『虎に翼』「稼ぎ男に繰り女?」 ― 2024-08-18
2024年8月18日 當山日出夫
『虎に翼』「稼ぎ男に繰り女?」
あいかわらず、このドラマについては絶賛する人たちが多い。しかし、私はどうしてもそうは思えない。くだらなければ見なければいいということもあるが、しかし、このドラマについては、何をどのように描くことになるのかは、見届けておきたいと思う。
ささいなことだが、東京に戻って東京地裁の判事になった寅子は、汐見と再会する。そのとき、「ヒャンちゃん」と言っていた。裁判所の部屋には、まだ紹介されていない男性がいた。その状況で、この言い方はないだろうと思う。汐見香子は、日本人と結婚して、崔香淑という名前は捨てた、とかつて寅子に言ったはずである。ここは、どうしても気になったのなら、「奥さまはお元気ですか」ぐらいの言い方しかありえない場面である。朝鮮戦争が終わったころの日本における朝鮮人のことを思うことになる。このドラマの脚本、スタッフは、どう思ってこの場面を設定したのだろうか。寅子が香子のことを気にかけていたというだけのことなら、あまりにも浅はかである。
猪爪の家の問題が大きく取りあげられていた。たしか、ここは、戦時中は工場があったところで、その建物の一部を使って、今も住んでいるということではなかったと思うが、どうだったろうか。この場合、その土地と建物の権利関係が、まず問題になるはずだが、このことは一切出てきていない。
父親の直言が亡くなった後、(あえて昔風の言い方をするのだが)家督はどうなるのだろうか。これには、二つの方向で考えることができる。
長男の直道が戦争で死んで、花江は未亡人である。だが、猪爪の家にとどまっている。たしか花江の両親はすでに亡くなっていたはずである。つまり、帰る家はもうない。寅子は、佐田優三と結婚して、形式的には猪爪の家を離れたことになっている。
一つには、長男(直道)が死んだのだから、次男の直明があとをつぐという選択肢がある。
もう一つは、長男(直道)には男の子が二人残された。直人と直治である。この子どもたちのどちらかが、家をつぐ。
民法の規定と、それから、その時代の家族についての慣習、このバランスのなかで考えることになると思う。いや、これしか、道筋はないだろう。
それから、当時の住宅事情とか、猪爪の家の生計とかがからんでくる。そもそも、この家の広さで、住める部屋があるかどうかが問題なのに、誰もそのことについて言わない。「空いている部屋もあることだし」というぐらいの台詞さえもなかった。
だが、ドラマでは、直明が結婚して同居するとか、いや、結婚したら出て行くべきだとか、という問題になってしまっている。どこにも上記のような、当然でてくるようなことを検討したという形跡がなかった。
仮にも寅子は、判事であり、家庭裁判所に勤めたこともある。このような問題については、専門家のはずなのだが、まったく判断を示そうとしていない。(まあ、自分の家のことは判断できないということもあるのかもしれないが、そうなら、知り合いの弁護士などの専門家に相談することもあっていいかもしれないが、そうもしていない。)
花江は、猪爪の家においては、姑のような存在であるので、直道の妻となる女性(玲実)とは同居したくないという。姑と同居したいお嫁さんなどいるはずがないという。これは、この当時、昭和三〇年ごろである、の価値観としてはどうなのだろうか。普通に考えれば、お嫁さんはその家に住むのがあたりまえであったろう。
かつて花江は、猪爪の家で、姑のはると仲が悪かったということを言っていた。まあ、たしかに、直道と結婚したころ、自分はこの家の女中みたいなもの、と嘆いていた。だが、これも、結果としては、花江と直道が、近くに別居することで片付いている。嫁と姑の問題としては、どうしても『おしん』の佐賀の時代のことを思ってしまうのだが、今の時代に、このような人間関係を描くことはもう無理なのかもしれないと思う。強いていえば、おしんに比べれば花江の生活は天国のようなものである。
それよりも不憫なのは優三である。優三の立場からすると、自分が書生として仕えている家のお嬢さん(寅子)が、社会的地位を得るために結婚したいとと言って結婚することになる。それも、もとの猪爪の家においてである。家のなかの地位は書生のころと大きく変わるわけではない。それのみならず、結婚しても、妻となった女性(寅子)、体に触れさせもしない。常識的に考えて、こんな理不尽でかわいそうなことはない。せめて、近所に家を借りて、独立した住まいを持たせるぐらいのことはすべきだったろう。
