「欲望の資本主義 2025 成長神話の虚実」 ― 2025-01-04
2025年1月4日 當山日出夫
欲望の資本主義 2025 成長神話の虚実
見ながら思ったことを思いつくままに書いてみる。
番組の最後にケインズのことばが引用してあった。もっとも危険なのは思想である、と。
人間には欲望がある。欲望のもとに発展してきたのが資本主義であることは確かだろう。だが、その欲望のかたちは一つではない、ということを考えなければならなくなっているのが、今日の世界ということかと、私は思う。
アメリカ的な欲望……豊かな生活……これは、戦後の日本が高度経済成長でめざしてきたものである。そのアメリカ的豊かさだけが、人間としての生き方ではない、という考え方が、日本国内にも世界にも、ひろがりつつあるといっていいだろうか。言いかえれば、ウェルビーング、QOL、というようなことばでいわれる、生活の質としての豊かさへの着目である。
ケインズは思想といったが、私としては、その思想の歴史をふまえることが重要だと考える。どんな思想にも歴史がある。何を生活や社会の価値観として重視するかは、歴史的背景なしに語ることはできない。今の世界は、アメリカ的な生活を良いものとして受け入れるのが大勢かと思うが、しかし、それもアメリカが世界の大国となってからの、歴史的な結果ともいえよう。
番組のなかでは言及がなかったが、「文明の衝突」ということが、かつていわれたことがあった。サミュエル・ハンチントンである。冷戦終結後の世界秩序についての考察ということになる。今、このアイデアをそのまま引き継ぐことは難しいかとも思うが、少なくとも世界には、多様な価値観のエリア……国や地域……があるということは、むしろ、近年になってより明らかになってきたことであろう。グローバリズムが浸透した結果、逆に、それぞれのエリアのもつ特性が、目に見えるようになってきた。
少しだけ中国のことについては触れてあった。資本主義的に経済発展すれば民主化する……これは、アメリカの誤った判断だった、ということになるが、しかし、中国のことは、資本主義経済が必ずしも民主主義と不可分のものではない、ということの事例になる。少なくとも、中国というエリアにおいては、アメリカや日本などとは、異なる価値観と論理がある国家といってもいいだろう。(だが、このまま中国の経済発展が続くかどうかは、また別の問題だとは思うが。)
大きく紹介されていたのはベトナムのこと。東南アジアにおいて、重要な国の一つということになる。その理由の一つは、(番組ではいっていなかったが)国がコンパクトで、民族的に統一性が高いということがあるだろう。(国の内部に、いわゆるいくつかの民族をかかえる多民族国家ではあるのだが。)
しかし、ベトナムはいまだに社会主義国である。(これも番組のなかではいっていなかった)。中国と同じように、資本主義的な改革開放政策の結果である。さて、このベトナムは、将来において民主化することになるだろうか。
価格と価値は違うものである。これはそのとおりだと思うが、課題だと感じたのは、価値というものには、文化的な側面が内在することである。価格は、単純に金額(具体的にドル換算)で明示化できるが、価値はそのように明示化できないものをふくんでいるからこそ、価値なのである。極端にいいかえると、お金では計れない部分に価値がある。
自動車でいってみるなば、人間は自動車があれば乗りたがり所有したがるものであり、お金があればより値段の高い自動車を買うものである。これは、はたして、今の時代の生活感覚を説明できるだろうか。
思想と価値、という観点からは、つねづね私の思っていること、本来の意味での保守思想を考えるべきときだと思う。自分がそのような価値を選ぶのは何故なのか、よってきたる社会的な要因……歴史や生活習慣や宗教的感覚など……について自省が必要であり、異なる人が異なる価値観を持つことへの想像力である。だが、これは極端な相対主義におちいってはならない。人権とか平和とか、基本的な普遍的な理想は堅持しつつ、それでもなお、人権とか平和とかに価値をおくのは何故なのか、考えることが必要である。
この意味では、政治的な立場として、リベラルであろうが保守であろうが、左翼であろうが右翼であろうが、思考停止状態であることには危惧がある。特に極端なリベラリズムのいう、個人の自由意志至上主義には、私は賛成しない。歴史や文化から、そしてDNAからも、まったく自由な個人の意志がはたしてありうるのだろうか、ここは懐疑的である必要がある。自由意志至上主義と、資本主義的欲望がむすびついたとき……今の時代でいうリバタリアンということになるが……それは、人間にとって危険な存在であろう。
