『坂の上の雲』「(14)子規、逝く(後編)」2024-12-20

2024年12月20日 當山日出夫

『坂の上の雲』「(14)子規、逝く(後編)」

正岡子規が死んだ。『坂の上の雲』を日露戦争にいたる明治の物語として見るならば、別に正岡子規は出てこなくてもよかったかもしれない。しかし、正岡子規をドラマ描いたことによって、より一層「明治」という時代が際立ったものになったといえるだろう。

このドラマでは、秋山真之、好古の兄弟よりも、正岡子規の方が、より強く明治人……これは、このドラマの冒頭のことばになるが……としての特質を持っていたということになる。古いものを捨て去り、新しいものをもとめ一途に進んでいく姿は、明治という時代を肯定的にとらえるためには、必須であったことになる。正岡子規が夭折したことも、これにプラスである。日露戦争以後の、司馬遼太郎にしたがって評価するならば、悪くなっていく日本の姿を見ることがなかった。それに加担することもなかった。

葬儀の場面、子規庵の庭の鶏頭の花の赤い色が印象に残る。

病床の子規を真之が見舞うのだが、見ていると画面のなかで日が陰ったり、日光がさしこんだりという変化がある。普通は、こんな光線の変化までは、演出しないと思うが、子規と真之の気持ちのを、効果的に表現していたといっていいだろう。

原作の『坂の上の雲』には女性がほとんど出てこない、と記憶している。まあ、司馬遼太郎が、これを新聞連載していたころの読者としては、圧倒的に男性が多かったろうし、その社会のあり方としても、男性中心の状態であった(現在の視点から評価すればということになるが)ということを考えれば、このような小説になったことは、そう否定的に考えるべきではない。だが、NHKが『坂の上の雲』をドラマとして作るには、女性の登場人物を必要とするようになっていた、これも、一つの時代の流れである。ただ、これも、およそ一〇年ほど前のことであって、現在、もし同じようにドラマを作るとしたら、さらにより強く女性の視点というものを、取り入れることになっているだろう。

明治の女性を描いているなかで、どの女性も古風なのだが、そのなかにあって先駆的な生き方をしたのが、正岡子規の妹の律、ということになる。正岡子規が死んでから、女学校に通う。まだまだ、女性の就学率そのものが低い時代である。

乃木希典が登場していた。日露戦争における乃木希典の評価は、難しいところかもしれない。少なくとも、今日、一般的な乃木希典についてのイメージを作ったのは、司馬遼太郎『坂の上の雲』であったことは確かなことである。

那須の農家でのシーン。乃木のもとに、村の人たちがやってきて、兵役につくので挨拶したいという。実際がどうであったかは知らないのだが、日露戦争が、国民的な戦争であったことは確かなことである。それだけ多くの人たちが軍務につき、また、犠牲も多かった。(このドラマでは描かないことにはなるが、反戦、非戦の立場からの言論もあった。)

最後のシーン。世論は、ロシアに対して好戦的であった。これは、今も昔も変わらない。おおむね、政府は現実路線をとることになるが、これは、はたから見れば、優柔不断で日和見的ととらえられかねない。日中戦争から太平洋戦争の日本の新聞がどうであったか、軍部以上に軍国主義的であった、というのが今日の一般の評価かと思っている。まあ、マスコミとか世論とかは、えてしてこういうものである。それが、現在では、SNSが加わってより混沌とし、さらに過激な発言がとびかっているということになる。

2024年12月19日記

「パンデミック 東京の危機〜第1波 医療従事者の闘い〜」2024-12-20

2024年12月20日 當山日出夫

新・プロジェクトX パンデミック 東京の危機〜第1波 医療従事者の闘い〜

今の時点(二〇二四年のおわり)で、COVID-19パンデミックのことを、ドキュメンタリーとして描くならば、前回のクルーズ船のこと、それから、この回の第一波のときの医療従事者の対応、これぐらいになるのかと思う。他には、政治家の判断とか、各分野の専門家がどう考えてどう除法発信していったか、また、マスコミがどう報道したか、という大きな問題があるが、これらを冷静に語れるようになるには、まだ時間がかかるかもしれない。

私は、安倍晋三が大嫌いであるのだが、それとは別に、政治家としてこのときの判断が正しかったかどうかは、しかるべく検証されなければならない。(個人的に思うこととしては、二〇〇〇年の三月の全国の学校の休校とか、マスクの件とかは、失策であったと思うのだが。)

