「新ジャポニズム 第1集MANGA わたしを解き放つ物語」 ― 2025-01-11
2025年1月11日 當山日出夫
NHKスペシャル 新ジャポニズム 第1集MANGA わたしを解き放つ物語
今では普通にNHKでも、アニメを放送するようになっているので、若い人たちは、それが当たり前と思っているだろう。しかし、これも、さかのぼればいろいろと歴史がある。私が記憶する範囲で、NHKがアニメを本格的に放送しはじめたのは、『忍たま乱太郎』ぐらいになるだろうか。このころ、ちょうど我が家の子どもが小さかったので、一緒に見ていた。本も買った。朝日小学生新聞もとっていた。
かつて、手塚治虫の漫画でも、悪書と世間から非難された時代があった。大学生が漫画を読むことが、世の中の顰蹙をかう時代もあった。
今の私は、基本的には漫画は読まない。読まないと決めているのは、漫画の他にSFがある。本格ミステリは読む。(しかし、これもだんだん億劫になってきている。このごろは、Kindleで、西洋思想史の古典的著作の翻訳など読んでいる。これは、最高のエンタテイメントだと感じる。)
マンガの制作が、紙とペンの時代から、デジタルに移行したこと。また、ネット配信が普及したことで、大きく状況が変わったことはたしかである。
番組では一言も言っていなかったが、非常に重要なことは、海賊版のことである。デジタルの海賊版が、世界でどれぐらい読まれているだろうか。ことの是非はさておき、現実にあることは確認しておくべきだろう。(おそらくあるのだろうと、私は思って見ていたのだが。)
無論、海賊版は違法である。しかし、適切な著作権料が支払われるとすると、その流通コストが上昇する。それは、貧しい国の人々がマンガを読めなくなることにつながる。貧しくても、スマホがあれば、マンガは読める、その程度の生活レベルの人が、世界に多くいることだろうと思う。そういう人たちを、マンガから排除することは、人間全体のことを考えて、どうなのだろうかと、私は思う。(その一方で、絶対に違法な海賊版は取り締まるべきである。それが、将来のためのよりよいマンガの発展のために重要である、という論理もあるとは思うが。)
日本の漫画、マンガ、の歴史をどこまでさかのぼって考えるか。NHKとしては、『べらぼう』の主人公の蔦屋重三郎の名前を出したいところだろう。しかし、もうちょっとさかのぼってみれば、江戸時代に挿絵入りの物語類が、多く出版されている。さらにさかのぼれば、中世の奈良絵本がある。さらにさかのぼれば、絵巻ということも考えなければならないかもしれない。
マンガでならBLを描くことができる。これは、今日の表現の世界において重要なことかと思う。イスラム世界の人たちも、これを読むことになる。(イスラムの教義では、同性愛は犯罪である。)
おそらくマンガというメディアや表現方法は、これから国家や民族や言語の壁を越えてひろがっていくだろう。何よりも、ことばが少ないので、翻訳するとしても、そう手間がかからない。これからは、AI翻訳の利用で、言語の壁は、どんどん低くなっていくにちがいない。絵というのは、見れば分かる、ということで、容易に文化の障壁を越えることが可能(かもしれない。)もちろん、文化による絵の表現の違いということは、あるにちがいないが。
見ていて興味深かったのは、外国語に翻訳された日本のマンガが、右から開く方式であったこと。これは、もう定着しているということなのだろうか。それから、オノマトペの部分が、絵と一緒になって、日本語(カタカナ)であったこと。オノマトペは、かなり翻訳しづらい部分かと思う。
外国でも、コミケをやっている。コスプレやコミケをふくめて、日本のマンガ文化というべきだろう。
さて、国立メディア芸術総合センター、これはいまどうなっているのだろうか。
2025年1月6日記
NHKスペシャル 新ジャポニズム 第1集MANGA わたしを解き放つ物語
今では普通にNHKでも、アニメを放送するようになっているので、若い人たちは、それが当たり前と思っているだろう。しかし、これも、さかのぼればいろいろと歴史がある。私が記憶する範囲で、NHKがアニメを本格的に放送しはじめたのは、『忍たま乱太郎』ぐらいになるだろうか。このころ、ちょうど我が家の子どもが小さかったので、一緒に見ていた。本も買った。朝日小学生新聞もとっていた。
かつて、手塚治虫の漫画でも、悪書と世間から非難された時代があった。大学生が漫画を読むことが、世の中の顰蹙をかう時代もあった。
今の私は、基本的には漫画は読まない。読まないと決めているのは、漫画の他にSFがある。本格ミステリは読む。(しかし、これもだんだん億劫になってきている。このごろは、Kindleで、西洋思想史の古典的著作の翻訳など読んでいる。これは、最高のエンタテイメントだと感じる。)
