『光る君へ』「まぶしき闇」 ― 2024-10-07
2024年10月7日 當山日出夫
『光る君へ』「まぶしき闇」
まひろ/藤式部とききょう/清少納言との対立(といっていいだろうか)の始まりである。まだこの段階では、『紫式部日記』の人物評は書かれていない。これが書かれてひろまり、清少納言が読んだら、いったいどんな展開になるだろうか。これは、今から楽しみである。
まひろは、ききょうから、ねがくらい、と言われていた。まあ、『源氏物語』の作者が、そう明るい性格の人とは思えないので、これは妥当なところかもしれない。
玉鬘、と言っていた。『源氏物語』のなかで、もっとも妖艶な(といっていいだろうか)女性の一人である。前回までで、三十三帖書いたとあったので、『源氏物語』における玉鬘系の物語は、すでに書かれて読まれていたということになる。
そもそも、なぜ『源氏の物語』を書いたのか、とききょうはまひろに問うていたけれど、これは、芸術の神様が紫式部に微笑んだ、としかいいようがないかもしれない。
物語を書いているシーンがあったが、紙はバラバラのままである。風が吹いて紙が飛んで散らばってしまっている。どう考えても、ノンブル(ページ番号)を記入しておかないと困ることになったはずだが、この当時、実際はどうだったのだろうか。巻子本のような長い紙に書いていけばいいようなものかもしれないが、どうだろうか。
演出の都合もあるのだろうが、物語を書いていて推敲した跡がない。始めからすらすらと書いている。最初に書いて、それを書写し、推敲してというプロセスがあったと思うけれど、このあたりの事情は、どうだったのだろうか。
現存する『源氏物語』の諸本を見るならば、平安時代にいろんな異本があったことは確かである。しかし、根本的に書き直したことはないかもしれない。これは、中世の御伽草子などの写本の多様さと比較してのことであるが。
藤壷で女房と公達たちが、庭に降りて座って貝合をしていた。それを彰子がにこやかに微笑んで見ていた。さもありなんという雰囲気ではあったが、実際にそのようなことがあっただろうか。少なくとも、藤の花が満開のときには、とてもその花の下でゆっくりとはしていられない。現在の普通の藤の花だと、その匂いはかなり強いし、虫がいっぱいやってくる。とてものんびりと貝合などしてはいられない。ちょっと離れて遠くから見るのが一番である。
和泉式部が出てきた。本当にあかねという名前であったかどうか、分からない。基本的に、平安時代の女性の名前は不明である。たまたま女房仕えをしたような女性か、あるいは、皇族などの場合、記録に残るだけである。このドラマでは、和泉式部は、この女房の名前が気に入らなかったようだ。
このドラマは、いろいろと人びとの意識に影響するところがあるかもしれないが、平安時代の貴族の生活の様子とか、女性の名前のあり方とか、誤解の種になりそうなものを、多く残す危険性はある。このあたりは、少し勉強すれば分かることかと思うのだが、ドラマの作り出すイメージが世の中にどう定着していくのかという観点からは、興味深いところがある。(この観点では、戦国時代の合戦の様子とか、本能寺の変のこととか、いろいろとある。)
平安時代の呪詛はどんなだったろうか。最後の紀行のときに紹介されていたように、人形が残っているので、実際に行われたことは確かだろう。その実際がどうだったかということもあるが、一方で、平安時代の人びとは、呪詛ということを現実に信じていたという生活感覚の方が重要かもしれない。この意味では、このドラマの作り方として、死のけがれということを描かないのは、少し違和感を感じるところがある。
呪詛で死罪になるというのは、平安時代の人びと……貴族層の人びとということになるだろうが……にとって、呪詛が本当に効果のあるものとして、意識されていたから、と思っていいだろうか。
伊周の呪詛は迫力があったというべきだろうか、しかし、むしろ呪詛にあまりにエネルギーを使い過ぎてしまって、そのために自らの健康を損ねた、と思えなくもない。
このドラマで登場する人びととしては、貴族としての最下層がまひろの家ということになる。それでも貴族層である。最初のうちは、野外で散楽に興じる庶民の姿があったが、もう出てこなくなった。このあたりは、時代考証とセットを作る都合かなと思う。『源氏物語』に出てくるものとしては、夕顔の家ぐらいが最下層かもしれない。
女房の俸給はいったいどれぐらいだったのだろうか。まひろの家は、女房として出仕してから、少し暮らしぶりが豊かになったように描かれている。
このドラマは、ここにきて、まひろと娘の賢子との確執ということになりそうである。『源氏物語』を読んでも、母親と娘の関係は、そう出てこないように憶えているが、どうだったろうか。「桐壺」で、無くなった桐壺の更衣の母親の娘を思う気持ちが綴られていたことは、印象深く記憶している。それから、明石の君の娘への思いもある。
