『虎に翼』「貞女は二夫に見えず?」 ― 2024-08-25
2024年8月24日 當山日出夫
『虎に翼』「貞女は二夫に見えず?」
あいかわらずこのドラマについての評判は高いようだが、それは、とりあげた事柄が現代の問題であることについてである。そのような問題が、どのような歴史があり、ドラマの時点の昭和三〇年頃から現代にいたるまで、どのような経緯を経ているのか、これも考えるべきことだと思うのだが、このことまで考慮したものはあまり無いようである。
はっきり言ってこのドラマは、破綻してきたとしかいいようがない。
ドラマのなかではっきりと明言はしていないが、しかし、主張としては現在の民法の規定は憲法に反していると、私は理解する。
寅子と航一は、婚姻届を出す法的な結婚ではなく、内縁の関係での結婚ということになった。このこと自体は、この時代においても珍しいことではなかったろう。しかし、これをこのドラマの主人公のこととして描くのはどうかと思う。
まず、寅子は、戦後の日本国憲法になったことに感激したということがある。そもそも寅子が法律を学び始めたきっかけは、戦前の旧民法の規定に疑問を持ったことから、ドラマはスタートしている。その後、高等試験(司法科)に合格し弁護士になった。戦後になって、法務省で、新憲法にのっとって、新民法の改正の起草にかかわっている。また、民法が変わったことにともなって、星航一の父親である、初代最高裁判所長官の星朋彦の民法についての著作の改訂を手伝っている。家庭裁判所の仕事もしている。つまり、これまでの寅子の経歴は、新民法についての専門家であるといってよい。
その寅子が、結婚すれば苗字が変わることに、いまさら疑問をいだくということがおかしい。疑問をいだいてもいいかもしれないが、それならば、まず、自分の過去をふり返ってみることになるはずである。自分が法律改正の草案にかかわった民法が、もし憲法に違反しているということならば、そのような仕事をしてしまった自分の過去についての自責の念があってしかるべきである。しかし、寅子には、微塵もそのような気配はなかった。寅子の法律家としての経歴や仕事について、自分自身でどう思っているのだろうか。
結婚して佐田の姓がなくなることに疑問をいだくことになったとき、佐田寅子としてしてきた仕事のことを思ったはずである。その経歴のなかには、まさに民法の改正という仕事があった。星朋彦の民法の本の改訂の仕事もあった。ドラマの筋からすると、間違った、憲法違反の仕事をしてしまった佐田寅子ということにならねばならないのだが、そのようには思っていない。このあたりが、ドラマの筋立てとして、無理に新民法の違憲論を持ち出してきているように感じられる。
また、常識的に考えてこの当時の裁判官という職業では、法の遵守ということが、一般の市民よりも強く求められるだろうし、また、本人もそれを意識するところがあってしかるべきだろう。ここで、まず思い出すべきは、闇の食糧を食べずに餓死した花岡のことであるはずだが、このドラマのなかでは、誰も思い出していなかった。(轟の回想では出てきたが、意味がまったく違う。)
内縁の関係でも違法ではない。しかし、民法の立法の趣旨からははずれるはずである。民法改正の仕事にたずさわり、家裁の裁判官でもあった寅子としては、法律にしたがってしかるべきところであると考えるのが普通だろう。
三淵嘉子をモデルにしたドラマである。だから、事実どおりでなければならないとは思わない。ドラマなのだから改変はあってもいい。しかし、その改変は、ドラマを面白く作る必然性があってのことである。この場合、夫婦別姓という現代の問題を持ち込むことになる一方で、法律家としての寅子の生き方については、大きな矛盾を生じさせることになってしまっている。それで、ドラマとして面白くなっているのならいいが、私には、面白くなったとは感じられない。むしろ寅子という法律家としての人物のあり方が、メチャクチャになってしまったと感じざるをえない。
破綻しているといえば、ライトハウスの件がある。涼子は、ライトハウスの名前は、よねが昔働いていた店である燈台の名前からとったと言っていた。このとき、喫茶店と言っていた。その新潟支店であると。これは、おかしい。よねが昔働いていた燈台はカフェーである。戦前の上野のカフェーは、今日でいう性風俗店である。カフェーの女給といえば、娼婦の一歩手前の存在といってよい。(ちなみに、ドラマの最初の回で寅子の本棚が映っていた。中に『放浪記』があった。林芙美子の『放浪記』を実際に読めば分かるが、カフェーの女給は女性として最下層の仕事である。)
