「大江戸ルネサンスサミット2025」2025-01-01

2025年1月1日 當山日出夫

大江戸ルネサンスサミット 2025 〜なぜ江戸は世界的な文化都市になったのか?〜

次の大河ドラマ『べらぼう』の宣伝番組、ということでもないが、蔦屋重三郎が活躍した時代、江戸時代の後期、化政期の江戸文化が、どのようなものであり、そして、それはなぜ発展することになったのか、多方面から論じてみた……という趣旨の番組である。

見ていて思うこととしては、論点としても、史実としても、そんなに目新しいことはないなあ、ということである。

私にとって、新知識だったのは、大黒屋光太夫の描いた日本地図。これは興味深い。おそらく、地図の歴史というような研究分野にとっては当たり前のことなのかもしれないが、日本人(日本列島に住んでいる多くの人びとぐらいの意味であるが)が、日本地図の形をどうイメージしてきたかということは、とても面白いことである。

最後に、本郷和人が、コジェーヴのことに言及していたのは、ちょっと意外な感じがした。今では、コジェーヴは、そんなに読まれないと思うのだが、ここは、どういう人であったか、少し説明を入れてあった方がよかったところかもしれない。

天邪鬼な私として、すこし思ったことを書いてみる。

ここでいっていた江戸文化とは、都市としての江戸に限定してのことなのか、それとも、江戸時代のいろんな地方までふくんでのことなのか、このところが少し曖昧になっていた。基本は、江戸という都市の文化であることは理解できるし、それが地方の文化と関連するものであったことも理解できることなのだが、このあたりは、区別して議論をすすめる必要があるかと思う。

身分という概念をどうとらえるか、現在の歴史学では、旧来のような単純な上限関係、支配・被支配という関係だけではなく、社会のなかでの役割分担というような観点から考えることもあるかと思うのだが、はたしてどうだろうか。暗黙の前提として、武士が上で、町人や農民は下、ということであった。(そのような側面があったことは確かであろうが。)

江戸の町は、圧倒的に男性が多かったということを無視していた。町人と武士がほぼ半々とすると、町人については男女は同数となろうが、武士については、特に参勤交代でやってきた武士は男性がほとんどであったにちがいない。これは、よく言われていることである。江戸の町は、男性の町であった。そういう(今風にいえば)ジェンダーバイアスのあるなかでの文化ということも、考えておかなければならない。(このことを抜きにして、吉原を語ることはできないはずである。)

文化として、浮世絵とか歌舞伎とか料理とかを主に考えている。出版においては、読本や黄表紙などが紹介されていた。だが、江戸時代の出版としては、漢籍などと、読本などとは、その制作から出版、流通のシステムが異なっていた、というのが、基本的な出版史の知識だと思っているのだが、はたしてどうだろうか。(ここのところを、『べらぼう』でどう描くことになるかは、興味のあるところである。)

江戸時代の人口構成としては、武士と町人だけではなく、圧倒的多数だったのは、農民を中心とする「百姓」になる。これは、かならずしも、米作の農民だけではない、非農業民として漁業などもあるし、無論、商業も考えることになる。土地に定住する人もいただろうが、流浪の生活を送る人もいたはずである。これらの多くの人びとのことを、どう考えることになるのか、ほとんど触れることはなかった。強いていうならば、「常民」の視点から見たとき、江戸文化とはなんであったか、といういことになる。すこし言及されていたのは、村芝居のことぐらいであった。

江戸時代の江戸の人びとはいったいどんな暮らしをしていたのか。明治になってからのことになるが、貧民窟が多くあったことは知られていることである。これは、江戸の昔にさかのぼるとどうなのか、ということは気になることである。(おそらく、地図を分析することで分かることだろうと思うが、どうなのだろうか。)

江戸時代からのことが明治維新の後もつづいていた、その連続性を考えるのは、このごろの考え方かなと思う。同じように、戦前・戦中のことを、戦後の日本社会との連続性で考える方向もある。そう珍しい考え方ではない。問題は、何が連続していて、何が変わったかということである。おそらく、明治維新によって人びとの生活は大きく変わったが、それが根本的に変わるのは、戦後になって、高度経済成長期のことになる、それまでは、江戸時代に近い生活様式と意識のなかに生きてきた、このような考え方もできるだろう。たとえば、『忘れられた日本人』(宮本常一)の描いた日本の姿である。また、『逝きし世の面影』(渡辺京二)もある。

