「昭和の選択 戦争なき世界へ 〜国際司法の長・安達峰一郎の葛藤」 ― 2024-08-15
2024年8月15日 當山日出夫
昭和の選択 昭和の選択 戦争なき世界へ 〜国際司法の長・安達峰一郎の葛藤
安達峰一郎という人のことは知らなかった。こういう日本人がいたのだな、という感慨がある。
見ながら思ったことを、思いつくままに書いてみる。
まず、安達峰一郎という人物の生いたちであるが、明治のエリート主義(いい意味で)だなと思う。日本中から才能がある若者が、立身出世を夢見て東京にあつまり、そこで勉学に励み、国家や社会のためにつくす仕事をする。今では、悪いイメージがつきまといかねないが、しかし、近代の日本を建設してきたのは、このような人たちがいたからである。また、それを助ける助成するシステム(例えば素封家による奨学金など)もあったことは、重要である。
この番組は、本筋の話題よりも脇道にそれたところでのちょっとした雑談が面白い。
磯田道史が言っていた、第一次世界大戦から戦争が始まった。それまでは、合戦だった。まあ、そうなのかなと思う。日本にとってみれば、日露戦争は、どうだったのだろうか。そして、本格的な戦争となった第一次世界大戦を日本は経験していない。戦史としては、戦車、航空機、化学兵器など、新しい技術が投入され、多大の犠牲(非戦闘員をふくむ)を出した戦争であった。それを、日本が直接経験していないということが、その後の日本のあり方に少なからず影響を与えたことは確かだろう。(番組では言っていなかったが、第一次世界大戦後のヨーロッパを見た人の一人として、昭和天皇をあげておいてもいいかもしれない。)
においが重要であるということは、確かにそうだろう。史料には残らないものだし、映像記録にも残らない。かろうじて、雰囲気を伝えることができるとすれば、文学作品かもしれない。戦場のにおい、大規模な災害のにおい、これを体験的に知っているかどうか、ということは考えるべきことである。
外交官(に限らないだろうが)筆まめであることの重要さというのは、そういうものだろうと思う。今は、電子メールの時代になってしまっているが、ちょっとした日常の連絡のやりとりの積み重ねが、相互の信頼関係の醸成に役立つということはいえることだと感じる。(この意味では、日本の政治家の残した文書、記録、日記の類のいくつかが、公的な機関に保存されることは意味のあることだと思う。)
藪中三十二の言っていた、外交において、本省からの訓令など、役にたたない。適当に無視しておけば、というのは、現役ではなかか言えないことだろうが、そういうものかと思う。
出席者のなかで、藪中三十二だけが安達博士という言い方をしていたことが、気になった。学位を取ったということなのであるが、外交官としての敬意の現れと解していいだろうか。
最後に、では、どうやって平和を構築していくか、というあたり。現実的には難しいことであるが、磯田道史の言っていた「さりとての努力」ということには、賛同する。言いかえれば理想を捨てないということであり、と同時に、現実的な部分をしっかりとふまえておく、ということになるだろう。平和については、極端な理想主義と、現実論が乖離しがちであるが、そのなかにあって、地道な努力(それは、決してマスコミで報じられたり、あるいは、歴史の記述に残るようなものではないかもしれないが)こそが、重要なのである。
それから、満州事変とリットン調査団のことが出てきていた。リットン調査団の報告書については、現在では、日本として妥協の余地のあるものであった、というのが言われているところかと思っている。満州における日本の権益をまったく否定したということではないはずである。その当時の世界において、植民地支配を続けていた、欧米諸国と、そこそこのところで妥協点を見出して、その後の戦争を回避することは不可能ではなかったかもしれない。機会均等、門戸開放である。そうなった場合は、国際連盟からの脱退もなかったろうし、ドイツとの同盟もどうなったかわからない。世界の歴史は変わっていただろう。
ただ、その当時の日本の世論、マスコミは、そのような妥協については、絶対に反対だったろうし、政府としても難しい判断になったにはちがいない。軍部をコントロールできたかどうかも難しいかもしれない。また、これは、現代の視点から見れば、中国に対する侵略の正当化ということにもなる。しかし、そのような選択肢もあり得たかもしれないとは、考えてみていいのではないだろうか。
安達峰一郎は、オランダでなくなりオランダによる国葬であった。国葬とは、このような人物にこそふさわしい。
2024年8月13日記
