『虎に翼』「悪女の賢者ぶり?」 ― 2024-08-11
2024年8月11日 當山日出夫
『虎に翼』「悪女の賢者ぶり?」
この週は特に裁判関係のことがあったということはないが、寅子には大きな出来事のあった週である。
見ていて疑問に思ったことなど、思いつくままに書いてみる。
寅子は、新潟地裁の判事の入倉について、「差別主義者のクソ小僧」と思っていた、と言った。ここは、思っていた、と過去のこととして言っていた。だが、これまでのこのドラマにおいて、入倉が差別主義者である、あるいは、そうではない、ということについて、どれぐらい描かれてきたのかと思う。
確かに、放火事件があったとき、朝鮮人の事件……ということを言っていた。それを寅子は、とがめている。これは、判事としては、確かに差別的な発言だったことになる。しかし、それ以上に問題なのは、判事が担当する事件について予断を持っていることであると、私は思う。裁判官として求められるのは、厳正な法的な中立性のはずである。それを逸脱したことこそが問題である。そして、この場合、そのことがたまたま朝鮮人の関係する事件だったことになる。寅子として、入倉に注意すべきは、まずは判事としての公正さについての心構えであるべきと思う。法曹にかかわる人間を登場人物として描くならば、ささいなことかもしれないが、このような細部に気を配っているかどうか、重要なことではないだろうか。(どうしても、朝鮮人差別ということをドラマの中で描きたかったということなのだろうが。)
また、入倉は、美佐江の事件について知り合いの刑事から聞いた話として、寅子に情報を伝えていた。これも、美佐江の件は、寅子たちの担当する事件ではなかったのであるが、裁判官が知り合いの刑事から事件の捜査についての情報を教えてもらう、それを裁判所内で話をする、ということはどうなのだろうと思う。地方の警察や裁判所はこんなものである、ということなのだろうか。これもささいなことではあるが、ちょっと気になったところである。あるいは、警察と裁判所の裁判官の関係とは、一般にこういうものでいいのだろうか。
放火事件の犯人は結局つかまったのだろうか。未解決のままでは、なんとなく後味が悪い。(このドラマについて、リーガルエンターテイメントとNHKは書いていたかと思うのだが、もうどうでもよくなってきた。)
この週では、寅子の再婚に向けて大きく動いたことになるのだが、その前に確認しておきたいことがある。これまでにも書いたことなのだが。
戦前までは、家が中心の制度であった。それが、憲法が新しくなり、民法が改正されて、家が中心ではなくなった。家にかわるものとして登場してきたのが、家庭である。男女の合意のみによって成立する夫婦とその子どもからなる家庭というものが、基本と考えられるようになった。しかし、昭和二〇年代では、古い家の考え方を整理できないままで、新しい家庭とはどうあるべきか模索していた時期ということになるだろう。しかし、これも、その後考え方が変わってきて、現代では、家庭というものが、個人を束縛するものであるとされるようになってきた。こども家庭庁を作るとき、家庭のことばが入ることに抵抗をしめした人が少なからずあった。
このような時代背景を考えてみると、寅子のこの時代は、家庭こそが社会の基本であると考えられていた時代であるとすべきであろう。では、このドラマで、家庭や結婚はどのようなものとして描かれているだろうか。
無論、ドラマであるから、その時代の風潮に忠実である必要はない。しかし、家庭裁判所の裁判官として仕事をする寅子を描くならば、その時代における、家庭や結婚が一般にどのようなものとして考えられていたかは、踏まえておく必要があることだと私は思う。
裁判所の職員の高瀬と小野の結婚についてであるが、よく理解できなことがある。
まず、小野は朝鮮人の男性と恋をしていたはずだが、その結果はどうなったのだろうか。東京からやってきた汐見香子に会って、日本人と朝鮮人の結婚について、思うところはなかったのだろうか。たまたま好きになった人が朝鮮人(あるいは、日本人)だった、ということなら、その恋を貫いてもよかった。新潟から東京にでも駆け落ちしてもよかったかもしれない。(そして、轟法律事務所にかかわることになるなら、これも面白い展開だろう。)
しかし、朝鮮人とのことはまったく無かったかのように、高瀬と小野は、結婚するという。それも形式的に籍をいれるだけであるとして、子どもをつくったりはしない、という。まあ、たしかに、当事者である男性と女性の合意としてそうならば、憲法にも民法にも違反していない。だが、その時代において、結婚して家庭を作り子どもを育て、という一般的な価値観からは大きく離れることになる。このことについて、高瀬と小野はどう思っていたことになるのだろうか。職場で公言している。普通に見合いして結婚するよりも、世間体というものは厳しかったはずである。ドラマのなかで、朝鮮人とのつきあいが認められないということについては、世間体や親の反対ということを持ち出しているのだが、形式的にのみ結婚するということについては、まったく本人たちの自由である、というのはどうも矛盾しているように思える。