どうも、この社会的地位を得るための結婚ということのあたりから、このドラマはおかしくなりはじめたように思えてならない。
航一が猪爪の家にやってきて、家庭裁判ということになったのだが、どうも茶番劇でしかなかった。最終的にどのようにして結論を得るのか、そのことを考えずに、最後は多数決ということになっていた。寅子も航一も裁判官である。人が話し合ってものごとを決めるということについては、しかるべき見識があってしかるべきではないだろうか。
猪爪の家の問題は、家計を誰が支えるかということと、それから、将来の花江の老後のことになる。今でいえば、介護を誰がになうのかということである。息子の直人と直治、それから、直明は、自分が面倒を見るということを言っていたが、しかし、この時代ならば、その仕事の実際をになうのは、その配偶者、つまり、妻の仕事になる。このことには、ドラマのなかでは一切触れていなかった。また、直明の恋人(と言っていいだろうか)の玲実も、将来、花江の介護をすることになることについては、まったく何も言っていない。嫌だとも、私がやりますとも、言っていなかった。これは、はっきりいって、このドラマのこの場面における、たちのよくない偽善である。
現代の価値観において、家族の同居が大きな問題になる要因の一つは介護である。現代の価値観をおおいに取り込んでこのドラマは作っているようなのだが、しかし、家族についての本質的な問題になると、知らんぷりをしているとしか思えない。非常にずるい。これは、以前の梅子が家を出たときのことを思い出してもそうである。梅子は、大庭の家を出たのだが、実際は、年老いた夫や戦争で病んだ次男の介護から逃げたことになる。
寅子と航一の恋については、コメディにもなっていないし、また、情感溢れる描写にもなっていない。永遠を誓わない愛……というような、現代でもよく分からないフレーズで片づけている。ここは、ともに戦争で配偶者を亡くしたものどうし、ということで、あっさりとした関係からはじまって、徐々にお互いを意識し合い、感情を確認していく、というような展開でよかったと思うのだけれども、しかし、このドラマでは、そのような普通にあり得た(と今の視聴者が納得するような)描き方にはしたくないらしい。これは、現代でも不自然であるし、無論、その時代においても不自然であったとしか感じられない。
寅子は、法律とは清らかな泉のようなものだと言っていたが、この週になって、それは、人権とか人間の尊厳である、と言っていた。いいかえれば、法を超えた、あるいは、その根底にある、普遍的な価値観ということができるかもしれない。これはいいとしても、では、何故、寅子が、このような考えを持つにいたったのか、その経緯がこのドラマではまったく描かれてきていない。新潟でのことが大きく成長につながったとは到底思えない。寅子は成長しているのか、もし、成長するとしたらどのような経験があってのことなのか、これこそドラマで描くべきことのはずだが、それがまったくない。このドラマの作者や制作陣にとっては、人間は成長してはいけないものなのだろうか。
ここでの寅子の法律観の大きな転換は、原爆裁判への布石かとも思ってみる。現行の法律では裁くことができないならば、より普遍的な人権の概念を持ち出すことになるだろうからである。
原爆裁判のことが出てきた。これは、次週以降も続くことになるのだろうが、しかし、唐突という印象がある。もし、史実として三淵嘉子のことをふまえて描きたいのなら、その前提として、終戦の玉音放送(あるいは、ポツダム宣言受諾、または、降伏文書調印)は必要であったろうし、また、東京裁判は必須であった。
東京裁判があって、日本は、あの戦争が侵略戦争であったと認識するようになった。(この認識については、いろいろと議論はあるけれど。)戦争中、法曹にかかわる人間として、寅子も航一も、いわゆる社会の支配階層に位置したことになる。一般庶民の側として、被害者でいられる立場ではないはずである。さらに、寅子の猪爪の家は、軍需産業にかかわっていた。このような立場の人間として、無条件降伏、GHQの支配、東京裁判、サンフランシスコ平和条約(この週でやっと出てきた)、という流れをどう感じていたのか、まったく描いてきていない。