言うまでもないこだが、江戸時代の化政文化を論じるとき、沖縄と北海道はふくまれていない。いわゆる「鎖国」の時代と見ることもできるが、しかし、中国(清)から多くのものが入ってきていた時代でもある。このあたりの「日本」「日本文化」ということを、どういう範囲で考えるかということも、課題としては残ることになる。

それから、文化の問題とは直接は関係ないかもしれないのだが、なぜ、江戸時幕府が崩壊することになったのか、なぜ明治維新になったのか、ということもある。まさに、この時代の武士のあり方、日本に生活する人びとの意識のあり方、ということを考えなければならないことあろう。

どうでもいいことなのだが、スタジオで質問するとき、私はあまり知らないので教えてほしいのですが……というような言い方があったのだが、これは、学会などで、発表した若い人に、ちょっと意地の悪い質問などするときにつかう。NHKのこういう番組で使ってもかまわないとは思うのだけれど。(私は、見ながら思わず笑ってしまった。)

最後まで見て、慶應義塾大学古文書室、とあったが、いったい何で協力したことになったのだろうか。ここは、確か経済学部の所管で(私の学生のときは)、大学院の古文書学の受業などで、所蔵の古文書など触ったことがある。

買ったまま積んである『将軍の世紀』(山内昌之)を読んでおこうと思う。世の中にあふれている雑多な蔦重本を読むより、勉強になるかと思う。

2024年12月30日記

「80億人 人類繁栄の秘密」2025-01-01

2025年1月1日 當山日出夫

フロンティア 80億人 人類繁栄の秘密

録画してあったものをようやく見た。これは、一月六日に再放送するらしい。

まず、気になったことを書いておく。「フロンティア」のこの回の放送は、二〇二四年八月二二日である。その後、一一月四日に、「フランケンシュタインの誘惑」で「ネズミの“楽園”実験 切り取られた研究成果」を放送している。

なぜ、このことが気になったかというと、ユニバース25の実験の解釈についての疑問である。アメリカでカルフーンの行ったこの実験は有名なものだが、続きがある。数が増え続けたネズミは、滅亡するということは確かなことだろうが、そうであっても、ネズミに役割が与えられると、協力するようになり絶滅にいたらない、ということである。これを、「フランケンシュタインの誘惑」であつかっていた。

さて、NHKのスタッフは、この二つの番組をどう思って作ったことになるのだろうか。

人類がこれからも人口が増え続けるということは、人口学的には、どうなのだろうか。特に歴史人口学の立場からは、むしろ否定的であるように思える。例えば、『人口で語る世界史』(ポール・モーランド、度会圭子訳、文春文庫)を読むと、近代文明の時代になって、生活水準が上がり、女性の教育が普及すると、子どもの数が減る……これは、洋の東西をとわず、どこの国・地域でも見られる現象ということになる。すでに、日本を始めとして韓国などは人口減少の危機にある。ヨーロッパ諸国もそうである。中国も、将来の人口減少が確実である。アメリカは、例外的に移民の増加で、人口は維持できそうであるが、それを除けば基本的には減少傾向である。私には、こちらの考え方の方が、より説得力があるように思える。(だからといって、人口を維持するために、女性の教育が害であるなどと言うつもりはまったくない。)

番組のなかで言っていた、個々のことは興味深いことである。自己家畜化、お互いに仲よくした方が生き残れる、という生存戦略。アフリカを出る前の人類(ホモ・サピエンス)は、弓矢を使っていた。DNAから過去の人口を推定すると、かつて人類は絶滅の危機にあった。だが、火を使うことによって、寒冷な気候を生きのびることができた。それぞれは、興味深いことなのだが、全体をとおして、ではなぜ、ホモ・サピエンスが、これほどまでに地球上にひろがったのか、ということの説明としては、どうだろうかと思うことになる。

自己家畜化はとても興味深い論点である。しかし、人類の歴史は、敵対する人間に対する虐殺の歴史でもあったことも、また事実である。普通の人間が、時として非常に残酷になる。人類の歴史は、非常に残酷である。人間の歴史は、友愛の歴史でもあるだろうが、同時に、大量虐殺の歴史でもある。これは、歴史の常識であろう。

エチオピアの遺跡から見つかった矢じりは、他の遺跡から見つかる石器との比較検討が必要だと思うのだが、番組では、このことについてはまったく触れていなかった。また、その矢じりを作った石は、どこから得たものだったのだろうか。