それから、この結婚は職場の上司である寅子に許諾を求めるようなことなのだろうか。憲法にしたがうならば、まったくの自由であるから、寅子に相談する必要はない。寅子も、最終的には自由にすればいいということで対応するのだが、相談されたこと自体について、疑問を感じた様子はなかった。これが、もし、寅子が自分の結婚について職場の上司からとやかく言われるようなことがあったとしたら、絶対に「はて」と思っていたことになるだろう。ここは、そんなことは、職場の上司である私に相談するようなことではありません、自分たちで決めなさいと、言ってもよかった場面かもしれない。だが、寅子はそのようには言わなかった。その後、二人がどうなるかは別にして。
憲法と民法によって自由である結婚と、その地域の風習(あるいは、因習といってもいいかもしれない)、戦後の民主的な社会のなかで考えられるようになってきた家庭というもの、これらのなかで生きた人びとをどう描いていくのか、ということが重要なことであったかと思うのだが、このドラマは、こういう視点では作られていない。
美佐江の言ったことも気になる。どうして自分の体を自由につかってはいけないのですか、どうして人を殺してはいけないのですか……おそらく、大昔から人間を悩ませてきた問題である。東京大学の法学部にいったからといって、答えが得られるような問題ではない。強いていえば、法学部ではなく文学部にいって哲学などを勉強した方がいいかもしれない。(だが、哲学を学んでも、答えがないということを勉強することになるだろうが。)
このような問いを美佐江が寅子に問うたのは、どういう意図があってのことなのだろうか。少なくとも実務的な法律の問題としては、まったく論外の問いかけということになる。(まあ、近年では、人を殺してみたかったというような殺人もある時代ではあるのだが。)少なくとも、このような問いに対して、寅子が考えて、それで成長していくという展開は期待できそうにない。東京に出た美佐江が、後に、光事件のようなことにかかわる伏線ということかもしれないが、これからどうなるだろうか。
娘の優未のこともよく分からない。母親と娘の間に出来た溝を埋めるために、寅子は優未をともなって新潟に赴任したはずである。これまで、寅子は優未に何をしたというのだろうか。慣れない土地での母と娘の生活の苦労はあった。他に思いつくことは、マージャン大会につれて行ったことぐらいでしかかない。それから、稲が家事を手伝ってくれたこともある。ライトハウスには連れて行ってはいない。だが、これといって、二人の関係におおきな影響をあたえるような出来事とか、日常生活の変化(例えば毎日の食事のシーンとか、実はこれが最も大切で、ドラマではこういうところをこそ丁寧に描くべきだと思うのだが)があったということでもない。しかし、いつのまにか、母親の再婚に理解を示す優等生的な子どもなっている。この優未の変化が、私には理解できない。
細かなことかもしれないが、このころ、小学生が東京にいる花江おばさんに、母親に内緒で手紙を出したりするだろうか。今なら、スマホで連絡しあうこともあるだろうが。
花江が、突然、事前の連絡なしに、新潟にやってくるのも、理解できない。ドラマの進行のうえでは、寅子の再婚にむけて背中を押すことになるのだろうが。ここで、家族のために「戦う」、と言っていたが、この時代の女性の言うことばとしては、私としては不自然さを感じる。せいぜい言って、家族のために頑張る、だろう。
お守りにあった手紙は理解を超えている。もし優三が、本当に寅子に伝えたいことがあって手紙を書いたのなら、病院でお守りを戦友に渡すときに、中に手紙が入っているから、と一言かならず言うはずである。一般に、お守りはそうそう誰でもが自由になかを開けて見るものではない。そのことばがなかったということは、優三の死の場面を書いたときには、中に手紙が入っていて、それが寅子の再婚にかんするものであるということを、想定していなかった、ということなのだろう。脚本のミスを、かなり強引な設定で、この週の話に持っていったことになる。普通なら、お守りを渡すのではなく、手紙を書いて、これを妻に渡してくれとなるのではないだろうか。
それにしても、自分の死期を考えてのことにしては、娘の優未のことではなく、寅子の再婚のことばかり延々と書いてあるというのも、なんだか不自然である。
優三の手紙のシーンは、どう考えてみても不自然さがある。
寅子と航一との恋の場面については、もう何も言う気にならない。勝手にやってろとしか感じない。朝ドラで、中年の男女の恋を描くこともある。私がこれまで見たのは、もうちょっと自然な感じで、饒舌でも説明的でもなく、情感ゆたかに描いていたと思うのだが。(今、再放送している『オードリー』『ちゅらさん』それから秋から再放送予定の『カーネーション』のことなど、思ってみるのだが。)
2024年8月10日記
