「ウェイリー版“源氏物語” (2)「シャイニング・プリンス」としてのゲンジ」2024-09-11

2024年9月11日 當山日出夫

100分de名著 ウェイリー版“源氏物語” (2)「シャイニング・プリンス」としてのゲンジ

この回は、「空蝉」「夕顔」「須磨」「明石」のあたりの巻のことであった。

ちょうど『光る君へ』では、まひろ……女房としてはまだ藤式部である、紫式部という名前になるのは、作中の物語が「源氏物語」になってからになるのだろう……が、「帚木」「空蝉」あたりを書いているところである。

「空蝉」は、『源氏物語』のなかでも、最もエロティックな巻の一つだと思っているのだが、番組でもそのような理解であったかと思う。それから、「夕顔」の巻。私は、半世紀以上前になるが、高校生のときに古文の授業の補習の授業で「夕顔」の巻をだいたい読んだことがある、そのせいもあってよく憶えている。たしかに夕顔という女性は、ほとんどしゃべっていない。では、なぜ、光源氏はその女が、頭中将の言っていた女であり、女としてはまんざら男をしらないわけではない、と気づくことになったのか。ここは、もう想像、あるいは、妄想になるが、やはりその体からだろう。そう思って読むと、非常に官能的な巻ということになる。

『源氏物語』を理解するのに折口信夫の恋についての考えをもってくるのは、ちょっと古い気もするが、最近の流れからすると、かえって斬新かもしれない。私は、慶應の国文で勉強したから、折口信夫は当然のように読んでいた。普通は、「いろごのみ」ということで考えることが多いかと思う。

いろんな女性と恋をして、源氏が手にいれたものとして、「コンパッション」があり「エンパシー」がある。それから、「来し方行く末」がある。そういう理解もできるのかと、ここは感心して見ていた。

ウェイリーの訳には、キリスト教の感覚がある……というのは、そのとおりかもしれない。『源氏物語』には各種の現代語訳があり、それぞれに特徴がある。私が読んだなかで、独自の解釈があって興味深かったのは円地文子の訳である。これは、かなり想像でおぎなった部分があるのだが、それは、円地文子の古典文学についての素養があってのことになる。

2024年9月10日記

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
このブログの名称の平仮名4文字を記入してください。

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2024/09/11/9715953/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。