3か月でマスターする江戸時代「(1)「天下泰平」の世はなぜ生まれたのか?」2025-01-10

2025年1月10日 當山日出夫

3か月でマスターする江戸時代 「(1)「天下泰平」の世はなぜ生まれたのか?」

この番組は見ることにして、録画しておいた。第一回を見て思うことは、東京大学の牧原成征さんは、やはり慎重にことばを選んで言っている、ということである。歴史を語るのに、どういう史料があるか、それをどう解釈するか、ということについて、きわめて気をつけている。まあ、研究者なら当たり前のことであるが。

私が見て興味深かったのは、江戸時代の始めのころ、大阪の陣までの時代、江戸幕府は知行の宛行状を発給していないということ。大名の領地については、口約束であった。さて、宛行状が無いことは、その史料が現存していない状況から分かるとして、どのようなやりとりで、大名の領地が決まったのか。このあたりのことについて、専門家はどう考えているのだろうか。文書史料があって、ある歴史を語ることはそのとおりだが、無いことの意味を考えるというのは、かなり難しいことであると思う。

なぜ家康は、豊臣家を大阪の陣まで、存続させたのか。関ヶ原の合戦の後で、勢いにまかせて滅ぼすこともできたはずである。このあたりのことは、豊臣家を完全に滅ぼすチャンスを狙っていたのか、あるいは、共存の道を考えていたのか、どうもあいまいなままだった。おそらく、歴史研究者としても、はっきりとした解釈に落ち着くところではないのかもしれない。

禁中公家諸法度については、昔の歴史の受業で習ったのを憶えている。ただ、今、これについて考えるならば、この時代の「芸能」とか「学問」とかは、どういう内容を具体的に考えることになるのか、ということである。家康は、学問を天皇や公家だけのものとは考えていなかったはずである。伏見版、駿河版、などの出版もおこなっている。武士の学ぶべき学問と公家などの学問と、この時代どのように考えられていたのだろうか。中世になっても、武士は歌を読み、京の都の文化を規範としていたことは、たしかだろうと思うのだが、中世から近世になる過程で、武士の文化とというべきものが、どのように形成されてきたのか、という観点から考えるべきことかもしれない。

参勤交代については、大名の経済力をそぐため、というのは、結果からしていえることということになる。それと同時に、重要だと思うのは、参勤交代というイベントをおこなうために、どのような組織が藩にあり、宿泊などの日程をどう調整していたのか、その実態が興味がある。かなり緻密な計画を立てないと、参勤交代は実施できないはずである。また、道中の街道や宿泊施設などの整備も必要になる。さらには、定期的に江戸と地方を行き来することは、必然的に、人やモノの交流を生み出したにちがいない。参勤交代における、江戸文化、地方文化、武士文化、という観点として、どのようなことを考えることができるだろうか。無論、参勤交代の江戸時代の経済事情ということも考えることになる。

2025年1月9日記

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