私としては、日本はもうこれ以上の経済成長はしなくてもいいから、おおむね今の生活が守れるなら、それでいいのではないか、と思うところがある。これから、急速な人口減少がおこるなかで、この水準が保てればいいとしなければならないだろう。
そして、世界を見ても、将来的には人口が減少するはずである。世界に住むさまざまなな人びとの生活のスタイルと全体のバランス、そして、地球環境を考える、このような方向にむかっていくべきなのではないかと、思う次第である。
2025年1月3日記
欲望の資本主義 2025 成長神話の虚実
見ながら思ったことを思いつくままに書いてみる。
番組の最後にケインズのことばが引用してあった。もっとも危険なのは思想である、と。
人間には欲望がある。欲望のもとに発展してきたのが資本主義であることは確かだろう。だが、その欲望のかたちは一つではない、ということを考えなければならなくなっているのが、今日の世界ということかと、私は思う。
アメリカ的な欲望……豊かな生活……これは、戦後の日本が高度経済成長でめざしてきたものである。そのアメリカ的豊かさだけが、人間としての生き方ではない、という考え方が、日本国内にも世界にも、ひろがりつつあるといっていいだろうか。言いかえれば、ウェルビーング、QOL、というようなことばでいわれる、生活の質としての豊かさへの着目である。
ケインズは思想といったが、私としては、その思想の歴史をふまえることが重要だと考える。どんな思想にも歴史がある。何を生活や社会の価値観として重視するかは、歴史的背景なしに語ることはできない。今の世界は、アメリカ的な生活を良いものとして受け入れるのが大勢かと思うが、しかし、それもアメリカが世界の大国となってからの、歴史的な結果ともいえよう。
番組のなかでは言及がなかったが、「文明の衝突」ということが、かつていわれたことがあった。サミュエル・ハンチントンである。冷戦終結後の世界秩序についての考察ということになる。今、このアイデアをそのまま引き継ぐことは難しいかとも思うが、少なくとも世界には、多様な価値観のエリア……国や地域……があるということは、むしろ、近年になってより明らかになってきたことであろう。グローバリズムが浸透した結果、逆に、それぞれのエリアのもつ特性が、目に見えるようになってきた。
少しだけ中国のことについては触れてあった。資本主義的に経済発展すれば民主化する……これは、アメリカの誤った判断だった、ということになるが、しかし、中国のことは、資本主義経済が必ずしも民主主義と不可分のものではない、ということの事例になる。少なくとも、中国というエリアにおいては、アメリカや日本などとは、異なる価値観と論理がある国家といってもいいだろう。(だが、このまま中国の経済発展が続くかどうかは、また別の問題だとは思うが。)
大きく紹介されていたのはベトナムのこと。東南アジアにおいて、重要な国の一つということになる。その理由の一つは、(番組ではいっていなかったが)国がコンパクトで、民族的に統一性が高いということがあるだろう。(国の内部に、いわゆるいくつかの民族をかかえる多民族国家ではあるのだが。)
しかし、ベトナムはいまだに社会主義国である。(これも番組のなかではいっていなかった)。中国と同じように、資本主義的な改革開放政策の結果である。さて、このベトナムは、将来において民主化することになるだろうか。
価格と価値は違うものである。これはそのとおりだと思うが、課題だと感じたのは、価値というものには、文化的な側面が内在することである。価格は、単純に金額(具体的にドル換算)で明示化できるが、価値はそのように明示化できないものをふくんでいるからこそ、価値なのである。極端にいいかえると、お金では計れない部分に価値がある。
自動車でいってみるなば、人間は自動車があれば乗りたがり所有したがるものであり、お金があればより値段の高い自動車を買うものである。これは、はたして、今の時代の生活感覚を説明できるだろうか。