二〇〇〇年の冬から春にかけてのことで思い出すのは、NHKの朝ドラの『ひよっこ』である。再放送を夕方にやっていた。夕方、再放送を見て、そのままNHKでは、ニュースの時間になって、まず映し出されるのが、渋谷のハチ公前であった。毎日みていると、だんだん人が少なくなっていくのが分かる。そして、ニュースの冒頭では、その日の東京の(だったと思うが)新規感染者数の発表である。これは、日に日に増加していった。なんとなく暗澹たる気分になったのを記憶している。

四月になって大学の授業が始まるときなのだが、とりあえず休校ということで、そのうちに、オンラインで対応ということに方針が変わった。これはまあなんとか、大学のLMSで対応したのだが。

ところで、番組であつかっていたのは、東京の聖路加国際病院と東京医科歯科大学病院の、現場の医療関係者のこと。

番組に作るとき、言うまでもないことかもしれないが、助かった事例を取材することになる。この第一波のとき、死者もかなりあったのだが、このことにはほとんど触れることがなかった。これは、現時点では、いたしかたないかと思うのだが、しかし、現場での対応や判断の記録と検証のためには、死者のこともふくめて考えなければならないはずである。

パンデミックというとき、働くのは、狭義の医療従事者(医師や看護師など)だけではない。救急車も出動しなければならないし、さらには、保健所の仕事もある。また、行政としてどう対応するかということもある。

裏方の仕事……事務とか、病院などの清掃とか、各種の物資の運搬、ロジスティックス、とか……多くの課題が残されたままであるように思える。この番組であつかっていたように、個人の善意と努力でどうにかなるということは、期待してはいけないだろう。

その後、ワクチンの接種となったのだが、その接種会場の設営や運営が課題となるし、ワクチンの輸送と保管も重要なことであった。

個人的な感想としては、日本はまあまあなんとか乗りきったのかな、と思うところではあるが、しかし、様々な社会の問題点が露呈した数年間であったことはたしかである。特に、いまだに保健所への連絡にFAXを使っているのかと、さんざん批判されたのだが、それに代わるオンラインのシステムが運用されるようになったが、これはこれで、現場の病院などの負担が一気に軽減されるということではなかった。

もし次に、パンデミックとなったとき、いわゆるマイナ保険証をどう活用するかということが課題かと思うが、このことを視野にいれた議論……推進するにせよ、立ち止まってシステムの再構築を考えるにせよ……が、あまり表だってなされているとは思えない。

2024年12月17日記

「旅する獅子〜山陽・近江路〜」2024-12-20

2024年12月20日 當山日出夫

よみがえる新日本紀行 「旅する獅子〜山陽・近江路〜」

たまたまテレビをつけたら放送していたので、最後まで見てしまった。

私は、学生のとき、慶應義塾大学の文学部の国文で勉強したので、折口信夫につらなる芸能史ということには、いまだに関心を持ち続けている。特に、民間の旅芸人、門付けというような芸能は、興味がある。伊勢大神楽というのは、名前は知っていたが、テレビで映像として見るのは初めてかもしれない。

最初の放送は、昭和四七年(一九七二)である。この時代に、この芸能が残っていて各地を回っていたということに、まず驚いたというのが正直な感想である。私が高校生のころのことになる。この当時は、門付けした家からお米をもらうことが多く、それが大神楽の人びとの収入になっていた。(このお米をどのように換金したりしたのかは、説明がなかったのが残念である。)

それが、今(二〇二四)になっても続いている。国の重要無形文化財の指定も受けている。人数は半分ほどに減ったらしいのだが、それでも、各地を旅して芸能の仕事がつづいている。

芸能というのは、それを演じる人だけのことではなく、それを見るひと聴くひと、受容の側の人びとのことを考えなければならない。このことが、非常に強く印象に残る番組であった。信仰のあつい人は、神楽に涙をながしお礼を言う。こういう人のささえがあって、芸能は続いてきたことになる。

また、大神楽にたずさわる人もすごい。その芸能で、その場の空気を変えてしまう。そして、旅をするなかで成長していき、年に一回、めぐりあう人がその成長を確認することになる。こういう関係性が今の日本のなかに残っていることに、正直言って感動する。

東京大学で宗教学を研究していたが、この世界に飛び込んだ若者が映っていたが、たしかに、研究者の視点で見るとの、実際に旅をして芸能を披露するのとでは、まったく体験が異なるにちがいない。映像で見るその表情がとてもよかった。

いろいろと考えるところのある番組だった。

2024年12月17日記