ウチのどうぶつえん「ネコ科に まっしぐら」2024-12-31

2024年12月31日 當山日出夫

ウチのどうぶつえん ネコ科に まっしぐら

こういう偏見にみちた番組は大好きである。とにかく猫はかわいい。ネコ科の動物もかわいい。それが、赤ちゃんとなると、このうえなくかわいい。

動物園で生まれたネコ科たちである。人工保育で育った母猫から子どもが生まれても、無事に子育てできるかどうか、心配である。でも、ちゃんと育てているところを見ると、自然の摂理の妙(というのも大げさだが)、本能(このことばはこのごろでは使わなくなったが)というものを感じることになる。

高知県の動物園の、もし南海トラフ地震で津波がきたら、ということで、お客さんの避難経路を考えると同時に、動物たちのことも考えている。展示場のなかに高いところを作って、そこにあがることができれば、なんとか生きのびてくれる可能性がある、ということだが、こういう試みはあっていいことだと思う。動物たちの食糧も、備蓄が用意してある。

2024年12月29日記

「量子もつれ アインシュタイン 最後の謎」2024-12-31

2024年12月31日 當山日出夫

NHKスペシャル 量子もつれ アインシュタイン 最後の謎

正直に言って、さっぱり分からない……これは確かなことなのだが、確実に言えることはある。それは、何が分からないのかを分かることが学問である、ということである。このことには、いわゆる理系とか文系とかは関係ないはずである。

私が専門に勉強してきたことは、日本語学、国語学の分野のなかで、文字とか表記とかにかかわる領域になる。そのような分野についてでも……日本語の文字である漢字や平仮名や片仮名については、みんな知っている……それについて、どのような疑問があり、何が分からないことなのか、ということをきちんと一般に分かるように説明することは、非常に難しい。

それから、量子もつれということについて、番組では、いくつかのアプローチを示していた。私の理解では、工学的なアプローチと、理学的なアプローチである。量子もつれがあるとしたら、それをどのような実験で確認することができるのか、あるいは、できないのか、という方向で考えることができる。歴史的には、この方向ですすんできた。また、量子もつれがあることを前提にして、それを使えば何ができるか……暗号であり、コンピュータである……ということで、現実的な技術開発をめざす方向がある。しかし、その一方で、ではなぜ量子もつれがあるのか、その根源的な理由を探るという研究もある。

サイエンスの方法としては、ある理論や仮説を提示するときは、それがどのような実験や発見で証明できるのか、あるいは、反証できるのか、ということを内包していなければならない、というのが私の理解であるのだが、量子もつれの研究の歴史は、かならずしもこのようにして進んできたようではないらしい。科学史の研究としては、どう見ることになるのだろうか。

人間が学問という営みをつづけてきたのは、この世界のなりたち、人間とは本質的になんであるか、その究極のところを知りたい、理解したい、という気持ち……それは、根源的な知的好奇心といえばいいかもしれないが……が、あるからにちがいない。この意味では、哲学や宗教と、物理学とは、通じるところがあると思うことになる。

世界はそこに観察者いるときだけ存在するものである……このような世界観は、これからの人間にどのような感覚をもたらすことになるだろうか。まさに哲学や宗教の課題でもあると、私は認識している。

宇宙の根源を知りたい、人間の本質を知りたい、このような気持ちをいだきつづけることができ、研究することができる人間は、幸せというべきだろう。ただ、残念ながら、今の日本の大学などの制度のなかでは、ひたすら好奇心で研究にうちこむ、面白いからやる、という若者を育成する余裕がなくなってきているということは、どうしようもないこかもしれないが。

2024年12月29日記

「“生殖”のミステリー!生き物の根源に挑む」2024-12-31

2024年12月31日 當山日出夫

サイエンスZERO “生殖”のミステリー!生き物の根源に挑む

録画してあったのをようやく見た。

どうしても、『すばらしい新世界』(オルダス・ハクスリー、黒原俊行訳、光文社古典新訳文庫)のことを思ってしまう。今から何十年も前に描かれた、ディストピアSFとして知られる傑作である。

技術的に可能なことは、それを応用的に使うことを認める理由を考える、その方向に人間の価値観、倫理観は、大きく流れてきているというのが、私の感じているところである。もっとも身近なところでは、普通に行われている不妊治療なども、それを許容する生命倫理観の構築と普及、ということを抜きにしてはありえない。現在の段階で、グレーな領域にあるのが、代理母というあたりのことだろうか。

人間の倫理観、特に生命についての倫理観は、それが自然の状態である、ということに根源的な価値を求めるところに成立するものだというのが、私の考えである。人為的に生命を操作することは許されないということになる。このとき、何が(人為的でなく)自然な状態なのかは、科学と技術によって、社会的に変化するものである。

また、さらに、より根本的な問題としては、倫理的な正しさの根拠を自然にもとめることは、はたして妥当かどうかという議論がある。自然主義的誤謬ということになる。

自然主義的誤謬という観点から、今日のフェミニズムを擁護することも、また、批判することもできるかと思うのだが、それよりも、まず、何故、生物に性というものがあるのか、ということについて、現在のサイエンスで何が分かっているのか、そして、技術的に何か可能になっているのか、正確な知識にもとづいた冷静な議論が必要になるということは、確かだと私は思う。

2024年12月30日記