思想と価値、という観点からは、つねづね私の思っていること、本来の意味での保守思想を考えるべきときだと思う。自分がそのような価値を選ぶのは何故なのか、よってきたる社会的な要因……歴史や生活習慣や宗教的感覚など……について自省が必要であり、異なる人が異なる価値観を持つことへの想像力である。だが、これは極端な相対主義におちいってはならない。人権とか平和とか、基本的な普遍的な理想は堅持しつつ、それでもなお、人権とか平和とかに価値をおくのは何故なのか、考えることが必要である。
この意味では、政治的な立場として、リベラルであろうが保守であろうが、左翼であろうが右翼であろうが、思考停止状態であることには危惧がある。特に極端なリベラリズムのいう、個人の自由意志至上主義には、私は賛成しない。歴史や文化から、そしてDNAからも、まったく自由な個人の意志がはたしてありうるのだろうか、ここは懐疑的である必要がある。自由意志至上主義と、資本主義的欲望がむすびついたとき……今の時代でいうリバタリアンということになるが……それは、人間にとって危険な存在であろう。
私としては、日本はもうこれ以上の経済成長はしなくてもいいから、おおむね今の生活が守れるなら、それでいいのではないか、と思うところがある。これから、急速な人口減少がおこるなかで、この水準が保てればいいとしなければならないだろう。
そして、世界を見ても、将来的には人口が減少するはずである。世界に住むさまざまなな人びとの生活のスタイルと全体のバランス、そして、地球環境を考える、このような方向にむかっていくべきなのではないかと、思う次第である。
2025年1月3日記
「ドキュメント 能登半島地震 緊迫の72時間」 ― 2025-01-04
2025年1月4日 當山日出夫
NHKスペシャル ドキュメント 能登半島地震 緊迫の72時間
一月一日の夜の放送なので、能登半島の地震から一年目の日としては、こういう番組になるのは、理解はできるつもりだが、あまり得るところはなかった。たしかにかわいそうとは思い、共感するところはあるのだけれども、そういう人の映像を見ても、ではこれから起こるであろう災害にそなえて何を考えるべきか、ということにつながるわけではない。
この番組で得るところとしては、災害の救助にあたる、警察、消防、自衛隊、これらの連携や連絡、総合的な指示、こういうことができないのが、日本の現状であるということを、明らかにしたことである。それぞれ所轄の官庁も違う。これらを、地方自治体の長や知事の権限で、統括的に運用するというのは、かなり無理がある。自衛隊は軍である。それを知事の権限で指揮できることになると、これは問題である。国のレベルでの危機対応の組織が働かなければならない場面である。
だが、これまで、緊急事態において政府の権限が地方自体を超えるというようなことについては、危険思想であると、さんざん批判されてきたというのが、私の認識である。憲法に緊急事態条項を加えるべきとまでは思わないが、このような災害が起こったときに、すみやかに各種の組織……警察、消防、自衛隊、それから場合によっては海上保安庁、さらには各地の医療機関、空港や港湾の利用……これらを、統括して運用するための法的な整備は必須ということになるはずである。
NHKがこのような番組でまず検証すべきは、一年前の地震の日の報道についてである。これは、内部だけでおこなうのではなく、オープンなところで、他のマスコミとも共同して行った方がいいだろう。一つの被災地に、各社の報道関係者が一斉におしよせることの是非も論じる必要がある。
また、地震の情報がどのように把握できて、それを、どう報道したのか、ということが重要になる。番組を見て思い出すことは、地震の直後は圧倒的な情報不足だったということである。現地の状況がどうなのか、どれほどの被害があるのか、救援を待つ人はどこにどれぐらいいるのか、そして、何をどうすればいいのか……何よりも重要なのは現場についての情報である。このことを抜きにして、ボランティアに行くことの是非について、議論しても無意味である。
道路が寸断され、現地で水も食料も寝るところも確保できないような状態のところに、いくらボランティアだからといっても、そう簡単にいくべきではないと、考える。災害から時間がたって、状況の変化に応じて、必要な手助けは変わってくる、このようなことを、的確に報じることも報道の仕事である。この意味では、NHKが地震のあってしばらくしてから、各自治体ごとに必要とする援助について、整理してニュースで報じるようになったことは、よかったと思っている。(実際にどれだけ役だったのかの評価は、別にきちんとしなければならないが。)
