「ロフティング“ドリトル先生航海記” (3)「ナチュラリスト」の条件」2024-10-25

2024年10月25日 當山日出夫

100分de名著 ロフティング“ドリトル先生航海記” (3)「ナチュラリスト」の条件

今の社会の基本的な考え方として、人間というものを、究極的には、遺伝子かあるいは脳の働きにもとめることになっているのだろうと思う。これはこれで一つの考え方には違いないと思うのだが、それだけでは理解しきることのできない部分があることについては、謙虚であるべきだろう。

一つには、地球全体の生態系のなかにおける人間というものであり、生命の営みということである。

もう一つは、人間に固有のものかとも思うが、人間は社会的文化的文脈のなかに生きるものであるということである。

このようなことを無視して、一個人の自由意志至上主義という傾向にあるのが、今日の人間の生き方の一つになりつつあるように思える。

確かに子どものときに、昆虫に興味を持つということは意味のあることである。別に昆虫に限らないかもしれないが、植物であってもいいだろうが、自然についての好奇心や探究心は、大切なものだと思うことになる。

人間や生物をあまりに機械のように考える生命観には、問題があるということは、理解できるつもりではいる。昔は、人間は機械、特に蒸気機関のアナロジーでとらえていたものが、今では、コンピュータにたとえるようになってきている、というのが今の一般の考え方かもしれない。最近の急速なAIの発達は、人間とコンピュータとの関係をよりいっそう近いものとして、とらえる方向にむかっていくことになるだろう。

ところで、ここまで、この番組を見てきて感じることなのだが、「ドリトル先生」の物語の背景には、やはり大英帝国の世界支配ということがあると感じるところはある。また、言語ということについても、たとえば『マイ・フェア・レディ』を思い浮かべるところがある。

見ていて思いだしたのが、嵐で遭難したドリトル先生が、悠然とガラス片で髭をそっているシーン。昔読んだ本のなかに、このような場面があったことを憶えている。私にとってドリトル先生は、動物のことばが分かる人であるよりも、困難な状況にあっても、それを受け入れて泰然自若としている人として認識していたことになる。

2024年10月23日記

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