「関東大震災と流言 2人の作家が見た惨劇の心理」 ― 2024-09-10
2024年9月10日 當山日出夫
ダークサイドミステリー 関東大震災と流言 2人の作家が見た惨劇の心理
水島爾保布、江馬修、この二人の作家の残した文章から、当時の様子を読み解いている。
関東大震災のときのことについては、今もなお語られることが多い。なぜ、あんなに多くの犠牲者が出たのか。特に火災による被害。また、その後に起こった、朝鮮人殺害のことがある。主にこの二つのことがあるが、このごろでは、関東大震災というと朝鮮人のこと、となる傾向になっているように感じる。他にも地震予知のこととか、その後の災害復興のこととか、多くの論点があることだった。何を優先的に語るということではなく、もう少し長い歴史の流れのなかで考えるべきではないかと思う。
この番組は、特に、朝鮮人についての流言と殺害の件をとりあつかっていた。これはこれで、一つの番組の作り方だと思う。
まず、重要なこととして、関東大震災のときに起こった流言は、特に朝鮮人のことだけではなかったことである。その他にも多くの流言があった。結果として、多くの犠牲者があったことは事実なのであるが、基本は災害時の流言のメカニズムを冷静に判断することであろう。
この種の番組を見て思うことなのだが、そもそも日本に来て暮らしていた朝鮮人の人たちは、どれくらいの数がいて、日本のなかでどのように生活していたのか、その当時、日本人との関係はどんなものだったのか……ここのところの歴史的経緯を説明することが、まず重要なことだと思う。関東大震災になって、突然、朝鮮人に対する差別意識が出てきた、ということではないはずである。それ以前に、どのようであったのかということが意味があるはずだが、ただ日本=加害者、朝鮮人=被害者、という図式だけで考えるのは、どうかなと思うところがある。
番組の趣旨からはそれることかと思うが、警察の記録が多く紹介されていた。その当時、警察はどう対応していたのかということが問題であるし、同時に、それを記録して残っているということも、また重要なことにちがいない。この記録の重要性ということが、関東大震災のときのこととしてあまり語られることがないが、しかし、記録の価値ということを再認識しておく必要がある。
災害時、非常時の流言については、メディア史についていろいろと研究されていることだと思う。この時代、まだラジオの前の時代なので、信頼できるメディアといえば、新聞ぐらいだろうか。その新聞が、今から判断すればデマである情報を掲載していたということは、確かである。
では、今ではどうだろうか。インターネットの普及、特に、SNSの普及によって、既存のマスコミ(特にテレビ、新聞)の評価は下がっている。見ていると、(意図的かどうかは別にして)新聞やテレビに未来はない、と堂々と語る著名人が多くいる。しかし、非常時に参照すべき報道として、テレビや新聞の価値がなくなるかというとそうでもないはずである。ネット上の流言に対抗するものとして、しかるべき報道機関の発信は信頼できるものとして、存在しなければならない。だが、これも、一部の識者からすれば、テレビや新聞で言っていることは、「大本営発表」なのだから、信頼してはいけない、ということらしい。(自分だけが真実を知っているということなのだろうが、これこそ流言の心理ではないかと思うけれど。)
ところで、私は、X(Twitter)は、二〇〇九年から使っている。二〇一一年三月一一日のことは、かなり鮮明に覚えている。ほとんど一日中、テレビを見るか、パソコンの前でTwitterを見るかしていた。(今では放送されなくなったが、津波の被害の様子をテレビの中継でリアルタイムで見ている、という経験は、ある意味で貴重なものだったと思う。)そのころのTwitterのデータは残っているのだろうか。残っていれば、あのとき、Twitterのアカウントを持っている人たちに限ってということにはなるが、何を思い、どのように情報発信していったのか、分析すれば貴重な知見が得られるかと思う。
二〇一一年のころ、Twitterの投稿は、私の印象では善意が優っていた。未曾有の災害時に、微力ながら何ができるかという、ささやかな個人の善意がそこにはあったと記憶する。それが、憎悪と対立、一方的な意見表明の場に変質していったのは、数年後のことになる。その間の、ユーザ数の圧倒的な増加ということも背景にある。
興味深かったのは、大正末期には、安政の大地震のときのことを記憶している古老が生きていたことである。その古老は、流言を否定することができた。人間の記憶などあてにならないとは思う一方で、人間が生きてきて蓄積してきた知恵というものを考えてみる必要もある。
2024年9月4日記