それから、全国孤立可能性マップは、見てみた。さいわい、といっていいのかどうかためらわれるが、今の私の住まいしているとことは、含まれていない。しかし、長男の奥さんの実家とか、私が生まれたところとか、危険な地域ということになる。
2025年1月3日記
NHKスペシャル ドキュメント 能登半島地震 緊迫の72時間
一月一日の夜の放送なので、能登半島の地震から一年目の日としては、こういう番組になるのは、理解はできるつもりだが、あまり得るところはなかった。たしかにかわいそうとは思い、共感するところはあるのだけれども、そういう人の映像を見ても、ではこれから起こるであろう災害にそなえて何を考えるべきか、ということにつながるわけではない。
この番組で得るところとしては、災害の救助にあたる、警察、消防、自衛隊、これらの連携や連絡、総合的な指示、こういうことができないのが、日本の現状であるということを、明らかにしたことである。それぞれ所轄の官庁も違う。これらを、地方自治体の長や知事の権限で、統括的に運用するというのは、かなり無理がある。自衛隊は軍である。それを知事の権限で指揮できることになると、これは問題である。国のレベルでの危機対応の組織が働かなければならない場面である。
だが、これまで、緊急事態において政府の権限が地方自体を超えるというようなことについては、危険思想であると、さんざん批判されてきたというのが、私の認識である。憲法に緊急事態条項を加えるべきとまでは思わないが、このような災害が起こったときに、すみやかに各種の組織……警察、消防、自衛隊、それから場合によっては海上保安庁、さらには各地の医療機関、空港や港湾の利用……これらを、統括して運用するための法的な整備は必須ということになるはずである。
NHKがこのような番組でまず検証すべきは、一年前の地震の日の報道についてである。これは、内部だけでおこなうのではなく、オープンなところで、他のマスコミとも共同して行った方がいいだろう。一つの被災地に、各社の報道関係者が一斉におしよせることの是非も論じる必要がある。
また、地震の情報がどのように把握できて、それを、どう報道したのか、ということが重要になる。番組を見て思い出すことは、地震の直後は圧倒的な情報不足だったということである。現地の状況がどうなのか、どれほどの被害があるのか、救援を待つ人はどこにどれぐらいいるのか、そして、何をどうすればいいのか……何よりも重要なのは現場についての情報である。このことを抜きにして、ボランティアに行くことの是非について、議論しても無意味である。
道路が寸断され、現地で水も食料も寝るところも確保できないような状態のところに、いくらボランティアだからといっても、そう簡単にいくべきではないと、考える。災害から時間がたって、状況の変化に応じて、必要な手助けは変わってくる、このようなことを、的確に報じることも報道の仕事である。この意味では、NHKが地震のあってしばらくしてから、各自治体ごとに必要とする援助について、整理してニュースで報じるようになったことは、よかったと思っている。(実際にどれだけ役だったのかの評価は、別にきちんとしなければならないが。)
それから、全国孤立可能性マップは、見てみた。さいわい、といっていいのかどうかためらわれるが、今の私の住まいしているとことは、含まれていない。しかし、長男の奥さんの実家とか、私が生まれたところとか、危険な地域ということになる。
2025年1月3日記
『坂の上の雲』「(16)日露開戦(後編)」 ― 2025-01-04
2025年1月4日 當山日出夫
『坂の上の雲』 (16)日露開戦(後編)
日露戦争の開戦の決断であるが、このドラマの描き方は、太平洋戦争のことをイメージさせる作り方を、おそらくは意図的にしている。
悪いのは、外交交渉に応じようとしないロシアの方である。東アジアにおける拡大政策をやめようとしない。満州、朝鮮半島を自分のものにしようとしている。これでは、次に狙われるのは日本の国そのものかもしれない。そのような威圧、あるいは、日本側からすれば恐怖、これがあって、やむにやまれぬ祖国防衛戦争としての日露戦争であった。このようなおおきなストーリーが設定してある。
