『カーネーション』「生きる」2024-12-19

2024年12月19日 當山日出夫

『カーネーション』「生きる」

『カーネーション』はBKの制作だったので、その年の秋からの放送であった。つまりお正月をはさむ。そのため、順調に毎週六回で進行するわけではない。今週は、水曜日までの放送で、ひとまとまりということになった。もともと週単位で作ってあるドラマなので、それに合わせて見て思ったことなど書いておきたい。

戦時中の庶民の生活ということが、実感として伝わってくる描き方であった。空襲警報、疎開、防空演習、そのなかで、日常の洋裁店の仕事もあり、また、疎開している母親の千代やおばあちゃんのハルのために食糧を運ぶ。ろくに休養をとっている暇もない、とにかく疲れる、考えるという余裕がない、もう何も考えたくない。このようなことが、おそらくは、その当時を生きた人たちの生活の実感だったのだろう。

これも、地域によっても違っていたこととは思う。すでに大空襲のあった東京や大阪の市街地とは違って、まだ岸和田では空襲の直接の被害はない。しかし、だからこそといういべきだが……すでに焼け野原になった東京の下町にはもう空襲はないという気持ちもあったかとも想像するが……次は自分のところかもしれない、という不安はつのっていったことだろう。

そのなかにあって、自分の家を動きたくないという祖母のハルの気持ちも、そんなふうに考える高齢者がいても、なるほどそんなものだろうと感じるところがある。

千代たちの疎開先では、蛍が出るという。戦時下の慌ただしい時期にあって、蛍のことを思うのは、逆に、それだけ気分的に追い詰められていることなのかもしれない。せめて蛍が見たいという気持ちは、余裕があってのことではなく、ふと心のすきまにうかんだことだったろう。

空襲にあうのだが、幸いなことに、小原の家は無事であった。このドラマは、岸和田の小原の家の建物としての物語という面もある。

奈津が出てきていた。もはや失うものは何もない……このような気持ちになってしまうのも、また、人間というものである。

最も印象に残っているのは、玉音放送のシーン。これまでに、朝ドラでは、玉音放送のシーンが何度も登場している。(意図的に描かなかったと考えられるのは、『虎に翼』であったが、結果的にその意図や効果はわからないままである。)

雑音混じりの放送で、昭和天皇の声が聞き取れない。もし、聞き取れたとしても、始めて聞く昭和天皇の声である。その用語も漢語ばかりで難しい。はたして、その時代、どれほどの人が、この放送を理解できたのか疑問に感じるところである。

たいていのドラマでは、放送を聞き取って、戦争に負けたということを理解したという脚本であり演出になっているのだが、この『カーネーション』は違っている。小原の家では、いったいラジオが何を伝えたのか、だれも理解していなかった。近所のおじちゃんの知らせで、ようやく戦争が終わったことを知った、ということであった。

このことを知った糸子は、ゆっくりとラジオのスイッチを切って、「さあ、お昼にしようけ」と言ってたちあがった。こういう玉音放送のシーンは、かなり特殊な描き方になる。たいていは、ラジオの放送を聞いてうなだれていることが多い。しかし、その当時の、一般の人びとの生活感覚としては、このようなものだったのだろうと感じるところがある。

玉音放送があろうとなかろうと、たとえ戦争がおわったとしても、お昼御飯の準備ということは、確かな日常としてある。こういう日常の生活の感覚を、具体的に、そして、細かく描いているのが、このドラマが傑作といわれるゆえんであろう。

2024年12月19日記

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
このブログの名称の平仮名4文字を記入してください。

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2024/12/19/9740672/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。