ダークサイドミステリー 関東大震災と流言 2人の作家が見た惨劇の心理
水島爾保布、江馬修、この二人の作家の残した文章から、当時の様子を読み解いている。
関東大震災のときのことについては、今もなお語られることが多い。なぜ、あんなに多くの犠牲者が出たのか。特に火災による被害。また、その後に起こった、朝鮮人殺害のことがある。主にこの二つのことがあるが、このごろでは、関東大震災というと朝鮮人のこと、となる傾向になっているように感じる。他にも地震予知のこととか、その後の災害復興のこととか、多くの論点があることだった。何を優先的に語るということではなく、もう少し長い歴史の流れのなかで考えるべきではないかと思う。
この番組は、特に、朝鮮人についての流言と殺害の件をとりあつかっていた。これはこれで、一つの番組の作り方だと思う。
まず、重要なこととして、関東大震災のときに起こった流言は、特に朝鮮人のことだけではなかったことである。その他にも多くの流言があった。結果として、多くの犠牲者があったことは事実なのであるが、基本は災害時の流言のメカニズムを冷静に判断することであろう。
この種の番組を見て思うことなのだが、そもそも日本に来て暮らしていた朝鮮人の人たちは、どれくらいの数がいて、日本のなかでどのように生活していたのか、その当時、日本人との関係はどんなものだったのか……ここのところの歴史的経緯を説明することが、まず重要なことだと思う。関東大震災になって、突然、朝鮮人に対する差別意識が出てきた、ということではないはずである。それ以前に、どのようであったのかということが意味があるはずだが、ただ日本=加害者、朝鮮人=被害者、という図式だけで考えるのは、どうかなと思うところがある。
番組の趣旨からはそれることかと思うが、警察の記録が多く紹介されていた。その当時、警察はどう対応していたのかということが問題であるし、同時に、それを記録して残っているということも、また重要なことにちがいない。この記録の重要性ということが、関東大震災のときのこととしてあまり語られることがないが、しかし、記録の価値ということを再認識しておく必要がある。
災害時、非常時の流言については、メディア史についていろいろと研究されていることだと思う。この時代、まだラジオの前の時代なので、信頼できるメディアといえば、新聞ぐらいだろうか。その新聞が、今から判断すればデマである情報を掲載していたということは、確かである。
では、今ではどうだろうか。インターネットの普及、特に、SNSの普及によって、既存のマスコミ(特にテレビ、新聞)の評価は下がっている。見ていると、(意図的かどうかは別にして)新聞やテレビに未来はない、と堂々と語る著名人が多くいる。しかし、非常時に参照すべき報道として、テレビや新聞の価値がなくなるかというとそうでもないはずである。ネット上の流言に対抗するものとして、しかるべき報道機関の発信は信頼できるものとして、存在しなければならない。だが、これも、一部の識者からすれば、テレビや新聞で言っていることは、「大本営発表」なのだから、信頼してはいけない、ということらしい。(自分だけが真実を知っているということなのだろうが、これこそ流言の心理ではないかと思うけれど。)
ところで、私は、X(Twitter)は、二〇〇九年から使っている。二〇一一年三月一一日のことは、かなり鮮明に覚えている。ほとんど一日中、テレビを見るか、パソコンの前でTwitterを見るかしていた。(今では放送されなくなったが、津波の被害の様子をテレビの中継でリアルタイムで見ている、という経験は、ある意味で貴重なものだったと思う。)そのころのTwitterのデータは残っているのだろうか。残っていれば、あのとき、Twitterのアカウントを持っている人たちに限ってということにはなるが、何を思い、どのように情報発信していったのか、分析すれば貴重な知見が得られるかと思う。
二〇一一年のころ、Twitterの投稿は、私の印象では善意が優っていた。未曾有の災害時に、微力ながら何ができるかという、ささやかな個人の善意がそこにはあったと記憶する。それが、憎悪と対立、一方的な意見表明の場に変質していったのは、数年後のことになる。その間の、ユーザ数の圧倒的な増加ということも背景にある。
興味深かったのは、大正末期には、安政の大地震のときのことを記憶している古老が生きていたことである。その古老は、流言を否定することができた。人間の記憶などあてにならないとは思う一方で、人間が生きてきて蓄積してきた知恵というものを考えてみる必要もある。
2024年9月4日記
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