「ナチ親衛隊 狂気の実行者たち」2024-12-19

2024年12月19日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト ナチ親衛隊 狂気の実行者たち

ナチ親衛隊、SS、のことを大きくとりあげるのは、これが始めてかと思う。

ヒムラーとハイドリヒのことが中心であった。だが、この回を見て少し物足らないと感じるところがある。それは、なぜ、多くの若者がSSに志願したのか、ということの理由が説明されていなかったことである。一般的に考えれば、それはナチスのプロパガンダの成功であった、ということになる。しかし、これでは、あまりにも紋切り型にすぎる。

第一次大戦後の社会……ワイマール共和国であるが……の人びとの生活や社会、ヨーロッパのなかで自分たちのことをどう思っていたのか、そして、その中で育った若者が、SSに志願したことになる。

劣等民族……私はこのようなことばは好きではないが、しかし、人間の心情を表すには便利なことばである、やはりこれは本心から出たことばだったのだろう……と見なされていたドイツ人の自信と誇りをとりもどす、このような心性がなかったとはいえないだろう、と私は推測してみる。それが、あまりにも極端であり、かつ、他民族、特にユダヤ人排斥につながったことは、問題であったことになる。ここで、国家間、民族間、における軋轢の出口としての、ドイツ人の優秀さということに向かったと理解していいだろうか。

無論、現代の科学的知見の示すところでは、純粋な人種、というようなものは存在しない。人種という概念は、社会構築的なものである。(だからといって、まったく無意味とは思わない。現実の世の中において、黒人とか白人というようなおおまかなくくりで人間を見ることは、依然としてあり、そう思うこと自体はしかたないことであると思っている。問題は、それが、排他的になり差別につながらないようにするにはどうすべきか、ということである。)

だが、この時代には、人種の概念があり、その優劣を考えていた。それが科学的であった時代である。

番組のなかで映っていた、イスラムのドイツ軍、これは始めて見たかと思う。第二次世界大戦のとき、いったいどんなことがあったのか、まだ知らないことが多くある。

毒ガス(チクロンB)によるユダヤ人の殺害が、その当時において、人道的であり効率的である、つまり、合理的判断であった、ということは、残酷なことではあるが、人間とはそのように感じて考えるものである、ということを思うことになる。

2024年12月17日記

「1993年6月9日 憧れの「ロイヤルウエディング」」2024-12-19

2024年12月19日 當山日出夫

あの日 偶然そこにいて 1993年6月9日 憧れの「ロイヤルウエディング」

再放送である。最初の放送を見逃して(録画しそこねて)、今回、再放送を録画しておいて見た。

皇太子・雅子さまのことは、なんとなくテレビで見たような記憶はあるのだが、私としては、そんなに関心もなかったできごとでる。まあ、基本的にリベラルよりなのかもしれないが、皇室のあり方は、関心はあるが、さりとて、ニュースになってもそう興味があるということはない。(将来的に、もし、天皇制がなくなるとしたら、後継者がいなくなってということになるのかもしれないが、さて、そのときは、日本はどんなになっているだろうとは考えてみたりするのだけれど。)

その当時を思い返して、テレビなどを見ていて思ったことの一つは、その学歴についてである。雅子さまは、田園双葉から東大、ハーバードという経歴である。だが、テレビなどを見ていて、その「ご学友」として登場していたのは、田園双葉の時代の同級生である人たちであった。東大とかハーバードの関係者が、テレビに出て、何か話しているというのは、たまたまそうだったのかもしれないが、私は見ていない。これは、やはり、皇太子妃ということで見るとき、東大やハーバードは、ちょっとイメージにそぐわないということだったのかなと思うが、これは、その当時の皇室に対する感覚の表れでもあったのだろう。(まあ、これから、筑波大学がどう思われるようになるか、分からないのだが。)

美大を卒業して、その後、学生たちはどのような人生を歩むことになるのか。どうも、一般の目からは、美大という大学のことが分かりにくい。

日本テレコムの最初の女性総合職、はたしてどんな人生を歩んだのだろうか。

番組の作り方として、基本を女性の生き方においていたことは分かる。雅子さまという人の生き方が、その時代の女性の生き方と共鳴するところがあったことはたしかである。だが、仕事でキャリアを積むことによって、それで、幸福な人生であったといえるかどうかは、また別のことかもしれない。だからといって、女性が働くことを否定するつもりはまったくない。どのような生き方を選ぶにせよ、選択肢が増えたことは確かであり、これ自体は良いことである。だが、人の世の常として思うことは、選択肢が多くあることが、幸福感や充足感につながるかというと、これは、また違う次元のことになる。

反動的とされるかもしれないが、人が自分の人生に充足感をもって生きるということについては、むしろ逆に、選択肢がなくこのような生き方しかできなかった、ある種の運命感のようなもの……があってもいいのかもしれない。かつては、そのようであった。個人の自由意志でなんでも選択できるということは、あり得たかもしれない、だがなれなかった自分についての、不満を感じることにつながる。これは、新しい時代の幸福論として、考えなければならないことである。無論、これは、女性だけではなく、男性をふくめて、今日を生きる人間のすべてについて考えなければならないことである。

私としては、個人の自由意志と幸福ということについて、考えることになる。無論、同時に、いろんな社会の制度の改革ということは必要である。歴史を逆にもどすことはできない。自分で選んだ人生の責任は、自分自身でひきうけるしかない。これからの人間観、哲学の一つの課題である。