『虎に翼』「悪女の賢者ぶり?」
この週は特に裁判関係のことがあったということはないが、寅子には大きな出来事のあった週である。
見ていて疑問に思ったことなど、思いつくままに書いてみる。
寅子は、新潟地裁の判事の入倉について、「差別主義者のクソ小僧」と思っていた、と言った。ここは、思っていた、と過去のこととして言っていた。だが、これまでのこのドラマにおいて、入倉が差別主義者である、あるいは、そうではない、ということについて、どれぐらい描かれてきたのかと思う。
確かに、放火事件があったとき、朝鮮人の事件……ということを言っていた。それを寅子は、とがめている。これは、判事としては、確かに差別的な発言だったことになる。しかし、それ以上に問題なのは、判事が担当する事件について予断を持っていることであると、私は思う。裁判官として求められるのは、厳正な法的な中立性のはずである。それを逸脱したことこそが問題である。そして、この場合、そのことがたまたま朝鮮人の関係する事件だったことになる。寅子として、入倉に注意すべきは、まずは判事としての公正さについての心構えであるべきと思う。法曹にかかわる人間を登場人物として描くならば、ささいなことかもしれないが、このような細部に気を配っているかどうか、重要なことではないだろうか。(どうしても、朝鮮人差別ということをドラマの中で描きたかったということなのだろうが。)
また、入倉は、美佐江の事件について知り合いの刑事から聞いた話として、寅子に情報を伝えていた。これも、美佐江の件は、寅子たちの担当する事件ではなかったのであるが、裁判官が知り合いの刑事から事件の捜査についての情報を教えてもらう、それを裁判所内で話をする、ということはどうなのだろうと思う。地方の警察や裁判所はこんなものである、ということなのだろうか。これもささいなことではあるが、ちょっと気になったところである。あるいは、警察と裁判所の裁判官の関係とは、一般にこういうものでいいのだろうか。
放火事件の犯人は結局つかまったのだろうか。未解決のままでは、なんとなく後味が悪い。(このドラマについて、リーガルエンターテイメントとNHKは書いていたかと思うのだが、もうどうでもよくなってきた。)
この週では、寅子の再婚に向けて大きく動いたことになるのだが、その前に確認しておきたいことがある。これまでにも書いたことなのだが。
戦前までは、家が中心の制度であった。それが、憲法が新しくなり、民法が改正されて、家が中心ではなくなった。家にかわるものとして登場してきたのが、家庭である。男女の合意のみによって成立する夫婦とその子どもからなる家庭というものが、基本と考えられるようになった。しかし、昭和二〇年代では、古い家の考え方を整理できないままで、新しい家庭とはどうあるべきか模索していた時期ということになるだろう。しかし、これも、その後考え方が変わってきて、現代では、家庭というものが、個人を束縛するものであるとされるようになってきた。こども家庭庁を作るとき、家庭のことばが入ることに抵抗をしめした人が少なからずあった。
このような時代背景を考えてみると、寅子のこの時代は、家庭こそが社会の基本であると考えられていた時代であるとすべきであろう。では、このドラマで、家庭や結婚はどのようなものとして描かれているだろうか。
無論、ドラマであるから、その時代の風潮に忠実である必要はない。しかし、家庭裁判所の裁判官として仕事をする寅子を描くならば、その時代における、家庭や結婚が一般にどのようなものとして考えられていたかは、踏まえておく必要があることだと私は思う。
裁判所の職員の高瀬と小野の結婚についてであるが、よく理解できなことがある。
まず、小野は朝鮮人の男性と恋をしていたはずだが、その結果はどうなったのだろうか。東京からやってきた汐見香子に会って、日本人と朝鮮人の結婚について、思うところはなかったのだろうか。たまたま好きになった人が朝鮮人(あるいは、日本人)だった、ということなら、その恋を貫いてもよかった。新潟から東京にでも駆け落ちしてもよかったかもしれない。(そして、轟法律事務所にかかわることになるなら、これも面白い展開だろう。)
しかし、朝鮮人とのことはまったく無かったかのように、高瀬と小野は、結婚するという。それも形式的に籍をいれるだけであるとして、子どもをつくったりはしない、という。まあ、たしかに、当事者である男性と女性の合意としてそうならば、憲法にも民法にも違反していない。だが、その時代において、結婚して家庭を作り子どもを育て、という一般的な価値観からは大きく離れることになる。このことについて、高瀬と小野はどう思っていたことになるのだろうか。職場で公言している。普通に見合いして結婚するよりも、世間体というものは厳しかったはずである。ドラマのなかで、朝鮮人とのつきあいが認められないということについては、世間体や親の反対ということを持ち出しているのだが、形式的にのみ結婚するということについては、まったく本人たちの自由である、というのはどうも矛盾しているように思える。