ドラマの始めのころ、よねがどこで働いているかという状況の説明描写として、あきらかにいかがわしい店内の様子を映していた。そのようないかがわしい店で、女給にならないまでも、男装した女店員として働くよねが、姉が苦労して作ってくれた金を使って明律大学女子部で法律を学び弁護士をめざす。実際には、おそらく小学校もまともに通わせてもらえなかっただろうよねが、法律の勉強をするのはきわめてハードルが高いと思うのだが、しかし、そのような設定をあえてしたところに、よねという登場人物の存在意義があった。
燈台がカフェーから喫茶店に変わってしまっては、このドラマにおける、よねという人物の存在意義が根本的に変わってしまう。ここもドラマの筋として破綻しているところである。
ちょっと余計なことを言えば、戦前の上野のカフェーであるなら、男娼が登場していてもおかしくはなかったかと思うが、朝ドラにそこまでは無理だろう。
性的マイノリティ、LGBTのことが出てきていた。その描き方について、賛否両論はあるかもしれないのだが、私の感想としては、これでこのドラマが面白くなっているとは感じられない。むしろ、破綻の要因の一つになっている。
寅子と航一は、法的な結婚はしないという。それで、本人たちは満足であることになっている。
今の日本で同性婚が問題になっているのは、同性どうしであっても、法律で認める結婚関係を求めてのことである。寅子と航一のように、事実上の夫婦であればそれで問題ないということなら、なぜ、その人たちは同性婚の権利を求めるのだろうか。
まず、同性婚、同性愛ということを、社会的に認められるものにしたいということがある。が、それだけではなく、さらに、夫婦として婚姻関係にあることで、法律的な、また各種の行政サービスを受けられるようになりたいということもある。つまり法律的な結婚という制度を必要としているのである。
轟は、自分たちの関係(同性どうしの関係)が、死ねば無くなってしまう、という意味のことを言っていた。この気持ちと、内縁の関係(これも死ねば無くなってしまう)を選んだ寅子と航一は、お互いのことをどう思うことになるのだろうか。(永遠を誓わない愛だから、それでいいということなのかもしれないが、それならそのように分かりやすく説明的に描くべきである。)
夫婦別姓を求めるなら、内縁の関係、事実婚でいい……という考え方と、制度的な同性婚を求める要求と、この関係を、このドラマではどう考えているのだろうか。ここのところについて、このドラマでは、まったく触れるところがなかった。
夫婦で同姓の制度が違憲ならば、寅子は、いさぎよく裁判官をやめて、弁護士になってその権利のための活動をすべきだと思うのだが、そうはしないようだ。(これは法律家の生き方として筋が通っていないと感じざるをえない。)
汐見香子のことも気になる。日本人である汐見と結婚して、崔香淑という名前は捨てたと言っていた。この当時、(あるいは現代にいたるまでの)朝鮮の人たちの、このような思いを、寅子はどううけとめていたのだろうか。前回も触れたが、そう気軽に「ヒャンちゃん」などと呼んではいけないだろう。航一と結婚すると佐田の苗字でなくなると思ったとき、香子のことは思いうかばなかったのだろうか。このあたりの錯綜した事柄と朝鮮の人びとの思いを少しでも丁寧に描いてあるとよかったのだが。
ただ、日本における人の名前の歴史は、かなりややこしいところがある。少なくとも、「日本人」が「姓・名」を名前とするようになったのは、明治からのことである。そんなに歴史のあることではない。夫婦同姓、別姓、いろいろ意見はあるだろうが、名前にこだわるのも、ある意味では近代から現代の問題でもあることは、考えてみた方がいいかもしれない。夫婦の同姓(夫の姓)が旧民法の規定であるのだが、これが決まったのは明治の終わりごろ。ドラマの時点(昭和三〇年)からは、半世紀ほど前のことにすぎない。
また、これは、近年になって、朝鮮語の名前を、朝鮮漢字音で読むようになったことも関連する。漢字というものの性質からして、現地音(日本では日本の漢字音)で読むことは、別に問題のあることではないという側面もあるが、しかし、本人の希望する読み方(朝鮮漢字音)で読むという流れになってきている。朝鮮語の人名については、このごろでは、漢字ではなく、カタカナ表記が増えてきているということもある
