ETV特集「奥能登に生きる〜2つの過疎の町と震災〜」 ― 2025-01-07
2025年1月7日 當山日出夫
ETV特集 奥能登に生きる〜2つの過疎の町と震災〜
再放送である。最初の放送は、二〇二四年七月二〇日。(その後の、能登半島の豪雨災害の前の取材である。)
番組のなかで「裏日本」ということばが出てきていた。久しぶりに聞いたかと思う。私が中学高校生ぐらいのころまでは、普通に使われていたことばだった。昭和四〇年代ぐらいのことになる。
田中角栄が、日本列島改造論と言ったとき、それは、田中の故郷の新潟県の山村の生活を踏まえてのものだった。この時代、地方と都市部、特に東京との格差は歴然としたものだった。
高度経済成長で、確かに日本の全体的な生活のスタイルはよくなった。水道があり、テレビがあり、電話があり、洗濯機があり、冷蔵庫があり、自動車があり、という生活になっていった。しかし、同時に、地方から都市部への人口の大量の移動をともなうものであった。その結果、多くの過疎高齢化の地域が残されることになった。
能登半島のことは、特に、この地域だけに限ったことではない。(たまたま地震があったということで)この地域のことが、社会的に注目されている(という言い方は適切ではないかもしれないが)ことになる。だが、人口減少、過疎高齢化の地域は、日本中にいくらでもあり、「限界集落」の問題となっていることになる。
日本全体として、人口減少の危機にある。これに対して、有効な手立てがみつからない状況にある。人口学の予想は基本的には全体として大きくはずれることはない。
能登半島で地震の被害をうけた集落を、元のとおりにもどすことはできるかもしれない。そのことは確かに意味があるだろう。しかし、である……その次の世代、さらにその次の世代に、この地域にどのような生活が成りたつのか、考えてみることも必要だろう。
漁業が成りたつためには、港湾設備と漁船の他に、冷凍冷蔵の施設が必要であり、捕った魚を商品として市場に出すための道路のインフラが必要であり、それらを維持するために、電気やガソリンや燃料の供給が不可欠である。それから、その商品としての魚を、誰がどこで消費するのか、という問題がある。日本の人口が減るということは、消費者が減るということに他ならない。仮に輸出するとしても、近隣の諸国でも人口は減少すると予測されている。どう考えてみても、明るい未来をイメージすることは難しい。別に特に悲観的に考えているわけではない。
出稼ぎということばも、近年ではあまりつかわなくなった。使うとしても、外国からの労働者が、出稼ぎ目的か、あるいは、難民か、移民か、というような文脈で使われる。しかし、日本国内において、昭和の戦後のかなりの間、出稼ぎは、農山村にとって、重要な収入源であった。そのような時代が、ついこの前まであったのである。(私が生まれたところも、そういう地域の一つだった。そして、原子力発電所の建設の話しもあったところである。)
小学校に五人の子どもが新しく入学してきていた。考えるべきは、この子どもたちが、将来にわたって、この地域をどう思うかである。
しかしながら、このようにも思ってみる……人間とは生まれ育ったところに定住するものである、これは、近代になってからの新しい人間観ではないのか、と。前近代において、村から村へと、浦から浦へと、移動する人びとも多かったかもしれない。これを、戸籍をつくり、一つの土地に定住するものとしての国民を形成してきたのが、近代の日本であったもいえよう。本籍というような概念が、そもそも、人間を生まれた土地に縛り付けるものでしかない。
日本の漁業も、外国人の技能実習生、端的に言いかえれば移民労働力になるかもしれないが、これを抜きにしては成りたたなくなっている。農業も同様である。
地震の被害者ということだけを見るのではなく、日本全体の人口と生活のあり方についての、大きな視点から考えるべきことである。それこそ、政治家の仕事であろう。また、それにしかるべく助言するのが、専門家の仕事である。
2025年1月5日記
ETV特集 奥能登に生きる〜2つの過疎の町と震災〜
再放送である。最初の放送は、二〇二四年七月二〇日。(その後の、能登半島の豪雨災害の前の取材である。)
番組のなかで「裏日本」ということばが出てきていた。久しぶりに聞いたかと思う。私が中学高校生ぐらいのころまでは、普通に使われていたことばだった。昭和四〇年代ぐらいのことになる。
田中角栄が、日本列島改造論と言ったとき、それは、田中の故郷の新潟県の山村の生活を踏まえてのものだった。この時代、地方と都市部、特に東京との格差は歴然としたものだった。
高度経済成長で、確かに日本の全体的な生活のスタイルはよくなった。水道があり、テレビがあり、電話があり、洗濯機があり、冷蔵庫があり、自動車があり、という生活になっていった。しかし、同時に、地方から都市部への人口の大量の移動をともなうものであった。その結果、多くの過疎高齢化の地域が残されることになった。
能登半島のことは、特に、この地域だけに限ったことではない。(たまたま地震があったということで)この地域のことが、社会的に注目されている(という言い方は適切ではないかもしれないが)ことになる。だが、人口減少、過疎高齢化の地域は、日本中にいくらでもあり、「限界集落」の問題となっていることになる。
日本全体として、人口減少の危機にある。これに対して、有効な手立てがみつからない状況にある。人口学の予想は基本的には全体として大きくはずれることはない。
能登半島で地震の被害をうけた集落を、元のとおりにもどすことはできるかもしれない。そのことは確かに意味があるだろう。しかし、である……その次の世代、さらにその次の世代に、この地域にどのような生活が成りたつのか、考えてみることも必要だろう。
漁業が成りたつためには、港湾設備と漁船の他に、冷凍冷蔵の施設が必要であり、捕った魚を商品として市場に出すための道路のインフラが必要であり、それらを維持するために、電気やガソリンや燃料の供給が不可欠である。それから、その商品としての魚を、誰がどこで消費するのか、という問題がある。日本の人口が減るということは、消費者が減るということに他ならない。仮に輸出するとしても、近隣の諸国でも人口は減少すると予測されている。どう考えてみても、明るい未来をイメージすることは難しい。別に特に悲観的に考えているわけではない。
出稼ぎということばも、近年ではあまりつかわなくなった。使うとしても、外国からの労働者が、出稼ぎ目的か、あるいは、難民か、移民か、というような文脈で使われる。しかし、日本国内において、昭和の戦後のかなりの間、出稼ぎは、農山村にとって、重要な収入源であった。そのような時代が、ついこの前まであったのである。(私が生まれたところも、そういう地域の一つだった。そして、原子力発電所の建設の話しもあったところである。)
小学校に五人の子どもが新しく入学してきていた。考えるべきは、この子どもたちが、将来にわたって、この地域をどう思うかである。
しかしながら、このようにも思ってみる……人間とは生まれ育ったところに定住するものである、これは、近代になってからの新しい人間観ではないのか、と。前近代において、村から村へと、浦から浦へと、移動する人びとも多かったかもしれない。これを、戸籍をつくり、一つの土地に定住するものとしての国民を形成してきたのが、近代の日本であったもいえよう。本籍というような概念が、そもそも、人間を生まれた土地に縛り付けるものでしかない。
日本の漁業も、外国人の技能実習生、端的に言いかえれば移民労働力になるかもしれないが、これを抜きにしては成りたたなくなっている。農業も同様である。
地震の被害者ということだけを見るのではなく、日本全体の人口と生活のあり方についての、大きな視点から考えるべきことである。それこそ、政治家の仕事であろう。また、それにしかるべく助言するのが、専門家の仕事である。
2025年1月5日記
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