東京裁判については、いろいろ議論はあるけれども、その一つに、事後の概念で過去を裁いたということがある。平和に対する罪、人道に対する罪、である。これを、当時の日本の法曹関係者がどううけとっていたのか、まったく触れていない。また、東京裁判があって、戦争中の日本の残虐行為の数々が明らかになって国民の知るところとなったということもある。今のことばでいえば、日本の戦争犯罪である。こういうことをきちんとふまえなければ、原爆についてどう考えるかは難しいはずである。
ともあれ、ドラマの時代設定は昭和三〇年ごろになっている。戦後のこの時代のことなら、今でも多くの人びとが、生活感覚としてその時代の雰囲気を記憶している。自分の幼いころのことだったり、あるいは、父母や祖父母の思い出話だったり。こういう人びとが多くいるということを無視して、現代の感覚や価値観でドラマを作っても、人は受け入れることはできない。
人間が、その生まれた時代と環境、歴史のなかにあって、自己を形成し生きていくということは、決して否定されるべきことではない。人間とはそのようなものなのである。無論、歴史をふり返れば誤りもあり価値観の変化もある。だが、現代とは違う価値観のなかに生きてきた人たちが、何を考え、そして今にいたっているのか、それを尊重することがないのは、ただ自分の価値観に傲慢なだけである。こういう傲慢さは、人間というものについて大切なものが何であるのか、分かっていないことになる。
他にも書きたいことは多くある(航一の家庭のこと、よねのこと、轟のことなど、いっぱいあるが)が、これぐらいにしておく。
2024年8月17日記
『虎に翼』「稼ぎ男に繰り女?」
あいかわらず、このドラマについては絶賛する人たちが多い。しかし、私はどうしてもそうは思えない。くだらなければ見なければいいということもあるが、しかし、このドラマについては、何をどのように描くことになるのかは、見届けておきたいと思う。
ささいなことだが、東京に戻って東京地裁の判事になった寅子は、汐見と再会する。そのとき、「ヒャンちゃん」と言っていた。裁判所の部屋には、まだ紹介されていない男性がいた。その状況で、この言い方はないだろうと思う。汐見香子は、日本人と結婚して、崔香淑という名前は捨てた、とかつて寅子に言ったはずである。ここは、どうしても気になったのなら、「奥さまはお元気ですか」ぐらいの言い方しかありえない場面である。朝鮮戦争が終わったころの日本における朝鮮人のことを思うことになる。このドラマの脚本、スタッフは、どう思ってこの場面を設定したのだろうか。寅子が香子のことを気にかけていたというだけのことなら、あまりにも浅はかである。
猪爪の家の問題が大きく取りあげられていた。たしか、ここは、戦時中は工場があったところで、その建物の一部を使って、今も住んでいるということではなかったと思うが、どうだったろうか。この場合、その土地と建物の権利関係が、まず問題になるはずだが、このことは一切出てきていない。
父親の直言が亡くなった後、(あえて昔風の言い方をするのだが)家督はどうなるのだろうか。これには、二つの方向で考えることができる。
長男の直道が戦争で死んで、花江は未亡人である。だが、猪爪の家にとどまっている。たしか花江の両親はすでに亡くなっていたはずである。つまり、帰る家はもうない。寅子は、佐田優三と結婚して、形式的には猪爪の家を離れたことになっている。
一つには、長男(直道)が死んだのだから、次男の直明があとをつぐという選択肢がある。
もう一つは、長男(直道)には男の子が二人残された。直人と直治である。この子どもたちのどちらかが、家をつぐ。
民法の規定と、それから、その時代の家族についての慣習、このバランスのなかで考えることになると思う。いや、これしか、道筋はないだろう。
それから、当時の住宅事情とか、猪爪の家の生計とかがからんでくる。そもそも、この家の広さで、住める部屋があるかどうかが問題なのに、誰もそのことについて言わない。「空いている部屋もあることだし」というぐらいの台詞さえもなかった。
だが、ドラマでは、直明が結婚して同居するとか、いや、結婚したら出て行くべきだとか、という問題になってしまっている。どこにも上記のような、当然でてくるようなことを検討したという形跡がなかった。
仮にも寅子は、判事であり、家庭裁判所に勤めたこともある。このような問題については、専門家のはずなのだが、まったく判断を示そうとしていない。(まあ、自分の家のことは判断できないということもあるのかもしれないが、そうなら、知り合いの弁護士などの専門家に相談することもあっていいかもしれないが、そうもしていない。)