最近では、ローマ字の人名表記が変わってきた。以前であれば、佐田寅子は、「Tomoko Sada」であったが、これが、「SADA Tomoko」になってきている。日本語の順を尊重することになった。NHKは方針を改めているし、また、オリンピックでの選手名の表記も変わってきている。
このような流れのなかに、日本において、結婚してからももとの名字を名乗りたいという気持ちが生まれてくることになる。名前が自分のアイデンティティーにかかわるという意識である。この社会全体の名前と読み方についての意識の変化がある。
この観点から、崔香淑/汐見香子という名前のあつかいは、慎重であるべきである。名前と、名前についての意識についても、歴史がある。昔からの仲間とはいえ、気楽に「ヒャンちゃん」と言っていいとは思えない。
なお、以前の朝ドラ『舞いあがれ』では、ヒロインの舞は、結婚してからも仕事では旧姓の岩倉を使っていた。しかし、ドラマのなかでこのことについて、説明的な台詞は一切なかったと記憶する。このような積み重ねこそが重要なのだと私は思う。
性(ジェンダー)については、二つの論点があると、私は思っている。
第一には、自分の性自認、性的指向は、自分の意志では決められない。(どこに起因するかは分からないが)生得的なものであると考える。多くの場合、生物学的な性で問題はないが、ごく希に、例外的な人たちがいる。自分の意志で決められないこと……例えば、男であるか女であるか、また、肌の色であるなど……によって、差別されることがあってはならない。だから、男女差別はあってはならないし、性的マイノリティといわれる人に対する差別は否定されるべきである。
第二には、自分がどの性で生きるかは自分の自由意志で決めることができる。個人の自由意志は、この世で最も尊重されるべきものである。自分で選んだ性が否定されることは許されない。
この二つの考え方がある。最近では、二つ目の考え方が強くなってきているかもしれない。
ただ、性(ジェンダー)というのは、文化的社会的な性であるので、生育環境とか歴史的な状況によって、影響を受けないとはいいきれない。これは、ジェンダーの歴史をふり返れば、そんなに単純なものではなかったことは、すぐに分かることである。性の多様性は、まさに多様な歴史がある。この意味では、行動科学の知見から、人間の自由意志とはそもそも存在するのか、存在するとしてもどれほど文化的社会的な影響を受けるものなのか、受けないものなのか、考えてみるべき課題であるとは思っている。
性の多様性のなかには、小児性愛もふくむ。これも、自分の意志でそのような性的指向を持つというものではない。自由意志による責任はない。だが、今の時代では、これは厳しく犯罪としてあつかわれる。法の下の平等をいうならば、これはどう考えるべきなのだろうか。寅子は、どう考えたのだろうか。もし、このようなことまで考えていたとするならば、そもそも、轟とよねの法律事務所に、小学生の娘の優未をつれていくというようなことはしていなかっただろう。
新潟で、美佐江は、このようなことを言っていた。どうして自分の体を自由に使ってはいけないのですか。この問いに対して、寅子は答えることができなかった。東京に戻って、轟とよねの法律事務所で、LGBTの人たちのことを知って、どう思うことになったのだろうか。どうして自分の性を自分で決めてはいけないのですか。
美佐江の言ったことは、その当時としては、売春などを念頭においてのことだったかもしれない。しかし、現在の倫理観や性の価値観にてらしてみるならば、自分の性を自分の自由意志で決める自由と権利、ということにつながることになる。だが、この週で、美佐江のことばの回想場面はなかった。このドラマの作者やスタッフは、美佐江のことばが、このような射程をもっていることを理解しているのだろうか。あるいは、このことは次週以降に出てくるのか。だが、原爆裁判のこともあるし、どうだろうか。マージャンやっている暇があったら、このあたりのこともきちんと整理してとりあつかってほしいと思う。それができないなら、美佐江も、LGBTの人たちも、登場させることはなかったと思う。
違憲である現在の民法、内縁関係の法的課題、同性婚の法的整備、性の自由と権利……これらの問題について、このドラマではどのような答えが用意されているのであろうか。あるいは、ないのであろうか。答えはなくてもいいから、ドラマとして面白ければいいのであるけれども、これはあまり期待できそうもないので、せめてそれなりにきちんとした答えを求めたい。
2024年8月24日記