昭和の選択 昭和の選択 戦争なき世界へ 〜国際司法の長・安達峰一郎の葛藤
安達峰一郎という人のことは知らなかった。こういう日本人がいたのだな、という感慨がある。
見ながら思ったことを、思いつくままに書いてみる。
まず、安達峰一郎という人物の生いたちであるが、明治のエリート主義(いい意味で)だなと思う。日本中から才能がある若者が、立身出世を夢見て東京にあつまり、そこで勉学に励み、国家や社会のためにつくす仕事をする。今では、悪いイメージがつきまといかねないが、しかし、近代の日本を建設してきたのは、このような人たちがいたからである。また、それを助ける助成するシステム(例えば素封家による奨学金など)もあったことは、重要である。
この番組は、本筋の話題よりも脇道にそれたところでのちょっとした雑談が面白い。
磯田道史が言っていた、第一次世界大戦から戦争が始まった。それまでは、合戦だった。まあ、そうなのかなと思う。日本にとってみれば、日露戦争は、どうだったのだろうか。そして、本格的な戦争となった第一次世界大戦を日本は経験していない。戦史としては、戦車、航空機、化学兵器など、新しい技術が投入され、多大の犠牲(非戦闘員をふくむ)を出した戦争であった。それを、日本が直接経験していないということが、その後の日本のあり方に少なからず影響を与えたことは確かだろう。(番組では言っていなかったが、第一次世界大戦後のヨーロッパを見た人の一人として、昭和天皇をあげておいてもいいかもしれない。)
においが重要であるということは、確かにそうだろう。史料には残らないものだし、映像記録にも残らない。かろうじて、雰囲気を伝えることができるとすれば、文学作品かもしれない。戦場のにおい、大規模な災害のにおい、これを体験的に知っているかどうか、ということは考えるべきことである。
外交官(に限らないだろうが)筆まめであることの重要さというのは、そういうものだろうと思う。今は、電子メールの時代になってしまっているが、ちょっとした日常の連絡のやりとりの積み重ねが、相互の信頼関係の醸成に役立つということはいえることだと感じる。(この意味では、日本の政治家の残した文書、記録、日記の類のいくつかが、公的な機関に保存されることは意味のあることだと思う。)
藪中三十二の言っていた、外交において、本省からの訓令など、役にたたない。適当に無視しておけば、というのは、現役ではなかか言えないことだろうが、そういうものかと思う。
出席者のなかで、藪中三十二だけが安達博士という言い方をしていたことが、気になった。学位を取ったということなのであるが、外交官としての敬意の現れと解していいだろうか。
最後に、では、どうやって平和を構築していくか、というあたり。現実的には難しいことであるが、磯田道史の言っていた「さりとての努力」ということには、賛同する。言いかえれば理想を捨てないということであり、と同時に、現実的な部分をしっかりとふまえておく、ということになるだろう。平和については、極端な理想主義と、現実論が乖離しがちであるが、そのなかにあって、地道な努力(それは、決してマスコミで報じられたり、あるいは、歴史の記述に残るようなものではないかもしれないが)こそが、重要なのである。
それから、満州事変とリットン調査団のことが出てきていた。リットン調査団の報告書については、現在では、日本として妥協の余地のあるものであった、というのが言われているところかと思っている。満州における日本の権益をまったく否定したということではないはずである。その当時の世界において、植民地支配を続けていた、欧米諸国と、そこそこのところで妥協点を見出して、その後の戦争を回避することは不可能ではなかったかもしれない。機会均等、門戸開放である。そうなった場合は、国際連盟からの脱退もなかったろうし、ドイツとの同盟もどうなったかわからない。世界の歴史は変わっていただろう。
ただ、その当時の日本の世論、マスコミは、そのような妥協については、絶対に反対だったろうし、政府としても難しい判断になったにはちがいない。軍部をコントロールできたかどうかも難しいかもしれない。また、これは、現代の視点から見れば、中国に対する侵略の正当化ということにもなる。しかし、そのような選択肢もあり得たかもしれないとは、考えてみていいのではないだろうか。
安達峰一郎は、オランダでなくなりオランダによる国葬であった。国葬とは、このような人物にこそふさわしい。
2024年8月13日記
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