さて、次週は、密通ということになるようなのだが、「若菜」の成立とからんでどんな展開になるのだろうか。
2024年10月6日記
『光る君へ』「まぶしき闇」
まひろ/藤式部とききょう/清少納言との対立(といっていいだろうか)の始まりである。まだこの段階では、『紫式部日記』の人物評は書かれていない。これが書かれてひろまり、清少納言が読んだら、いったいどんな展開になるだろうか。これは、今から楽しみである。
まひろは、ききょうから、ねがくらい、と言われていた。まあ、『源氏物語』の作者が、そう明るい性格の人とは思えないので、これは妥当なところかもしれない。
玉鬘、と言っていた。『源氏物語』のなかで、もっとも妖艶な(といっていいだろうか)女性の一人である。前回までで、三十三帖書いたとあったので、『源氏物語』における玉鬘系の物語は、すでに書かれて読まれていたということになる。
そもそも、なぜ『源氏の物語』を書いたのか、とききょうはまひろに問うていたけれど、これは、芸術の神様が紫式部に微笑んだ、としかいいようがないかもしれない。
物語を書いているシーンがあったが、紙はバラバラのままである。風が吹いて紙が飛んで散らばってしまっている。どう考えても、ノンブル(ページ番号)を記入しておかないと困ることになったはずだが、この当時、実際はどうだったのだろうか。巻子本のような長い紙に書いていけばいいようなものかもしれないが、どうだろうか。
演出の都合もあるのだろうが、物語を書いていて推敲した跡がない。始めからすらすらと書いている。最初に書いて、それを書写し、推敲してというプロセスがあったと思うけれど、このあたりの事情は、どうだったのだろうか。
現存する『源氏物語』の諸本を見るならば、平安時代にいろんな異本があったことは確かである。しかし、根本的に書き直したことはないかもしれない。これは、中世の御伽草子などの写本の多様さと比較してのことであるが。
藤壷で女房と公達たちが、庭に降りて座って貝合をしていた。それを彰子がにこやかに微笑んで見ていた。さもありなんという雰囲気ではあったが、実際にそのようなことがあっただろうか。少なくとも、藤の花が満開のときには、とてもその花の下でゆっくりとはしていられない。現在の普通の藤の花だと、その匂いはかなり強いし、虫がいっぱいやってくる。とてものんびりと貝合などしてはいられない。ちょっと離れて遠くから見るのが一番である。
和泉式部が出てきた。本当にあかねという名前であったかどうか、分からない。基本的に、平安時代の女性の名前は不明である。たまたま女房仕えをしたような女性か、あるいは、皇族などの場合、記録に残るだけである。このドラマでは、和泉式部は、この女房の名前が気に入らなかったようだ。
このドラマは、いろいろと人びとの意識に影響するところがあるかもしれないが、平安時代の貴族の生活の様子とか、女性の名前のあり方とか、誤解の種になりそうなものを、多く残す危険性はある。このあたりは、少し勉強すれば分かることかと思うのだが、ドラマの作り出すイメージが世の中にどう定着していくのかという観点からは、興味深いところがある。(この観点では、戦国時代の合戦の様子とか、本能寺の変のこととか、いろいろとある。)
平安時代の呪詛はどんなだったろうか。最後の紀行のときに紹介されていたように、人形が残っているので、実際に行われたことは確かだろう。その実際がどうだったかということもあるが、一方で、平安時代の人びとは、呪詛ということを現実に信じていたという生活感覚の方が重要かもしれない。この意味では、このドラマの作り方として、死のけがれということを描かないのは、少し違和感を感じるところがある。
呪詛で死罪になるというのは、平安時代の人びと……貴族層の人びとということになるだろうが……にとって、呪詛が本当に効果のあるものとして、意識されていたから、と思っていいだろうか。
伊周の呪詛は迫力があったというべきだろうか、しかし、むしろ呪詛にあまりにエネルギーを使い過ぎてしまって、そのために自らの健康を損ねた、と思えなくもない。
このドラマで登場する人びととしては、貴族としての最下層がまひろの家ということになる。それでも貴族層である。最初のうちは、野外で散楽に興じる庶民の姿があったが、もう出てこなくなった。このあたりは、時代考証とセットを作る都合かなと思う。『源氏物語』に出てくるものとしては、夕顔の家ぐらいが最下層かもしれない。
女房の俸給はいったいどれぐらいだったのだろうか。まひろの家は、女房として出仕してから、少し暮らしぶりが豊かになったように描かれている。
このドラマは、ここにきて、まひろと娘の賢子との確執ということになりそうである。『源氏物語』を読んでも、母親と娘の関係は、そう出てこないように憶えているが、どうだったろうか。「桐壺」で、無くなった桐壺の更衣の母親の娘を思う気持ちが綴られていたことは、印象深く記憶している。それから、明石の君の娘への思いもある。