このなかには、朝鮮のこと、その独立国家としての行く末とか、中国のこととかは、視野にはいっていない。朝鮮や中国の目から見れば、また異なる東アジアの歴史を描くことになる。(ただ、これは、どれが正しいということではなく、それぞれの国民には、それぞれの歴史の物語がある、という側面から見ることになる。無論、それから離れて、歴史学としてどう考えるかということもある。国民の物語と歴史学は、かならずしもイコールでなければならないとは思わない。しかし、これは相互に影響し合うものであることも確かである。)
明治天皇が臨席しての御前会議は、太平洋戦争にいたるまでの、政府と昭和天皇の関係を、どことなく感じさせる。あくまでも戦争に反対、平和主義である天皇と、現実の軍事や外交にかかわる政府との間の、やりとりである。
明治天皇がどのような考え方の持ち主であったか。一般に知られる明治天皇の御真影は、軍服姿のものなので、武断的な印象が強いが、しかし、実際には、ドラマのなかで言っていたように、京都で生まれたこともあり、もめ事を武力で解決することは好まないたちであったろうと考えていいだろう。
このあたりのことについて思うこととしては、私の若いころのことになるが、日中戦争から太平洋戦争にかけての昭和天皇の責任を追及する、というよりも、天皇こそが戦争の首謀者であると主張することがあったのだが、これは、現代では、収まってきているようである。明治天皇にしても、昭和天皇にしても、大日本帝国憲法のもとでの天皇であるから、法的に責任をとるということは難しいというのが、おそらく現代の一般的な考え方だろう。(ただ、私は、昭和天皇については、けじめをつける意味で、終戦の後の退位ということがあってもよかったと思っている。)
秋山真之は、東郷平八郎のもとで、作戦参謀に任ぜられる。何度も書いていることだが、作戦参謀は作戦を考えるのが仕事であって、艦隊を指揮するということはないはずである。作戦を実行するのは、司令長官の東郷平八郎のはずである。このことについては、ドラマの冒頭のナレーションで、真之は作戦をたてそれを実施した、と語っていることには、いつも違和感を感じる。
明石元二郎が出てきていた。もうすこし大きく、明石元二郎のことをあつかってあってもよかったのではないかと思う。これをふくめて、日露戦争の前からの、特にヨーロッパにおける、諜報活動、インテリジェンスが、どのようなものであったか、描くべきだったと思っている。ただ、これについては、ことの性質上、あまり史料が残っていないことなのかもしれないとは思うが。なお、ドラマで言及がなかったことであるが、明石元二郎は、その後、台湾総督になっている。植民地支配される民衆を押さえつける側になったということになる。歴史の皮肉というか、悲喜劇というべきか。
封密命令が東郷平八郎のもとにとどき、日露戦争が始まることになる。
開戦の時期については、佐世保からの輸送体制が整ってから、ということであったが、実際は、かなり複雑な要因があってのことだったと思うが、このあたりのことについて、もう調べてみようという気もおこらないでいる。
日露の戦争となった場合、旅順艦隊が日本まで攻め込んでくる、というのはどれぐらい可能性のあることだったのだろうか。ロシア側とすれば、日本海の制海権をとるということは、日本の朝鮮半島への海上輸送のアクセスを遮断することになり、それで目的は達したことになると考えるのは、どうだろうか。最低限、日本と朝鮮半島との兵站が機能しなくなるようにすればいいことである。敵地である佐世保や舞鶴まで出てきて、海戦を戦うというのは、ロシアにとってもリスクであると思うが。
ちなみに、太平洋戦争の開戦がいつになるかは、日米交渉の結果もあるが、マレー半島上陸作戦敢行のための海の干満、天候の状態、月明かりの有無、これらが大きな要因となって、一二月八日となったと、私は認識している。(これも、もうすこし時間があってねばってみて、ヨーロッパ戦線でのドイツ軍の戦いの帰趨を見極めてからでもよかったと思うが、これは歴史のもしもということになる。)
2025年1月3日記
『坂の上の雲』 (16)日露開戦(後編)
日露戦争の開戦の決断であるが、このドラマの描き方は、太平洋戦争のことをイメージさせる作り方を、おそらくは意図的にしている。
悪いのは、外交交渉に応じようとしないロシアの方である。東アジアにおける拡大政策をやめようとしない。満州、朝鮮半島を自分のものにしようとしている。これでは、次に狙われるのは日本の国そのものかもしれない。そのような威圧、あるいは、日本側からすれば恐怖、これがあって、やむにやまれぬ祖国防衛戦争としての日露戦争であった。このようなおおきなストーリーが設定してある。
