「お盆の鳥取 海辺の墓地で」2024-10-09

2024年10月9日 當山日出夫

ドキュメント72時間 お盆の鳥取 海辺の墓地で

毎年、八月の盆のころ、関西のローカルニュースでは、京都の大谷祖廟の墓参り風景が流れる。京都における、巨大な墓地である。鳥取ではどうなのだろうか。この墓地の墓参りの様子が、テレビのニュースになることがあるのだろうか。

それにしても何故海辺にこんな巨大な墓地ができたのだろうか。成り立ちが気になるところである。

この地域も昭和の戦後まで土葬であったという。今でも、ごく限られた地域ではあるが、土葬を残している地域がある。人が死んで、その遺体が自然と土に還っていくということを実感することができる。今では、日本では火葬が一般化しているが、かつて土葬が行われていた痕跡は、見つけることができる。

また、古くは、今のような立派な石碑の墓ではなかった。ただの自然石をぽつんと地面においただけ、というものがあった。普通の庶民までが、立派な石碑の墓を持つようになったのは、おそらくは明治以降、さらに普及するのは、昭和の戦後になってからかなと思っている。

墓地は死者のためだけにあるのではない。そこを訪れる生きている人間のためにある。いや、生きている人間が、死者の存在を確認するための場所としての墓地と言ってもいいかもしれない。死者をふくめて「われわれ」である、という感覚は、希薄になっていくことかとも思う。

戦後、朝鮮半島から引き揚げてきて、養父母に育てられたという女性。このような境遇の人は、それと明らかになっていないだけで、数多くいたのだろう。このような人たちがいたということは、記録し、記憶にとどめていかなければならないことにちがいない。

先祖供養、祖霊信仰ということを、近代になって明文化したのは柳田国男の仕事であったというべきかもしれないが、各地に残る先祖供養、祖霊信仰について、今ではどんなふうに考えられているだろうか。生活のスタイルの変化にともなって、これもまた変わっていくものかもしれないが。

2024年10月7日記

「老人と海獣 〜北海道 積丹 トドと泳ぐ海〜」2024-10-09

2024年10月9日 當山日出夫

ETV特集 老人と海獣 〜北海道 積丹 トドと泳ぐ海〜

いろいろと考えるところがあった。

自然の生態系を守る、という観点で見るならば、漁業を止める、ということになるのかもしれない。

しかし、北海道の漁業もまた守らなければならないものである。

短期的に考えるならば、現状維持ということになるだろうか。トドが絶滅しない程度に駆除しながら、漁業を続ける、という選択肢にならざるをえない。

長期的に見れば、はたして北海道の沿岸漁業は、これから先、どうなるだろうかということがある。人口減少社会にあって、現在のままでの沿岸漁業が続けていけるとは思えない。数十年後には、漁業が衰退し、トドの駆除も意味のないものになってしまう可能性が大きい。このまま日本で人口減少が続けば、北海道の沿岸漁業などは、一番先に消えてなくなる業種のなかに入ると思われる。

この番組のいいところは、積丹でダイビングインストラクターをしている藤田さんの視点と、地元の漁業者の視点、この両方を描いていることだろう。また、自然環境保護についてのアメリカの取り組みも紹介している。

かつてはニシン漁で栄えた歴史がある。栄枯盛衰は世の習いとして、なりゆきにまかせる、無責任かもしれないが、これが一番いいのかもしれない。少なくとも、トドが絶滅しないように配慮する必要はあるだろうが。

どうでもいいことなのだが、かつての六〇年安保闘争のときの全学連委員長だった唐牛健太郎は、一時期、北海道でトド撃ちの仕事に従事していたことがあるはずである。登場していた西岡さんは、このことを知っている世代になるかもしれない。できれば、北海道におけるトドの猟の歴史ということについても、触れてあるとよかったと思う。

2024年10月3日記

「ネタニヤフと極右 〜戦闘拡大のジレンマ〜」2024-10-09

2024年10月9日 當山日出夫

BSスペシャル ネタニヤフと極右 〜戦闘拡大のジレンマ〜

戦争をやめたくない、やめられないのは、イスラエルの側にも事情があり、そして、(これは番組では言っていなかったことだが)パレスチナの側にも、理由がある、と私は思うのだが。

この番組では、イスラエルのネタニヤフ政権が、なぜ強引な極右政策をとるしかないのか、その理由を主に、ネタニヤフの経歴と、イスラエルの政治のシステム(比例代表のみによる選挙)にもとめていた。そこで、入閣することになった、二人の人物。これはこれとして、なるほどそういう事情なのかと納得できることである。

軍事作戦で、ハマスを壊滅することは不可能である。これは、去年、イスラエルがガザへの攻撃を始めた直後に、日本の報道でもよく言われていたことである。国家と国家の正規軍による戦争ではない。ハマスというような組織は、たとえ指導者を殺すことはできても、組織として崩壊することはない。また、軍事力だけにたよって、人質解放は無理である。

ここから、思うことを書いてみるならば……人質を解放しないのは、ハマスの側にとっての事情ということもあるのだろう。パレスチナやアラブとイスラエルの間の戦争を、継続させたいと考えているとしか思えない。去年、事件の起こった直後、テレビのある番組で誰かが言っていたが、ハマスは国際社会に対して自分たちのこと(パレスチナのこと)を忘れないでいてほしい……というメッセージとして、事件をおこした。そのときは、なるほどそういう見方もあるのかと思って見ていた。

人質を解放してしまえば、イスラエルには、戦闘を継続する大義名分は無くなる。すくなくとも、その大きな理由の中心ではなくなる。なぜ人質をとったのか、人質を確保している限り、戦闘状態を継続させることが可能だから、ということになるからだろうと、考えることになる。もし人質をとっていなければ、限定的な報復攻撃だけに終わった可能性があるだろう。

つまりは、オスロ合意の段階にもどすことは、イスラエルの右派もパレスチナの過激派も、ともに望んでいないという不幸な状態にあるということなのかと、思うのだが、どうなのだろうか。パレスチナの地は全部がイスラエルのものだという考え方と、この世の中からユダヤ人はいなくなればいい、イスラエルは消えてなくなればいいという考え方との間に、妥協は難しいにちがいない。

ただ、実際のイスラエルの人びとも立場や考え方は様々である。その様々に分断された状態のバランスのうえに、今のネタニヤフ政権がある。将来、このバランスが崩れたとき、どうなるのか難しい問題になるはずである。

ガザでの戦闘の悲惨さを伝えるだけでは、問題の解決につながらない、という冷めた認識も必要であると思う。

2024年10月6日記