『虎に翼』「貞女は二夫に見えず?」
あいかわらずこのドラマについての評判は高いようだが、それは、とりあげた事柄が現代の問題であることについてである。そのような問題が、どのような歴史があり、ドラマの時点の昭和三〇年頃から現代にいたるまで、どのような経緯を経ているのか、これも考えるべきことだと思うのだが、このことまで考慮したものはあまり無いようである。
はっきり言ってこのドラマは、破綻してきたとしかいいようがない。
ドラマのなかではっきりと明言はしていないが、しかし、主張としては現在の民法の規定は憲法に反していると、私は理解する。
寅子と航一は、婚姻届を出す法的な結婚ではなく、内縁の関係での結婚ということになった。このこと自体は、この時代においても珍しいことではなかったろう。しかし、これをこのドラマの主人公のこととして描くのはどうかと思う。
まず、寅子は、戦後の日本国憲法になったことに感激したということがある。そもそも寅子が法律を学び始めたきっかけは、戦前の旧民法の規定に疑問を持ったことから、ドラマはスタートしている。その後、高等試験(司法科)に合格し弁護士になった。戦後になって、法務省で、新憲法にのっとって、新民法の改正の起草にかかわっている。また、民法が変わったことにともなって、星航一の父親である、初代最高裁判所長官の星朋彦の民法についての著作の改訂を手伝っている。家庭裁判所の仕事もしている。つまり、これまでの寅子の経歴は、新民法についての専門家であるといってよい。
その寅子が、結婚すれば苗字が変わることに、いまさら疑問をいだくということがおかしい。疑問をいだいてもいいかもしれないが、それならば、まず、自分の過去をふり返ってみることになるはずである。自分が法律改正の草案にかかわった民法が、もし憲法に違反しているということならば、そのような仕事をしてしまった自分の過去についての自責の念があってしかるべきである。しかし、寅子には、微塵もそのような気配はなかった。寅子の法律家としての経歴や仕事について、自分自身でどう思っているのだろうか。
結婚して佐田の姓がなくなることに疑問をいだくことになったとき、佐田寅子としてしてきた仕事のことを思ったはずである。その経歴のなかには、まさに民法の改正という仕事があった。星朋彦の民法の本の改訂の仕事もあった。ドラマの筋からすると、間違った、憲法違反の仕事をしてしまった佐田寅子ということにならねばならないのだが、そのようには思っていない。このあたりが、ドラマの筋立てとして、無理に新民法の違憲論を持ち出してきているように感じられる。
また、常識的に考えてこの当時の裁判官という職業では、法の遵守ということが、一般の市民よりも強く求められるだろうし、また、本人もそれを意識するところがあってしかるべきだろう。ここで、まず思い出すべきは、闇の食糧を食べずに餓死した花岡のことであるはずだが、このドラマのなかでは、誰も思い出していなかった。(轟の回想では出てきたが、意味がまったく違う。)
内縁の関係でも違法ではない。しかし、民法の立法の趣旨からははずれるはずである。民法改正の仕事にたずさわり、家裁の裁判官でもあった寅子としては、法律にしたがってしかるべきところであると考えるのが普通だろう。
三淵嘉子をモデルにしたドラマである。だから、事実どおりでなければならないとは思わない。ドラマなのだから改変はあってもいい。しかし、その改変は、ドラマを面白く作る必然性があってのことである。この場合、夫婦別姓という現代の問題を持ち込むことになる一方で、法律家としての寅子の生き方については、大きな矛盾を生じさせることになってしまっている。それで、ドラマとして面白くなっているのならいいが、私には、面白くなったとは感じられない。むしろ寅子という法律家としての人物のあり方が、メチャクチャになってしまったと感じざるをえない。
破綻しているといえば、ライトハウスの件がある。涼子は、ライトハウスの名前は、よねが昔働いていた店である燈台の名前からとったと言っていた。このとき、喫茶店と言っていた。その新潟支店であると。これは、おかしい。よねが昔働いていた燈台はカフェーである。戦前の上野のカフェーは、今日でいう性風俗店である。カフェーの女給といえば、娼婦の一歩手前の存在といってよい。(ちなみに、ドラマの最初の回で寅子の本棚が映っていた。中に『放浪記』があった。林芙美子の『放浪記』を実際に読めば分かるが、カフェーの女給は女性として最下層の仕事である。)
