「“新約聖書 福音書” (4)弱き者たちとともに」2024-09-04

2024年9月4日 當山日出夫

100分de名著 “新約聖書 福音書” (4)弱き者たちとともに

この番組のように聖書を読むこともできる……これが、現代という時代なのだなと感じるところがある。以前、Eテレの「こころの時代」で『歎異鈔』について、安満利麿が語っていたのを見ていた。そのときのことは、このブログにも書いた。その時にも感じたことなのだが、親鸞のことばを読み解きながら、浄土真宗の信仰の共同体ということには、基本的に触れていなかった。この「100分de名著」で福音書を読むときでも、若松英輔は、そこにイエスのことばを読みとろうとしているのだが、キリスト教の信仰の共同体、ということには一切触れていなかった。完全に、現代を生きる個人としての私が、親鸞を、あるいは、イエスをどう読むのか、という視点にたっている。

今の時代、宗教についてはいろいろといわれるのだが、その一つのあり方として、信仰の共同体の否定、信仰とは個人のこころのなかで生まれるものである、ということがある。具体的には、教団とか宗教儀礼の否定ということになる。

このことの是非をめぐってはいろいろと議論のあるところだと思う。だが、親鸞を読むにせよ、福音書を読むにせよ、共通して個人の問題として信仰を考えている。阿弥陀仏も神も、その存在を否定することは無論ないのであるが、その意味は、あくまでも私という個人とのかかわりにおいてである、ということになる。

信仰の共同体とか、歴史とか、このようなものを極力排除している。現代におけるこのような信仰のあり方を示している、という意味で、興味深いことだなと思っている。

だからといって、世界中における宗教が個人単位のものになっていく、また、そうすれば宗教対立などは解消するか、ということではない。だが、現代における人間というものを考える視点が、非常に個人にもとづくものになってきている、ということはいっていいかもしれない。

2024年9月2日記

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