この番組では言及がなかったが、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』は面白い本なのだが、根本的に納得できないところもある。言語、宗教、共同体意識、こういうことの成立について、歴史上あった、というだけで、何故、どういうふうにして、それがおこったのかまったく説明がない。これを、現代の、脳科学や遺伝子の研究から解明することはできるだろうか。

進化ということばを番組のなかで使っていたが、生物学の用語としての進化ということばで説明できるのは、せいぜい旧石器時代から新石器時代ぐらいではないのだろううか。日本でいえば、縄文時代ぐらいまでという印象なのだが。今から数千年前に発生した古代文明について、進化という概念で説明ができるのだろうか。これは、生物学と歴史学にまたがる人類学という分野の本来のテーマかもしれない。

2024年12月31日記

「ドキュメント72時間」年末スペシャル20242025-01-01

2025年1月1日 當山日出夫

ドキュメント72時間 年末スペシャル2024視聴者投票

ここ数年、「ドキュメント72時間」は見ている。録画しておいて、二~三日後にゆっくりと見ることがほとんどである。年末には、その年のベストテンが放送なので、これも見ている。

二〇二四の年末スペシャルも、これは、家で留守番と孫の子守をしながら見た。だいたい予想したのは、ランクインしていたという感じだったのだが、予想外だったのが一位である。「国道4号線 ドライブインは眠らない」だった。これも見たことは憶えているのだが、そう強い印象に残る回ではなかった。特に、劇的な人生をあゆんだ人が出てきていたわけではないし、めったに見られないようなことが映っていたということでもない。ごく普通のドライブインと、そこにくるお客さんの話しであった。

だが、これが一位になったというのは、何か象徴的な気がするので、書いてみることにした。

この「ドキュメント72時間」という番組の企画からどうしてもそうなるのだが、ある場所や施設にまつわる人が多く登場することになる。その地域のローカルな人びとの交流が描かれることが多い。たぶん、このことが、この番組が長く続いている理由であり、また、今回の一位がドライブインであった理由なのだろう。

その地域に住む人びとの普段の生活と交流。これこそが、今の日本において、急速に失われつつあることである。そのなかには、家族のつながりもふくまれる。

現在の先端的な(?)価値観からすると、家族とか結婚とかいうものは、個人の自由意志や価値を束縛するものであり、そのようなもの縛られるのは、前近代的な封建制の残滓である……このような発想になる。このように考えることになったのには、それなりの理由があってのことではある。都市部における核家族化の進行の最終的な姿といってもいいかもしれない。個人の自由な意志が尊重されるようになったこと、それ自体は好ましいことだというべきである。これを否定しようとは思わない。

だが、それで何を失うことになるのか、なくなっていくものへの郷愁というべき感情を、人びとがいだくようになっても、おかしくはない。これは、人間のならいというべきもので、別に反動的保守思想として非難されるべきことではないと、私は考えている。時代がかわり、生活様式が変わっていくなかで、自然にいだく気持ちととらえておくべきだろう。

ドライブインの回であるが、登場していたのは、トラックドライバー、地元の消防団、家族、友達……ということになるだろうか。特別に感動的な話しがあったということではない。(強いていえば、母子家庭の母親と娘のエピソードだろうが、こういう言い方は失礼になるかもしれないが、これも、今の時代において、特に珍しいということではない。)

地元の消防団の付き合いなど、今の日本では絶滅危惧といっていいことであるが、一昔前までは普通にあったことである。家族で子どもを連れてやってきて、自分が子どものときに親に連れられてきたときのことを思い出す、これも今では、こんな親子関係は貴重かもしれない。自衛官になって休暇で帰ってきて、両親と食事に行くというのも、当たり前のことのようだが、孤独な都会生活からみると、ほのぼのとしたものを感じるところがあるにちがいない。

一昔前までは、ごく普通に日本中にどこでもあったような人と人との関係、家族の関係が、近年になって劇的に変化してきている。そのなかにあって、ちょっと前まではこんなだったなあ、と懐かしく思い出すのも、また人情というものであろう。

これは、いいとか悪いとかの問題ではなく、社会が変化していっているなかで、人びとが感じていることである、としかいいようがない。年末にテレビを見ながら、今の日本はこういう時代になっているのだなあ、としみじみと感じたということなのである。

感動を見る人に押しつけるところがない。何を感じるかは見る側の想像力にまかされている。これが、この番組の一番いいところであるにちがいない。

2024年12月31日記