ドラマの始めのころ、よねがどこで働いているかという状況の説明描写として、あきらかにいかがわしい店内の様子を映していた。そのようないかがわしい店で、女給にならないまでも、男装した女店員として働くよねが、姉が苦労して作ってくれた金を使って明律大学女子部で法律を学び弁護士をめざす。実際には、おそらく小学校もまともに通わせてもらえなかっただろうよねが、法律の勉強をするのはきわめてハードルが高いと思うのだが、しかし、そのような設定をあえてしたところに、よねという登場人物の存在意義があった。
燈台がカフェーから喫茶店に変わってしまっては、このドラマにおける、よねという人物の存在意義が根本的に変わってしまう。ここもドラマの筋として破綻しているところである。
ちょっと余計なことを言えば、戦前の上野のカフェーであるなら、男娼が登場していてもおかしくはなかったかと思うが、朝ドラにそこまでは無理だろう。
性的マイノリティ、LGBTのことが出てきていた。その描き方について、賛否両論はあるかもしれないのだが、私の感想としては、これでこのドラマが面白くなっているとは感じられない。むしろ、破綻の要因の一つになっている。
寅子と航一は、法的な結婚はしないという。それで、本人たちは満足であることになっている。
今の日本で同性婚が問題になっているのは、同性どうしであっても、法律で認める結婚関係を求めてのことである。寅子と航一のように、事実上の夫婦であればそれで問題ないということなら、なぜ、その人たちは同性婚の権利を求めるのだろうか。
まず、同性婚、同性愛ということを、社会的に認められるものにしたいということがある。が、それだけではなく、さらに、夫婦として婚姻関係にあることで、法律的な、また各種の行政サービスを受けられるようになりたいということもある。つまり法律的な結婚という制度を必要としているのである。
轟は、自分たちの関係(同性どうしの関係)が、死ねば無くなってしまう、という意味のことを言っていた。この気持ちと、内縁の関係(これも死ねば無くなってしまう)を選んだ寅子と航一は、お互いのことをどう思うことになるのだろうか。(永遠を誓わない愛だから、それでいいということなのかもしれないが、それならそのように分かりやすく説明的に描くべきである。)
夫婦別姓を求めるなら、内縁の関係、事実婚でいい……という考え方と、制度的な同性婚を求める要求と、この関係を、このドラマではどう考えているのだろうか。ここのところについて、このドラマでは、まったく触れるところがなかった。
夫婦で同姓の制度が違憲ならば、寅子は、いさぎよく裁判官をやめて、弁護士になってその権利のための活動をすべきだと思うのだが、そうはしないようだ。(これは法律家の生き方として筋が通っていないと感じざるをえない。)
汐見香子のことも気になる。日本人である汐見と結婚して、崔香淑という名前は捨てたと言っていた。この当時、(あるいは現代にいたるまでの)朝鮮の人たちの、このような思いを、寅子はどううけとめていたのだろうか。前回も触れたが、そう気軽に「ヒャンちゃん」などと呼んではいけないだろう。航一と結婚すると佐田の苗字でなくなると思ったとき、香子のことは思いうかばなかったのだろうか。このあたりの錯綜した事柄と朝鮮の人びとの思いを少しでも丁寧に描いてあるとよかったのだが。
ただ、日本における人の名前の歴史は、かなりややこしいところがある。少なくとも、「日本人」が「姓・名」を名前とするようになったのは、明治からのことである。そんなに歴史のあることではない。夫婦同姓、別姓、いろいろ意見はあるだろうが、名前にこだわるのも、ある意味では近代から現代の問題でもあることは、考えてみた方がいいかもしれない。夫婦の同姓(夫の姓)が旧民法の規定であるのだが、これが決まったのは明治の終わりごろ。ドラマの時点(昭和三〇年)からは、半世紀ほど前のことにすぎない。
また、これは、近年になって、朝鮮語の名前を、朝鮮漢字音で読むようになったことも関連する。漢字というものの性質からして、現地音(日本では日本の漢字音)で読むことは、別に問題のあることではないという側面もあるが、しかし、本人の希望する読み方(朝鮮漢字音)で読むという流れになってきている。朝鮮語の人名については、このごろでは、漢字ではなく、カタカナ表記が増えてきているということもある
最近では、ローマ字の人名表記が変わってきた。以前であれば、佐田寅子は、「Tomoko Sada」であったが、これが、「SADA Tomoko」になってきている。日本語の順を尊重することになった。NHKは方針を改めているし、また、オリンピックでの選手名の表記も変わってきている。