花江は、猪爪の家においては、姑のような存在であるので、直道の妻となる女性(玲実)とは同居したくないという。姑と同居したいお嫁さんなどいるはずがないという。これは、この当時、昭和三〇年ごろである、の価値観としてはどうなのだろうか。普通に考えれば、お嫁さんはその家に住むのがあたりまえであったろう。
かつて花江は、猪爪の家で、姑のはると仲が悪かったということを言っていた。まあ、たしかに、直道と結婚したころ、自分はこの家の女中みたいなもの、と嘆いていた。だが、これも、結果としては、花江と直道が、近くに別居することで片付いている。嫁と姑の問題としては、どうしても『おしん』の佐賀の時代のことを思ってしまうのだが、今の時代に、このような人間関係を描くことはもう無理なのかもしれないと思う。強いていえば、おしんに比べれば花江の生活は天国のようなものである。
それよりも不憫なのは優三である。優三の立場からすると、自分が書生として仕えている家のお嬢さん(寅子)が、社会的地位を得るために結婚したいとと言って結婚することになる。それも、もとの猪爪の家においてである。家のなかの地位は書生のころと大きく変わるわけではない。それのみならず、結婚しても、妻となった女性(寅子)、体に触れさせもしない。常識的に考えて、こんな理不尽でかわいそうなことはない。せめて、近所に家を借りて、独立した住まいを持たせるぐらいのことはすべきだったろう。
どうも、この社会的地位を得るための結婚ということのあたりから、このドラマはおかしくなりはじめたように思えてならない。
航一が猪爪の家にやってきて、家庭裁判ということになったのだが、どうも茶番劇でしかなかった。最終的にどのようにして結論を得るのか、そのことを考えずに、最後は多数決ということになっていた。寅子も航一も裁判官である。人が話し合ってものごとを決めるということについては、しかるべき見識があってしかるべきではないだろうか。
猪爪の家の問題は、家計を誰が支えるかということと、それから、将来の花江の老後のことになる。今でいえば、介護を誰がになうのかということである。息子の直人と直治、それから、直明は、自分が面倒を見るということを言っていたが、しかし、この時代ならば、その仕事の実際をになうのは、その配偶者、つまり、妻の仕事になる。このことには、ドラマのなかでは一切触れていなかった。また、直明の恋人(と言っていいだろうか)の玲実も、将来、花江の介護をすることになることについては、まったく何も言っていない。嫌だとも、私がやりますとも、言っていなかった。これは、はっきりいって、このドラマのこの場面における、たちのよくない偽善である。
現代の価値観において、家族の同居が大きな問題になる要因の一つは介護である。現代の価値観をおおいに取り込んでこのドラマは作っているようなのだが、しかし、家族についての本質的な問題になると、知らんぷりをしているとしか思えない。非常にずるい。これは、以前の梅子が家を出たときのことを思い出してもそうである。梅子は、大庭の家を出たのだが、実際は、年老いた夫や戦争で病んだ次男の介護から逃げたことになる。
寅子と航一の恋については、コメディにもなっていないし、また、情感溢れる描写にもなっていない。永遠を誓わない愛……というような、現代でもよく分からないフレーズで片づけている。ここは、ともに戦争で配偶者を亡くしたものどうし、ということで、あっさりとした関係からはじまって、徐々にお互いを意識し合い、感情を確認していく、というような展開でよかったと思うのだけれども、しかし、このドラマでは、そのような普通にあり得た(と今の視聴者が納得するような)描き方にはしたくないらしい。これは、現代でも不自然であるし、無論、その時代においても不自然であったとしか感じられない。
寅子は、法律とは清らかな泉のようなものだと言っていたが、この週になって、それは、人権とか人間の尊厳である、と言っていた。いいかえれば、法を超えた、あるいは、その根底にある、普遍的な価値観ということができるかもしれない。これはいいとしても、では、何故、寅子が、このような考えを持つにいたったのか、その経緯がこのドラマではまったく描かれてきていない。新潟でのことが大きく成長につながったとは到底思えない。寅子は成長しているのか、もし、成長するとしたらどのような経験があってのことなのか、これこそドラマで描くべきことのはずだが、それがまったくない。このドラマの作者や制作陣にとっては、人間は成長してはいけないものなのだろうか。