さて、次週は、密通ということになるようなのだが、「若菜」の成立とからんでどんな展開になるのだろうか。
2024年10月6日記
「新幹線タイムマシン」 ― 2024-10-07
2024年10月6日 當山日出夫
バラエティ番組として作ってあるのだが、いろいろと面白かった。
一九六四年(昭和三九)の新幹線開業のときは、私はあまり記憶にない。夢の超特急としてニュースになったことは記憶にあるのだが、自分には縁のないものと感じていた。京都は新幹線の駅がある。宇治市に住んでいたので、比較的身近に感じることはあったかと思うのだが、生活感覚としてはほとんど気にしていない。それよりも、この時代、まだ山陰線には蒸気機関車が現役で走っていた時代である。
新幹線の開業のときの映像が興味深い。沿線に人びとが群れ集まって手を振っている。このようなシーン、どこかで見たと感じたが、九州新幹線の開通のときの映像である。たまたま、東日本大震災のことと重なって、お蔵入りになったCM映像だったはずである。これは、今でもYouTubeで見られる。
この開業のときの新幹線を運転した運転士の人が、今もまだ存命であるとは、はっきりいって驚きであった。その当時、新幹線の運転士になるのは、とても大変なことだったことが分かる。
秒単位でダイヤどおりに走らせる運転士の技術は、まさに職人技である。
始めて新幹線に乗ったのは、大学受験のために東京に行ったときだったかと記憶している。そのころは、岡山までつながっていたはずである。
その開発の秘話ということは、いろいろとあるのだろう。太平洋戦争当時の技術者が、多くたずさわったということは、これまでに語られてきていることかと思う。
ドクターイエローは、過去に1,一~二回ぐらい、偶然見かけたことがあったかもしれない。そのときには、そんなものかと思って見ていたのだったが。
それにしても、時速三〇〇キロで走行して、架線や線路の状態をチェックできる、映像技術というのはすごいと思う。
もう東京に行くこともないのだが、新幹線に乗っても、たいてはiPodで音楽を聴いている。昔、若いころは、新書本の一冊ぐらいは車中で読めた。もう今では、目が老化してきているので、本を読むのはつらい。
リニア新幹線のことは、ニュースでは知っているが、私は乗ることがあるだろうか。それまで生きていられるだろうかという気になる。まあ、あまり乗ってみたいとは思わないけれど。
2024年10月5日記
バラエティ番組として作ってあるのだが、いろいろと面白かった。
一九六四年(昭和三九)の新幹線開業のときは、私はあまり記憶にない。夢の超特急としてニュースになったことは記憶にあるのだが、自分には縁のないものと感じていた。京都は新幹線の駅がある。宇治市に住んでいたので、比較的身近に感じることはあったかと思うのだが、生活感覚としてはほとんど気にしていない。それよりも、この時代、まだ山陰線には蒸気機関車が現役で走っていた時代である。
新幹線の開業のときの映像が興味深い。沿線に人びとが群れ集まって手を振っている。このようなシーン、どこかで見たと感じたが、九州新幹線の開通のときの映像である。たまたま、東日本大震災のことと重なって、お蔵入りになったCM映像だったはずである。これは、今でもYouTubeで見られる。
この開業のときの新幹線を運転した運転士の人が、今もまだ存命であるとは、はっきりいって驚きであった。その当時、新幹線の運転士になるのは、とても大変なことだったことが分かる。
秒単位でダイヤどおりに走らせる運転士の技術は、まさに職人技である。
始めて新幹線に乗ったのは、大学受験のために東京に行ったときだったかと記憶している。そのころは、岡山までつながっていたはずである。
その開発の秘話ということは、いろいろとあるのだろう。太平洋戦争当時の技術者が、多くたずさわったということは、これまでに語られてきていることかと思う。
ドクターイエローは、過去に1,一~二回ぐらい、偶然見かけたことがあったかもしれない。そのときには、そんなものかと思って見ていたのだったが。
それにしても、時速三〇〇キロで走行して、架線や線路の状態をチェックできる、映像技術というのはすごいと思う。
もう東京に行くこともないのだが、新幹線に乗っても、たいてはiPodで音楽を聴いている。昔、若いころは、新書本の一冊ぐらいは車中で読めた。もう今では、目が老化してきているので、本を読むのはつらい。
リニア新幹線のことは、ニュースでは知っているが、私は乗ることがあるだろうか。それまで生きていられるだろうかという気になる。まあ、あまり乗ってみたいとは思わないけれど。
2024年10月5日記
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