『カーネーション』「愛する力」 ― 2024-12-29
2024年12月29日 當山日出夫
『カーネーション』「愛する力」
この週から、周防が登場である。そして、奈津も出てくることになる。『カーネーション』全体のなかでも、印象にのこる時代といっていいだろうか。
夫の勝の戦友がたずねてきた。勝が持っていた写真を、岸和田までとどけてくれた。それは、勝と糸子と子どもたちの写真だった。それを見て、糸子は、勝が隠していた写真……芸妓と一緒に映っている……を燃やす。このとき、糸子は勝に買ってもらった赤いショールを肩にかけていた。この赤い色に光があたって、きれいな映像であった。赤い色のショールを巧みにつかった演出と感じたところである。
闇市で見つけた水玉の生地で、糸子は服を作る。それが、岸和田中に大流行する。このあたりは、ファッションというものがどうもよく分からないところでもある。流行っているなら同じものを着たいが、人と同じ姿もしたくない、このあたりの微妙なバランスが、着るものには無頓着な生活を送っている私には、どうもよくわからないところではある。
周防が出てきていたシーン。職人だから、口数は少ない。しかも、かなり長崎方言が強い。何を言っているかよくわからない。だが、その数少ないことばのなかで、長崎の「ピカ」と言っていた。原子爆弾のことである。だが、糸子はピカの意味を理解していたとは感じられない。はあ、そうですか、と聞いていただけだった。ピカの惨劇のなかで、周防は残った靴を大事にしている。妻子があることは語っていたが、どんな生活をしているかは不明である。そして、長崎が原爆でどんなになったかは、一言も語っていない。だからこそ、数少ないことばによって、周防が体験したであろう長崎の原爆の被害の悲惨さが、じんわりと伝わってくる。その被害の状況を、(今でいう語り部のように)饒舌に語ることは決してない。そのわずかなことば……ピカ、妻子は無事、靴が残った……だけで、おそらくそれ以外のなにもかも失ってしまったかもしれない身の上を想像してみることになる。
原爆の悲惨さを伝えるために、多くのことばを費やす必要はない、ということを感じさせる脚本であり演出であった。
また、印象に残るのは奈津のことである。それまで朝ドラでは、パンパンが出てくることはあまりなかった。闇市の場面で、身なりからそれと分かる女性が映っていることは、かなりあったが、はっきりと誰と特定して登場人物にあつかうことは、私の記憶にあるかぎりの朝ドラではない。やはりこれは、パンパンが、(はっきりというならば)米兵相手の売春婦である、ということを、かなり配慮してのことだったのだろう。
奈津は、パンパンになるしかなかった。吉田屋を失い、もはやこれ以上失うものはない、という境遇になってしまった奈津にとって、パンパンになるぐらいしか生きる道はなかったのだろう。これは、この時代の、少なくない数の女性の運命であったともいえるかもしれない。これは、特に肯定も否定もなく、そういうことのあった時代が過去にあったということを、忘れてはいけないということである。
奈津のために、糸子は安岡のおばちゃんに頼み込む。奈津は、安岡のおばちゃんにだけは心を開いていたからである。この安岡のおばちゃんと奈津との再会のシーンがいい。多くのことばを語って説得するというようなことはない。おばちゃんは、奈津のことを責めたりはしない。ただ、そばにいてことばを交わすだけである。そして、このシーンは、映像としてもとてもいい。人と人が、気持ちを分かり合えるということはどういうことなのか、わずかな科白と映像で雄弁に物語っている。
『カーネーション』が朝ドラのなかでも傑作とされるゆえんは、上述のような、きめ細やかだが大胆な脚本(決して、説明的ではない)と、映像の美しさによって、その時代に生きた人間の気持ちを表現しているからである、と私は思うことになる。
2024年12月28日記
『カーネーション』「愛する力」
この週から、周防が登場である。そして、奈津も出てくることになる。『カーネーション』全体のなかでも、印象にのこる時代といっていいだろうか。
夫の勝の戦友がたずねてきた。勝が持っていた写真を、岸和田までとどけてくれた。それは、勝と糸子と子どもたちの写真だった。それを見て、糸子は、勝が隠していた写真……芸妓と一緒に映っている……を燃やす。このとき、糸子は勝に買ってもらった赤いショールを肩にかけていた。この赤い色に光があたって、きれいな映像であった。赤い色のショールを巧みにつかった演出と感じたところである。
闇市で見つけた水玉の生地で、糸子は服を作る。それが、岸和田中に大流行する。このあたりは、ファッションというものがどうもよく分からないところでもある。流行っているなら同じものを着たいが、人と同じ姿もしたくない、このあたりの微妙なバランスが、着るものには無頓着な生活を送っている私には、どうもよくわからないところではある。
周防が出てきていたシーン。職人だから、口数は少ない。しかも、かなり長崎方言が強い。何を言っているかよくわからない。だが、その数少ないことばのなかで、長崎の「ピカ」と言っていた。原子爆弾のことである。だが、糸子はピカの意味を理解していたとは感じられない。はあ、そうですか、と聞いていただけだった。ピカの惨劇のなかで、周防は残った靴を大事にしている。妻子があることは語っていたが、どんな生活をしているかは不明である。そして、長崎が原爆でどんなになったかは、一言も語っていない。だからこそ、数少ないことばによって、周防が体験したであろう長崎の原爆の被害の悲惨さが、じんわりと伝わってくる。その被害の状況を、(今でいう語り部のように)饒舌に語ることは決してない。そのわずかなことば……ピカ、妻子は無事、靴が残った……だけで、おそらくそれ以外のなにもかも失ってしまったかもしれない身の上を想像してみることになる。
原爆の悲惨さを伝えるために、多くのことばを費やす必要はない、ということを感じさせる脚本であり演出であった。
また、印象に残るのは奈津のことである。それまで朝ドラでは、パンパンが出てくることはあまりなかった。闇市の場面で、身なりからそれと分かる女性が映っていることは、かなりあったが、はっきりと誰と特定して登場人物にあつかうことは、私の記憶にあるかぎりの朝ドラではない。やはりこれは、パンパンが、(はっきりというならば)米兵相手の売春婦である、ということを、かなり配慮してのことだったのだろう。
奈津は、パンパンになるしかなかった。吉田屋を失い、もはやこれ以上失うものはない、という境遇になってしまった奈津にとって、パンパンになるぐらいしか生きる道はなかったのだろう。これは、この時代の、少なくない数の女性の運命であったともいえるかもしれない。これは、特に肯定も否定もなく、そういうことのあった時代が過去にあったということを、忘れてはいけないということである。
奈津のために、糸子は安岡のおばちゃんに頼み込む。奈津は、安岡のおばちゃんにだけは心を開いていたからである。この安岡のおばちゃんと奈津との再会のシーンがいい。多くのことばを語って説得するというようなことはない。おばちゃんは、奈津のことを責めたりはしない。ただ、そばにいてことばを交わすだけである。そして、このシーンは、映像としてもとてもいい。人と人が、気持ちを分かり合えるということはどういうことなのか、わずかな科白と映像で雄弁に物語っている。
『カーネーション』が朝ドラのなかでも傑作とされるゆえんは、上述のような、きめ細やかだが大胆な脚本(決して、説明的ではない)と、映像の美しさによって、その時代に生きた人間の気持ちを表現しているからである、と私は思うことになる。
2024年12月28日記
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