小和田(こわだ)駅のことが出てきていたが、これは秘境の駅として有名らしい。とんでもないところに駅があるものである。

2024年12月18日記

ねほりんぱほりん「救命救急センターで働いていた人」2024-12-19

2024年12月19日 當山日出夫

ねほりんぱほりん 救命救急センターで働いていた人

録画を見終わってから、厚生労働省のHPで、自分の住んでいる県で、三次救急がどこの病院にあるか、調べてみた。一つは、今、私が定期的にかよっている病院である。これは、家から三〇分ほどかかる。他には、我が家から二〇分ほどのところの大学病院がある。

救命救急センターに運ばれてくる患者よりも、その家族に対応することが、負担になる、ということは、言われてみればそのとおりかなと思う。やはり人と人との関係が、最終的な問題になるのだろう。

とりあえず命をつないで(死なないようにして)、次の専門医が対応するまでの処置をすることになる。それは、そんなに格好いい仕事ではない。

心肺停止で運ばれてくれば、ほぼ助かることはない。これが、現実ということになる。

日本の医療制度にはいろいろ問題はあることは言われているが、実際の医療の現場の問題ということが、制度面からあまり考えられていないということになるだろうか。その一方で、大学受験のときには、現代では、医学部だけが他をひきはなしてだんとつに高い状態になっている。そして、専門医を目指す若い医師の過労死などが問題になる。さらには、医学部を出て医師になったものの、実際には美容医療にすすむ例が多いことも、問題になるようになってきている。こういうのは、どこかがおかしいと思わざるをえない。

救急医療に限らないが、その仕事をする人が、社会からただしく理解され、仕事に充足感を得られるよう、社会全体で制度設計を考えなければならない、常にこれでいいかどうか、現場に即した微調整を加えていかなければならない、ということになるのだろうと思う。

2024年12月15日記

『カーネーション』「生きる」2024-12-19

2024年12月19日 當山日出夫

『カーネーション』「生きる」

『カーネーション』はBKの制作だったので、その年の秋からの放送であった。つまりお正月をはさむ。そのため、順調に毎週六回で進行するわけではない。今週は、水曜日までの放送で、ひとまとまりということになった。もともと週単位で作ってあるドラマなので、それに合わせて見て思ったことなど書いておきたい。

戦時中の庶民の生活ということが、実感として伝わってくる描き方であった。空襲警報、疎開、防空演習、そのなかで、日常の洋裁店の仕事もあり、また、疎開している母親の千代やおばあちゃんのハルのために食糧を運ぶ。ろくに休養をとっている暇もない、とにかく疲れる、考えるという余裕がない、もう何も考えたくない。このようなことが、おそらくは、その当時を生きた人たちの生活の実感だったのだろう。

これも、地域によっても違っていたこととは思う。すでに大空襲のあった東京や大阪の市街地とは違って、まだ岸和田では空襲の直接の被害はない。しかし、だからこそといういべきだが……すでに焼け野原になった東京の下町にはもう空襲はないという気持ちもあったかとも想像するが……次は自分のところかもしれない、という不安はつのっていったことだろう。

そのなかにあって、自分の家を動きたくないという祖母のハルの気持ちも、そんなふうに考える高齢者がいても、なるほどそんなものだろうと感じるところがある。

千代たちの疎開先では、蛍が出るという。戦時下の慌ただしい時期にあって、蛍のことを思うのは、逆に、それだけ気分的に追い詰められていることなのかもしれない。せめて蛍が見たいという気持ちは、余裕があってのことではなく、ふと心のすきまにうかんだことだったろう。

空襲にあうのだが、幸いなことに、小原の家は無事であった。このドラマは、岸和田の小原の家の建物としての物語という面もある。

奈津が出てきていた。もはや失うものは何もない……このような気持ちになってしまうのも、また、人間というものである。

最も印象に残っているのは、玉音放送のシーン。これまでに、朝ドラでは、玉音放送のシーンが何度も登場している。(意図的に描かなかったと考えられるのは、『虎に翼』であったが、結果的にその意図や効果はわからないままである。)

雑音混じりの放送で、昭和天皇の声が聞き取れない。もし、聞き取れたとしても、始めて聞く昭和天皇の声である。その用語も漢語ばかりで難しい。はたして、その時代、どれほどの人が、この放送を理解できたのか疑問に感じるところである。

たいていのドラマでは、放送を聞き取って、戦争に負けたということを理解したという脚本であり演出になっているのだが、この『カーネーション』は違っている。小原の家では、いったいラジオが何を伝えたのか、だれも理解していなかった。近所のおじちゃんの知らせで、ようやく戦争が終わったことを知った、ということであった。

このことを知った糸子は、ゆっくりとラジオのスイッチを切って、「さあ、お昼にしようけ」と言ってたちあがった。こういう玉音放送のシーンは、かなり特殊な描き方になる。たいていは、ラジオの放送を聞いてうなだれていることが多い。しかし、その当時の、一般の人びとの生活感覚としては、このようなものだったのだろうと感じるところがある。

玉音放送があろうとなかろうと、たとえ戦争がおわったとしても、お昼御飯の準備ということは、確かな日常としてある。こういう日常の生活の感覚を、具体的に、そして、細かく描いているのが、このドラマが傑作といわれるゆえんであろう。

2024年12月19日記