このなかには、朝鮮のこと、その独立国家としての行く末とか、中国のこととかは、視野にはいっていない。朝鮮や中国の目から見れば、また異なる東アジアの歴史を描くことになる。(ただ、これは、どれが正しいということではなく、それぞれの国民には、それぞれの歴史の物語がある、という側面から見ることになる。無論、それから離れて、歴史学としてどう考えるかということもある。国民の物語と歴史学は、かならずしもイコールでなければならないとは思わない。しかし、これは相互に影響し合うものであることも確かである。)
明治天皇が臨席しての御前会議は、太平洋戦争にいたるまでの、政府と昭和天皇の関係を、どことなく感じさせる。あくまでも戦争に反対、平和主義である天皇と、現実の軍事や外交にかかわる政府との間の、やりとりである。
明治天皇がどのような考え方の持ち主であったか。一般に知られる明治天皇の御真影は、軍服姿のものなので、武断的な印象が強いが、しかし、実際には、ドラマのなかで言っていたように、京都で生まれたこともあり、もめ事を武力で解決することは好まないたちであったろうと考えていいだろう。
このあたりのことについて思うこととしては、私の若いころのことになるが、日中戦争から太平洋戦争にかけての昭和天皇の責任を追及する、というよりも、天皇こそが戦争の首謀者であると主張することがあったのだが、これは、現代では、収まってきているようである。明治天皇にしても、昭和天皇にしても、大日本帝国憲法のもとでの天皇であるから、法的に責任をとるということは難しいというのが、おそらく現代の一般的な考え方だろう。(ただ、私は、昭和天皇については、けじめをつける意味で、終戦の後の退位ということがあってもよかったと思っている。)
秋山真之は、東郷平八郎のもとで、作戦参謀に任ぜられる。何度も書いていることだが、作戦参謀は作戦を考えるのが仕事であって、艦隊を指揮するということはないはずである。作戦を実行するのは、司令長官の東郷平八郎のはずである。このことについては、ドラマの冒頭のナレーションで、真之は作戦をたてそれを実施した、と語っていることには、いつも違和感を感じる。
明石元二郎が出てきていた。もうすこし大きく、明石元二郎のことをあつかってあってもよかったのではないかと思う。これをふくめて、日露戦争の前からの、特にヨーロッパにおける、諜報活動、インテリジェンスが、どのようなものであったか、描くべきだったと思っている。ただ、これについては、ことの性質上、あまり史料が残っていないことなのかもしれないとは思うが。なお、ドラマで言及がなかったことであるが、明石元二郎は、その後、台湾総督になっている。植民地支配される民衆を押さえつける側になったということになる。歴史の皮肉というか、悲喜劇というべきか。
封密命令が東郷平八郎のもとにとどき、日露戦争が始まることになる。
開戦の時期については、佐世保からの輸送体制が整ってから、ということであったが、実際は、かなり複雑な要因があってのことだったと思うが、このあたりのことについて、もう調べてみようという気もおこらないでいる。
日露の戦争となった場合、旅順艦隊が日本まで攻め込んでくる、というのはどれぐらい可能性のあることだったのだろうか。ロシア側とすれば、日本海の制海権をとるということは、日本の朝鮮半島への海上輸送のアクセスを遮断することになり、それで目的は達したことになると考えるのは、どうだろうか。最低限、日本と朝鮮半島との兵站が機能しなくなるようにすればいいことである。敵地である佐世保や舞鶴まで出てきて、海戦を戦うというのは、ロシアにとってもリスクであると思うが。
ちなみに、太平洋戦争の開戦がいつになるかは、日米交渉の結果もあるが、マレー半島上陸作戦敢行のための海の干満、天候の状態、月明かりの有無、これらが大きな要因となって、一二月八日となったと、私は認識している。(これも、もうすこし時間があってねばってみて、ヨーロッパ戦線でのドイツ軍の戦いの帰趨を見極めてからでもよかったと思うが、これは歴史のもしもということになる。)
2025年1月3日記
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