それから、この結婚は職場の上司である寅子に許諾を求めるようなことなのだろうか。憲法にしたがうならば、まったくの自由であるから、寅子に相談する必要はない。寅子も、最終的には自由にすればいいということで対応するのだが、相談されたこと自体について、疑問を感じた様子はなかった。これが、もし、寅子が自分の結婚について職場の上司からとやかく言われるようなことがあったとしたら、絶対に「はて」と思っていたことになるだろう。ここは、そんなことは、職場の上司である私に相談するようなことではありません、自分たちで決めなさいと、言ってもよかった場面かもしれない。だが、寅子はそのようには言わなかった。その後、二人がどうなるかは別にして。
憲法と民法によって自由である結婚と、その地域の風習(あるいは、因習といってもいいかもしれない)、戦後の民主的な社会のなかで考えられるようになってきた家庭というもの、これらのなかで生きた人びとをどう描いていくのか、ということが重要なことであったかと思うのだが、このドラマは、こういう視点では作られていない。
美佐江の言ったことも気になる。どうして自分の体を自由につかってはいけないのですか、どうして人を殺してはいけないのですか……おそらく、大昔から人間を悩ませてきた問題である。東京大学の法学部にいったからといって、答えが得られるような問題ではない。強いていえば、法学部ではなく文学部にいって哲学などを勉強した方がいいかもしれない。(だが、哲学を学んでも、答えがないということを勉強することになるだろうが。)
このような問いを美佐江が寅子に問うたのは、どういう意図があってのことなのだろうか。少なくとも実務的な法律の問題としては、まったく論外の問いかけということになる。(まあ、近年では、人を殺してみたかったというような殺人もある時代ではあるのだが。)少なくとも、このような問いに対して、寅子が考えて、それで成長していくという展開は期待できそうにない。東京に出た美佐江が、後に、光事件のようなことにかかわる伏線ということかもしれないが、これからどうなるだろうか。
娘の優未のこともよく分からない。母親と娘の間に出来た溝を埋めるために、寅子は優未をともなって新潟に赴任したはずである。これまで、寅子は優未に何をしたというのだろうか。慣れない土地での母と娘の生活の苦労はあった。他に思いつくことは、マージャン大会につれて行ったことぐらいでしかかない。それから、稲が家事を手伝ってくれたこともある。ライトハウスには連れて行ってはいない。だが、これといって、二人の関係におおきな影響をあたえるような出来事とか、日常生活の変化(例えば毎日の食事のシーンとか、実はこれが最も大切で、ドラマではこういうところをこそ丁寧に描くべきだと思うのだが)があったということでもない。しかし、いつのまにか、母親の再婚に理解を示す優等生的な子どもなっている。この優未の変化が、私には理解できない。
細かなことかもしれないが、このころ、小学生が東京にいる花江おばさんに、母親に内緒で手紙を出したりするだろうか。今なら、スマホで連絡しあうこともあるだろうが。
花江が、突然、事前の連絡なしに、新潟にやってくるのも、理解できない。ドラマの進行のうえでは、寅子の再婚にむけて背中を押すことになるのだろうが。ここで、家族のために「戦う」、と言っていたが、この時代の女性の言うことばとしては、私としては不自然さを感じる。せいぜい言って、家族のために頑張る、だろう。
お守りにあった手紙は理解を超えている。もし優三が、本当に寅子に伝えたいことがあって手紙を書いたのなら、病院でお守りを戦友に渡すときに、中に手紙が入っているから、と一言かならず言うはずである。一般に、お守りはそうそう誰でもが自由になかを開けて見るものではない。そのことばがなかったということは、優三の死の場面を書いたときには、中に手紙が入っていて、それが寅子の再婚にかんするものであるということを、想定していなかった、ということなのだろう。脚本のミスを、かなり強引な設定で、この週の話に持っていったことになる。普通なら、お守りを渡すのではなく、手紙を書いて、これを妻に渡してくれとなるのではないだろうか。
それにしても、自分の死期を考えてのことにしては、娘の優未のことではなく、寅子の再婚のことばかり延々と書いてあるというのも、なんだか不自然である。
優三の手紙のシーンは、どう考えてみても不自然さがある。
寅子と航一との恋の場面については、もう何も言う気にならない。勝手にやってろとしか感じない。朝ドラで、中年の男女の恋を描くこともある。私がこれまで見たのは、もうちょっと自然な感じで、饒舌でも説明的でもなく、情感ゆたかに描いていたと思うのだが。(今、再放送している『オードリー』『ちゅらさん』それから秋から再放送予定の『カーネーション』のことなど、思ってみるのだが。)
2024年8月10日記
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