ここでの寅子の法律観の大きな転換は、原爆裁判への布石かとも思ってみる。現行の法律では裁くことができないならば、より普遍的な人権の概念を持ち出すことになるだろうからである。
原爆裁判のことが出てきた。これは、次週以降も続くことになるのだろうが、しかし、唐突という印象がある。もし、史実として三淵嘉子のことをふまえて描きたいのなら、その前提として、終戦の玉音放送(あるいは、ポツダム宣言受諾、または、降伏文書調印)は必要であったろうし、また、東京裁判は必須であった。
東京裁判があって、日本は、あの戦争が侵略戦争であったと認識するようになった。(この認識については、いろいろと議論はあるけれど。)戦争中、法曹にかかわる人間として、寅子も航一も、いわゆる社会の支配階層に位置したことになる。一般庶民の側として、被害者でいられる立場ではないはずである。さらに、寅子の猪爪の家は、軍需産業にかかわっていた。このような立場の人間として、無条件降伏、GHQの支配、東京裁判、サンフランシスコ平和条約(この週でやっと出てきた)、という流れをどう感じていたのか、まったく描いてきていない。
東京裁判については、いろいろ議論はあるけれども、その一つに、事後の概念で過去を裁いたということがある。平和に対する罪、人道に対する罪、である。これを、当時の日本の法曹関係者がどううけとっていたのか、まったく触れていない。また、東京裁判があって、戦争中の日本の残虐行為の数々が明らかになって国民の知るところとなったということもある。今のことばでいえば、日本の戦争犯罪である。こういうことをきちんとふまえなければ、原爆についてどう考えるかは難しいはずである。
ともあれ、ドラマの時代設定は昭和三〇年ごろになっている。戦後のこの時代のことなら、今でも多くの人びとが、生活感覚としてその時代の雰囲気を記憶している。自分の幼いころのことだったり、あるいは、父母や祖父母の思い出話だったり。こういう人びとが多くいるということを無視して、現代の感覚や価値観でドラマを作っても、人は受け入れることはできない。
人間が、その生まれた時代と環境、歴史のなかにあって、自己を形成し生きていくということは、決して否定されるべきことではない。人間とはそのようなものなのである。無論、歴史をふり返れば誤りもあり価値観の変化もある。だが、現代とは違う価値観のなかに生きてきた人たちが、何を考え、そして今にいたっているのか、それを尊重することがないのは、ただ自分の価値観に傲慢なだけである。こういう傲慢さは、人間というものについて大切なものが何であるのか、分かっていないことになる。
他にも書きたいことは多くある(航一の家庭のこと、よねのこと、轟のことなど、いっぱいあるが)が、これぐらいにしておく。
2024年8月17日記
コメント
_ 妖怪人間M ― 2024-08-18 07時03分20秒
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梅子さんが最終的に家を出る時点では夫は亡くなっているので、「年老いた夫」は「年老いた姑」では?なお、それ以前(昭和13年)に離婚を突きつけられ一度家を出たことがありますが、それを指しておられるなら「戦争で病んだ次男」を持ち出すのははおかしいと思います。
>人権とか人間の尊厳である、と言っていた。いいかえれば、法を超えた、あるいは、その根底にある、普遍的な価値観ということができるかもしれない
日本国憲法で「法」という一文字の言葉が出てくるのは第14条のみで、それ以外は「法律」「立法」「司法」といった熟語になっていることを興味深く思います。
>では、何故、寅子が、このような考えを持つにいたったのか、その経緯がこのドラマではまったく描かれてきていない。新潟でのことが大きく成長につながったとは到底思えない。
おっしゃるとおりであり、桂場さんが寅ちゃんを異動させたのが判事としての修業の一環であったことまで「無意味」になってしまってるように思います。
明確には述べておられませんが、東京裁判の法的構成に触れぬまま原爆裁判に突き進むのにはドラマ内容の飛躍があるというご指摘だと受け止めました。そのとおりだと思いますが、このドラマは後出しジャンケンで決着をつけることもあるので、しばらく視聴を続けたいと思います。