『坂の上の雲』「(1)少年の国(前編)」2024-09-14

2024年9月14日 當山日出夫

『坂の上の雲』 (1)少年の国(前編)

ひさしぶりに見る。録画してあったのをようやく見た。

このドラマの冒頭の「まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。」は、名文である。

たぶん、いや、きっと、歴史学者なら、全力で司馬遼太郎の述べたことを否定してかかるだろう。当時の日本はそうではなかった、と。しかし、歴史を語ることに人びとが何をもとめるか、という観点から見るならば、残念ながら司馬遼太郎にとってかわる人物は見当たらない。それは、今日の価値観からすれば不当なものかもしれない。日清、日露の戦争は、帝国日本の侵略戦争であったと否定されるのが通例である。

だが、過去の日本人……私は、あまり日本人ということばを使わないことにしているが、ここはあえて日本人と書いておく……が、どのような歴史をたどってきたか、何をしてきたのか、その成果として今の日本の姿がある、これを肯定的にとらえるところにしか、これからの未来の日本人に対する責任は生まれない。将来の日本のことを考えるとき、過去を良きものとしてふりかえる視点こそが重要である。

だが、これは学問としての歴史学を否定するものではない。歴史学をつつみこむ、さらに大きな、より基盤となるものの考え方、とらえ方、ということである。歴史学という学問も、そのなかにあることを考えておくべきだろう。

ともあれ、NHKの『坂の上の雲』は、司馬遼太郎の原作をほとんどとどめていない。私は『坂の上の雲』は、これまでに二回読んでいる。そこに書かれたことにすべて同意するわけでもないし、また、NHKのドラマで語っていることに疑問がないわけではない。しかし、その基調にある考え方は、肯定的にとらえておきたい。

よく出来たドラマだと思う。すぐれたドラマというのは、見ているものの想像力にうったえるところがある。「一身独立して、一国独立す」。福澤諭吉のことばがなかでつかってある。その意味するところについては、あまたの議論のあるところであろう。それを頭の片隅で考えながらも、ドラマの映像に見入っている。

見ながら思ったこととして、明治の人びとが、自由とか人権とかの概念を、どのようにして獲得していったのだろうか、ということがある。学問的には文献に基づいた思想史として記述することになるテーマであるが、直感的には、国家の独立ということとどこかでつながっていたのだろうと、思ってみる。

もうリタイアした身である、純然とした楽しみで見ることにしたい。

2024年9月13日記

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