『カーネーション』「移りゆく日々」2024-11-10

2024年11月10日 當山日出夫

『カーネーション』「移りゆく日々」

このドラマの映像には、色気がある。あるいは、けれんみがある。いまどき、このようなことを感じるドラマは少ない。

糸子は生地屋につとめることになる。そこで生地を売るとき、採寸して型紙を作るという過程を省略して、直接、人の体に布をあてて裁断するという方法をとる。これは、生地を売る、あるいは、縫製をするという観点からは、合理的な方法であるかと思うのだが、残した型紙の再利用ということができない。はたして、総合的にはどう考えるべきことなのだろうか。

だが、このとき、糸子が考え出した方法が、後に役立つことになる。それは、ドラマが進んで、娘たちの時代になってからのことである。

このドラマの良さの一つは、何度でも書くことになるが、説明的な台詞やナレーションではなく、映像と演技、演出で表現していることである。さりげないことであったが、呉服店で売るものがなくなったので、タワシを売っていた。それを母親の千代が怪訝そうな顔つきで手にしていた。これだけで、もう呉服店ではなくなってしまったことが伝わってくる。

これは、岸和田の街、というところから離れないでドラマを作るという方針で、その岸和田の町並みや、小原の家のこと、近所の家のことなど、限定してそこを非常に細かく作ってある、という姿勢が成功したということになると思っている。(このドラマを見るのは、三度目ぐらいになるはずだが、最後まで岸和田の街と、小原の家が舞台になる作り方をしている。)

クリスマスケーキのシーンは非常に印象に残る。糸子の思いのみならず、おばあちゃんや、母親、それから妹たち、そして、父親の善作、これらの人びとの気持ちの錯綜を、じっくりと描いていた。それから、神戸の家に行って、年老いた祖父母の姿を目にして、世代の移り変わりを実感することになる。このあたりの脚本、演出は、とてもうまいと思うところである。

昭和の初めのころ、岸和田でクリスマスケーキが売られていたかどうか気にならないではない。しかし、善作がひっくりかえしてしまったケーキをひろって、それをお箸で(スプーンやフォークではなく)食べているところを見ると、さもありなんという気になる。こういうところが、このドラマの作り方の良さだと感じる。

糸子は自分で洋裁師と言ってはいるが、依然として着物姿のままである。神戸の家に行くと、洋服姿の家族もいる。岸和田の街が、時代のながれのなかでおくれている、いや、神戸のお金持ちの家が進んでいる、ということがよく分かる。

2024年11月9日記

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