このような流れのなかに、日本において、結婚してからももとの名字を名乗りたいという気持ちが生まれてくることになる。名前が自分のアイデンティティーにかかわるという意識である。この社会全体の名前と読み方についての意識の変化がある。
この観点から、崔香淑/汐見香子という名前のあつかいは、慎重であるべきである。名前と、名前についての意識についても、歴史がある。昔からの仲間とはいえ、気楽に「ヒャンちゃん」と言っていいとは思えない。
なお、以前の朝ドラ『舞いあがれ』では、ヒロインの舞は、結婚してからも仕事では旧姓の岩倉を使っていた。しかし、ドラマのなかでこのことについて、説明的な台詞は一切なかったと記憶する。このような積み重ねこそが重要なのだと私は思う。
性(ジェンダー)については、二つの論点があると、私は思っている。
第一には、自分の性自認、性的指向は、自分の意志では決められない。(どこに起因するかは分からないが)生得的なものであると考える。多くの場合、生物学的な性で問題はないが、ごく希に、例外的な人たちがいる。自分の意志で決められないこと……例えば、男であるか女であるか、また、肌の色であるなど……によって、差別されることがあってはならない。だから、男女差別はあってはならないし、性的マイノリティといわれる人に対する差別は否定されるべきである。
第二には、自分がどの性で生きるかは自分の自由意志で決めることができる。個人の自由意志は、この世で最も尊重されるべきものである。自分で選んだ性が否定されることは許されない。
この二つの考え方がある。最近では、二つ目の考え方が強くなってきているかもしれない。
ただ、性(ジェンダー)というのは、文化的社会的な性であるので、生育環境とか歴史的な状況によって、影響を受けないとはいいきれない。これは、ジェンダーの歴史をふり返れば、そんなに単純なものではなかったことは、すぐに分かることである。性の多様性は、まさに多様な歴史がある。この意味では、行動科学の知見から、人間の自由意志とはそもそも存在するのか、存在するとしてもどれほど文化的社会的な影響を受けるものなのか、受けないものなのか、考えてみるべき課題であるとは思っている。
性の多様性のなかには、小児性愛もふくむ。これも、自分の意志でそのような性的指向を持つというものではない。自由意志による責任はない。だが、今の時代では、これは厳しく犯罪としてあつかわれる。法の下の平等をいうならば、これはどう考えるべきなのだろうか。寅子は、どう考えたのだろうか。もし、このようなことまで考えていたとするならば、そもそも、轟とよねの法律事務所に、小学生の娘の優未をつれていくというようなことはしていなかっただろう。
新潟で、美佐江は、このようなことを言っていた。どうして自分の体を自由に使ってはいけないのですか。この問いに対して、寅子は答えることができなかった。東京に戻って、轟とよねの法律事務所で、LGBTの人たちのことを知って、どう思うことになったのだろうか。どうして自分の性を自分で決めてはいけないのですか。
美佐江の言ったことは、その当時としては、売春などを念頭においてのことだったかもしれない。しかし、現在の倫理観や性の価値観にてらしてみるならば、自分の性を自分の自由意志で決める自由と権利、ということにつながることになる。だが、この週で、美佐江のことばの回想場面はなかった。このドラマの作者やスタッフは、美佐江のことばが、このような射程をもっていることを理解しているのだろうか。あるいは、このことは次週以降に出てくるのか。だが、原爆裁判のこともあるし、どうだろうか。マージャンやっている暇があったら、このあたりのこともきちんと整理してとりあつかってほしいと思う。それができないなら、美佐江も、LGBTの人たちも、登場させることはなかったと思う。
違憲である現在の民法、内縁関係の法的課題、同性婚の法的整備、性の自由と権利……これらの問題について、このドラマではどのような答えが用意されているのであろうか。あるいは、ないのであろうか。答えはなくてもいいから、ドラマとして面白ければいいのであるけれども、これはあまり期待できそうもないので、せめてそれなりにきちんとした答えを求めたい。
2024年8月24日記
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