「まけんぞ 〜能登 孤立集落の1年〜」2024-12-28

2024年12月28日 當山日出夫

BSスペシャル まけんぞ 〜能登 孤立集落の1年〜

NHKの作る番組としては、最後に希望をもった終わり方になっていたが、これは、こうつくるしかないだろう。

はっきりいうならば……こういうことは誰もいいたがらないけれども、いったい誰が言い出すか、でしかない問題であると思う。この地区の復興を諦めることにする、と。政治や行政の側からは、とても言い出すことはできないだろう。となると、これから先の将来は、自然に集落の消滅を待つしかない、あえていえば、(あまりこういう言い方はしたくないけれども)見捨てることしか選択肢がない。人口の構成を見るならば、もはや「限界集落」ということになる。選択肢があるとするならば、どのようにして終わりにするか、ということをめぐってということにならざるをえない。

今の生活のスタイルは、道路のインフラがあり、電気があり、水道があり、ということが前提になる。一五〇年前、二〇〇年前、ならば、人と馬がとおれる道があり、海に船を出せれば、自給自足の生活はなんとかなっただろう。しかし、その時代の生活に、もはや戻ることは出来ない。現代の標準的な、医療や介護や福祉のサービスのとどかないところに、高齢者ばかり住んでいるという状況は、(現代の価値観からするならば)非人道的といっていいかと思う。

故郷を思う人間の心情は、たしかに分かる。今、困っている人たちに援助の手をさしのべる、これは絶対に必要である。

そして、同時に考えなければならないことがある……これまで住んでいた人たちが、もとに戻って、同じように集落の再建がなったとしても、その次の世代に、それをどう継承するかという問題がある。考えるべきことは、次の世代まで、そしてその先まで、人が暮らせる場所として、どうあるべきか、という議論でなければならない。これから、日本の人口が減少していく時代の流れのなかにあって、どこにどのような暮らし方をすることが可能になるのか、という大きな視点から考えるべきことと思う。

だから、この意味では、決して将来が絶望ということはない。道路、水道、電気、通信、医療、教育、福祉、介護、などの社会的なインフラがあれば、人は住むことができる。そして、仕事が必要である。ならば、この地域で、どのような人たちの、どのような生活が可能か、考えることになる。こういう視点から、将来にむけての議論が必要であると、私は考える。

これは、将来の日本のあり方を考えることにもつながる。

ただ、災害にあって可哀想な人たち、頑張っている人たち、ということで終わる問題ではない。

辺鄙なところ、不便なところに住むのは、個人の居住の自由の権利である、それは自己責任である、ということではすまない段階に、日本の国全体として、地域を問わずなっていると考えるべきだろう。

2024年12月23日記

「能登輪島 炊き出し10万食〜地震と豪雨 地元を支えた食の力〜」2024-12-28

2024年12月28日 當山日出夫

新・プロジェクトX 能登輪島 炊き出し10万食〜地震と豪雨 地元を支えた食の力〜

この「新・プロジェクトX」(昔の「プロジェクトX」もそうだったが)、将来への教訓ということを、描かない。そういうのは、別の番組でやればいいということかもしれないが。前回のCOVID-19パンデミックに対する対応をあつかったときも、そうだった。次に同じようなパンデミックがおきたら、行政や専門家や市民はどうすべきか、なんら教訓となることを残していない。とにかく、みんな頑張った、で終わっている。(それが、この番組の趣旨なのだろうとは思うけれど。)

距離をおいて冷静に考えてみることにする。

最も興味深い(といっては失礼になるかもしれないが)ことは、災害がおこったときの人間の心理の変化である。まず、最初は何が起こったか分からないだろう。徐々に状況が分かるにつれて、その心理状態がどう変化するものなのか、貴重な証言として見ることもできるだろう。さらには、時間がたって復旧、復興がすすんでくると、その心のあり方は、どう変わっていくのか。

これはこれで、精神医学や心理学などの専門の研究として、将来のことを考えると、きちんと調べて対応を講じる必要のあることである。いわゆる心のケアということにもつながるが、その知見として何を学びとることができるか、貴重なケースということになるはずである。

それから、この番組のなかでは、公的な機関の援助や支援ということについて、基本的に言及していなかった。炊き出しが、市の要請をうけて続いたと言っていただけであった。このとき、行政(国や県や市)との調整はどうなっていたのだろうか。また、自衛隊などの活動とは、どのような関係にあったのか。これらは、将来のための教訓として、残しておくべきことであろう。

食材や調理器具などの調達について、道路が寸断されていた状態のなかで、その輸送はどうであったのか。ここが最も知りたいところである。道路が通じていなければ、救援物資もボランティアも無理である。(あるいは本当にこの番組で描くべきは、道路の補修にあたった人たちではなかったのか、という気もする。)

