「ウェイリー版“源氏物語” (1)翻訳という魔法」 ― 2024-09-07
2024年9月7日 當山日出夫
100分de名著 ウェイリー版“源氏物語” (1)翻訳という魔法
知識としては、大学のときに国文科でまなんでいれば(もう半世紀ほど前のことになるが)、『源氏物語』の英訳として、『The Tale of Genji』があることは知識としては知っていたことになる。それを日本語に訳した本が、近年になって刊行されたことも知っている。けれど、自分でそれを買って読もうと思ったことはない。『源氏物語』は、古い方の「古典大系」でざっと読んだのをはじめとして、「新潮古典集成」「新日本古典文学全集」「岩波文庫」(新しい方)は、読んできている。新しい「古典大系」は持っているが、これで通読したということはない。(本文が大島本にかなり忠実に作ってあることもあって、少し読みづらいと感じる。)
ウェイリー版『源氏物語』が、日本でもよく読まれた本であることは、文学史の知識である。
『源氏物語』を見る視点として、このような見方ができるのか、というところがいくつかあった。
まず、どうでもいいことなのだが……伊集院光が『東京物語』(小津安二郎)を、どこか遠くの別世界の話しとして観る、という意味のことを言っていて、そういうものなのかなあ、と思った。私の世代だと、小津安二郎が描いた戦後の日本の生活は、生いたちの感覚の延長にあると感じる。私が学生だったころ、浅草の六区の映画街では、ふる~い映画ということで、小津安二郎の作品が上映されていたりした。それが、日本映画の巨匠になってきたのは、新しいことだというのが、私の感じるところである。
光源氏は火野正平である、というのは斬新でとっぴもないことのようだが、しかし、説明としては納得するところもある。相手の女性を輝かせるという意味での、シャイニングということなら、そういわれればそうかなと思わないでもない。
夕顔は物の怪に取り殺されてしまうし、葵上も同じである。紫上は、今でいえば拉致誘拐されてきた少女である。その最後は、満足して死んだといってもいいだろうか、どうだろうか。明石の君は、子どもを産んでも離ればなれになってしまう。女三宮も最後はあわれである。どうも、『源氏物語』の女性たちが、光源氏と出会って、その生涯が幸福に光り輝いている、とはいえないような気もする。しかし、光源氏とつきあっている、そのときに限定してみれば、どの女性も充足していたというべきであろう。
番組のなかで『源氏物語』の「原文」としてつかってあったのは、岩波文庫版であった。今では、もっとも標準的なテキストの一つといっていいだろう。これは、「新日本古典文学大系」をもとにしているが、冒頭の部分でちょっと違う。「~いとやんごとなききはにはあらぬが、」と、「、」がある。これが、もとの「新日本古典文学大系」ではない。これは、学問的には「、」がない方がただしい。このことは、『助詞の歴史的研究』で、石垣謙二があきらかにした研究にもとづくことになる。(もし、学生のときにこの本を読んでいなかったら、国語学にすすむことはなかったかもしれない。)
ところで、ウェイリーがつかった『源氏物語』の日本語のテキストは、いったい何だったのだろうか。これなど、すでに研究されていることだと思うが、ちょっと気になったことである。
能の題材として、『平家物語』『源氏物語』が多く使われている、これはたしかなのだが、では、中世、室町のころ、『源氏物語』は実際にどのような人たちに、どのように読まれていたのか、古注釈をはじめとして、中世における日本の古典のあり方として、興味のあるところである。このあたりのことは、近年になって研究のすすんできている分野であると思っている。
2024年9月5日記
100分de名著 ウェイリー版“源氏物語” (1)翻訳という魔法
知識としては、大学のときに国文科でまなんでいれば(もう半世紀ほど前のことになるが)、『源氏物語』の英訳として、『The Tale of Genji』があることは知識としては知っていたことになる。それを日本語に訳した本が、近年になって刊行されたことも知っている。けれど、自分でそれを買って読もうと思ったことはない。『源氏物語』は、古い方の「古典大系」でざっと読んだのをはじめとして、「新潮古典集成」「新日本古典文学全集」「岩波文庫」(新しい方)は、読んできている。新しい「古典大系」は持っているが、これで通読したということはない。(本文が大島本にかなり忠実に作ってあることもあって、少し読みづらいと感じる。)
ウェイリー版『源氏物語』が、日本でもよく読まれた本であることは、文学史の知識である。
『源氏物語』を見る視点として、このような見方ができるのか、というところがいくつかあった。
まず、どうでもいいことなのだが……伊集院光が『東京物語』(小津安二郎)を、どこか遠くの別世界の話しとして観る、という意味のことを言っていて、そういうものなのかなあ、と思った。私の世代だと、小津安二郎が描いた戦後の日本の生活は、生いたちの感覚の延長にあると感じる。私が学生だったころ、浅草の六区の映画街では、ふる~い映画ということで、小津安二郎の作品が上映されていたりした。それが、日本映画の巨匠になってきたのは、新しいことだというのが、私の感じるところである。
光源氏は火野正平である、というのは斬新でとっぴもないことのようだが、しかし、説明としては納得するところもある。相手の女性を輝かせるという意味での、シャイニングということなら、そういわれればそうかなと思わないでもない。
夕顔は物の怪に取り殺されてしまうし、葵上も同じである。紫上は、今でいえば拉致誘拐されてきた少女である。その最後は、満足して死んだといってもいいだろうか、どうだろうか。明石の君は、子どもを産んでも離ればなれになってしまう。女三宮も最後はあわれである。どうも、『源氏物語』の女性たちが、光源氏と出会って、その生涯が幸福に光り輝いている、とはいえないような気もする。しかし、光源氏とつきあっている、そのときに限定してみれば、どの女性も充足していたというべきであろう。
番組のなかで『源氏物語』の「原文」としてつかってあったのは、岩波文庫版であった。今では、もっとも標準的なテキストの一つといっていいだろう。これは、「新日本古典文学大系」をもとにしているが、冒頭の部分でちょっと違う。「~いとやんごとなききはにはあらぬが、」と、「、」がある。これが、もとの「新日本古典文学大系」ではない。これは、学問的には「、」がない方がただしい。このことは、『助詞の歴史的研究』で、石垣謙二があきらかにした研究にもとづくことになる。(もし、学生のときにこの本を読んでいなかったら、国語学にすすむことはなかったかもしれない。)
ところで、ウェイリーがつかった『源氏物語』の日本語のテキストは、いったい何だったのだろうか。これなど、すでに研究されていることだと思うが、ちょっと気になったことである。
能の題材として、『平家物語』『源氏物語』が多く使われている、これはたしかなのだが、では、中世、室町のころ、『源氏物語』は実際にどのような人たちに、どのように読まれていたのか、古注釈をはじめとして、中世における日本の古典のあり方として、興味のあるところである。このあたりのことは、近年になって研究のすすんできている分野であると思っている。
2024年9月5日記
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