷淡というよりも、悪意さえ感じるところがある。

マージャン大会のことも、どうかなと思うところが多い。さそわれたからといって、小学生の娘を、ランドセルを背負ったままで、夜の新潟で開かれるマージャン大会に連れていくものだろうか。

そもそも、寅子と優未がいるのは三條である。新潟からそう簡単に行けない距離だからこそ、裁判所の支部が作られているはずである。それを、そう簡単に小学生を連れていけるというのも、どうかなと思う。田舎の因習を描きたいから三條支部にした、しかし、星と付き合う必要があるから新潟には簡単に行ける。これは、実際の地理とは別にして、たとえ架空の土地であるとしても、ドラマの作り方としてメチャクチャである。

ここで弁護士の杉田は、優未を見て、空襲でなくなった孫娘を思って号泣するということになった。いかにも唐突であり、わけがわからなかったというのが正直なところである。普通なら、弁護士の家で亡くなった家族の写真とか位牌の前で悄然とする姿でも、ワンカットでいいから入れておくかと思う。そういうありきたりの描写はしたくなかったということなのかもしれないが、それにしては、寅子が家族の写真を見ている場面が多いかと感じる。

号泣する弁護士を判事の星が抱きしめているのも、どうかなと感じる。いい年をした大人が、この時代にそのような行動に出ることは不自然である。まあ、近年のドラマならいいかもしれないが。

号泣するのも大げさなら、抱きしめるのも不自然である。ここは、静かに少女を見つめる男性(杉田弁護士)と、それを横合いから見る男性(星判事)、で十分である。まあ、今時、小津安二郎のような映画でドラマを作れという気もしないが、感情のたかぶったときこそ、人間は静かになるものであるということも重要なことかと思う。

このドラマは、戦後になって社会的な価値観の変化、その中での人びとの生活の感覚、とまどい、試行錯誤、様々な世相、というようなことをほとんど描いてきていない。それで、急に、戦時中にあったこと……肉親の死……に決着がつけられないでいる、というようなことを言い出されると、見ている側としてとまどうだけなのである。はっきりいってこのドラマは、特に戦後になってから作り方が雑になってきている。

稲についてもかなり無理があると感じる。もともとは花江の家の女中である。それが新潟に隠居したのを花江が思い出して、寅子のことを気遣って連絡してくれた。このあたりのやりとりも、まず、寅子と花江の間で連絡があってしかるべきことだろうと思う。さらに、稲の立場からするならば、昔、仕えていた家のお嬢さん(花江)のお友達(寅子)の手助けをするはずだったのが、いつのまにか、寅子の発案で、寅子のお友達のお店(ライトハウス)の仕事をすることになる。ここは、稲を紹介してくれた花江に、ひとことことわりがあってしかるべきところだと感じる。なにもかもが、寅子を中心にして寅子の判断だけで回っているように感じられる。

優未が歌った「モンパパ」。これは寅子が歌っているのを聞いて自然に憶えたものなのだろうか。しかし、優未の父親(優三)は、幼い時に戦争で亡くなっている。優未に父親の記憶はないだろう。その優未に、この歌を歌わせるのは、どうかなと思うのだが。

他にもいろいろと気になるところがある。次週、どう決着させる琴になるのか思う。

2024年7月27日記

追記 2024年7月28日
マージャン大会があったのは三條なのではないかというコメントをもらった。たしかに杉田弁護士の地元という意味では三條が普通かなと思う。だが、寅子、優未、星の三人がならんで歩いているのは都会という感じだった。三條は田舎として描かれてきた。優未の通学のときの様子など。どうもよくわからない。