このような番組を見るといつも思うことだが、助け合った人たちが日頃から顔なじみであった、ということがある。このことを別の観点から見るならば、前近代的な町内会ともいえる。そして、これこそ、現代の日本の社会が全力で否定してきた、中間的共同体ということになる。特にリベラルな立場からは、非常に否定的である。個人の自由を束縛するものでしかないことになる。そのなかには、家族ということもふくまれる。そういう中間的共同体を否定しながら、しかし、同時に、見ず知らずの人によるボランティアでの手助けは価値あるものとすることには、どうも釈然としないものを感じる。これも、逆に、見ず知らずの人だから助ける気になるということは、人間の心理として有りうることだとは思うが。

さらに書いておくならば、災害にあったとして、この番組で紹介されていたように頑張って助け合わなければならない……言いかえれば、挫折したり、落ち込んだり、滅入ったり、ということはいけないことなのだろうか。これもまた、人間としての自然な心のはたらきであると、いっていいのではないか。世の中には、頑張れない人だっているはずである。また、災害のあった土地から離れてしまう人もいるかもしれない。それは、いけないことなのだろうか。災害があったときの、多様な人間の心のあり方についても、考えておくべきだと私は思うのであるが。(このようなことは、この番組の趣旨ではないということならば、それまでであるが。)

その他いろいろと思うことはある。かわいそうなめにあいながらも頑張った人たちの感動のドラマ、ということで見ることもできるけれども、できれば、さらに将来を見て、そのようなときはどうすることがいいのか……これから先、いつ、何がおこるか分からないが……考えることも必要かと思うのである。

「美談」が感動的に語られることによって、自分のことを考えて、逆に苦しい思いをする人がいるかもしれない、ということを想像してみることがあってもいいだろう。

2024年12月24日記

最深日本研究「ラーメンを知りたい」2024-12-28

2024年12月28日 當山日出夫

最深日本研究 ラーメンを知りたい

これは面白かった。

私が今住んでいるところの最寄り駅の近辺には、いくつかのラーメン店がある。基本的にどこも行列である。それほどではないが、一種の激戦区に近いかもしれない。近くに二つの大学があるせいかとも思うが。

私の子どものころ、中華そばは大好きだった。ラーメンという言い方は、いつごろから定着したものだろうか。これは、日本語学の問題になる。番組でも言っていたように、チキンラーメンを安藤百福が開発して、普及したことがきっかけであったろうとは思う。

テレビのグルメ番組やバラエティ番組などで、ご当地ラーメンはよく登場する。しかし、なぜ、ご当地ラーメンなのか、ということは、日本の食文化の謎といっていいのだろう。

東京の新宿のラーメン学校はとても興味深い。こんなところがあるということを、まず、始めて知った。しかも、その受講生は外国人がほとんどだという。日本にきてラーメンを習って、国に帰ってラーメン店を開くらしい。ビーガンラーメンとか、ハラルラーメンとかもあるのは、今の世界を考えると、そういうものなのだろうと思う。まあ、こういう立場の人からみれば、豚骨ラーメンなどは、とんでもない食べ物ということになるにちがいないが。

山形のラーメンの歴史で、関東大震災で、東京から人が移住してきて、ラーメン店を始めた、というのは、面白い。おそらく、このような現象は他のことがらについてもあるはずである。関東大震災で、東京が壊滅的な被害をうけて、多くの人たちが全国に散らばることになり、それにともなって、いろんな生活文化というものも、地方に拡散した、このようなことを考えることは、十分に合理的な理由がある。それを実証的に照明するのは、難しいかもしれないが。

番組では言っていなかったが、太平洋戦争のときに、地方に疎開した人たちによって、日本全体として、どのような生活文化の伝播がおこったのか、ということも重要な観点になるにちがいない。

そもそも、ラーメンが日本で食べられるようになったのは、近代になってからの、日本と中国との関係があってのことである。このことについては、近年では、日本における中華料理の歴史という観点から、研究が進んできている分野と、私は認識している。今のいわゆる町中華が、どのような歴史があるのかということになる。

出てきたなかでは、山形の鳥中華は、食べてみたい気がする。(しかし、我が家から山形はちょっと遠い。)

最近食べたご当地ラーメンというと、和歌山に行って、和歌山城の近くで食べた、和歌山ラーメンということになるだろうか。ご当地ラーメンの広がりには、お土産としての普及ということがあったが、たしかに、和歌山に行って、パンダを見て帰るお土産に、和歌山ラーメンであってもおかしくはない。(買って帰ったのだけれど。)

ことばの問題としては、支那そば、という言い方を忌避することが、あったが、今ではどうだろうか。PCの観点から、支那、ということばを使ってはいけない、という主張であった。だが、歴史的には、中国の歴史や文化を総合的にあらわすことばとして、支那、ということばは非常に便利である。

むかし、私が若いころは、ラーメンは安価で手軽な食べ物だったのだが、このごろでは、一〇〇〇円では食べられないものになってしまている。そして、基本は行列しないといけない。これも時代の流れなのだろうが。

どうでもいいことかもしれないが、ケンブリッジ大学では、サバティカルで二年間つかえるというのは、日本の普通の大学では考えられないことかと思う。

2024年12月26日