マンガの制作が、紙とペンの時代から、デジタルに移行したこと。また、ネット配信が普及したことで、大きく状況が変わったことはたしかである。
番組では一言も言っていなかったが、非常に重要なことは、海賊版のことである。デジタルの海賊版が、世界でどれぐらい読まれているだろうか。ことの是非はさておき、現実にあることは確認しておくべきだろう。(おそらくあるのだろうと、私は思って見ていたのだが。)
無論、海賊版は違法である。しかし、適切な著作権料が支払われるとすると、その流通コストが上昇する。それは、貧しい国の人々がマンガを読めなくなることにつながる。貧しくても、スマホがあれば、マンガは読める、その程度の生活レベルの人が、世界に多くいることだろうと思う。そういう人たちを、マンガから排除することは、人間全体のことを考えて、どうなのだろうかと、私は思う。(その一方で、絶対に違法な海賊版は取り締まるべきである。それが、将来のためのよりよいマンガの発展のために重要である、という論理もあるとは思うが。)
日本の漫画、マンガ、の歴史をどこまでさかのぼって考えるか。NHKとしては、『べらぼう』の主人公の蔦屋重三郎の名前を出したいところだろう。しかし、もうちょっとさかのぼってみれば、江戸時代に挿絵入りの物語類が、多く出版されている。さらにさかのぼれば、中世の奈良絵本がある。さらにさかのぼれば、絵巻ということも考えなければならないかもしれない。
マンガでならBLを描くことができる。これは、今日の表現の世界において重要なことかと思う。イスラム世界の人たちも、これを読むことになる。(イスラムの教義では、同性愛は犯罪である。)
おそらくマンガというメディアや表現方法は、これから国家や民族や言語の壁を越えてひろがっていくだろう。何よりも、ことばが少ないので、翻訳するとしても、そう手間がかからない。これからは、AI翻訳の利用で、言語の壁は、どんどん低くなっていくにちがいない。絵というのは、見れば分かる、ということで、容易に文化の障壁を越えることが可能(かもしれない。)もちろん、文化による絵の表現の違いということは、あるにちがいないが。
見ていて興味深かったのは、外国語に翻訳された日本のマンガが、右から開く方式であったこと。これは、もう定着しているということなのだろうか。それから、オノマトペの部分が、絵と一緒になって、日本語(カタカナ)であったこと。オノマトペは、かなり翻訳しづらい部分かと思う。
外国でも、コミケをやっている。コスプレやコミケをふくめて、日本のマンガ文化というべきだろう。
さて、国立メディア芸術総合センター、これはいまどうなっているのだろうか。
2025年1月6日記
「禁じられたモスクワ 経済制裁下の市民生活」 ― 2025-01-11
2025年1月11日 當山日出夫
BS世界のドキュメンタリー 「禁じられたモスクワ 経済制裁下の市民生活」
二〇二四年、フランスの制作。
今のロシアの様子をとらえたドキュメンタリーとしては、貴重なものだろう。日本のメディアは、もうロシアやモスクワからの報告を止めてしまったかのようである。よほど、大きな事件でもないかぎり、モスクワからの映像がテレビで映ることはない。同じように、ウクライナについても、報道は減っている。
見始めて、モスクワの富裕層が、ヌードデッサンの会で楽しんでいる場面があって、ちょっと驚いた。裸のモデルの女性がいて、それをスケッチブックに描いている。日本でも、昔は、そのような形式の店があったが、実質的に性風俗業であった。だが、モスクワの場合は、お金持ちの男性も女性も、楽しんでいる、という雰囲気である。
ロシアに経済制裁が科されていることになるのだが、その効果は、ほとんどないようである。少なくとも、モスクワの一般市民や、富裕層についてみれば、以前と同じ生活を送っていることになる。ただ、密輸(とは番組のなかでは言っていなかったが)の西側のブランド品は、高騰しているようだが。
レストランでも、食材やワインなどが潤沢にはいってきている。そのお客としては、中国人と言っていたが、中国人富裕層がモスクワに遊びに行っていても、まあ、今の世界は、そういう時代なんだろうなあ、と思うだけのことである。
ロシアにはロシアの民主主義のかたちがある。おそらく、プーチンが大統領に圧倒的な得票率で当選しても、それはそれなりに理屈のとおった感覚なのだろう。これを、不正選挙と感じるのは、欧米などの感じ方ということになるだろう。少なくとも、ソ連が崩壊してから、プーチンが人びとの生活を立て直してきた、というのは、生活に根ざした実感なのだろう。
もちろん、情報は統制されている。政府や軍に表立って反対できるということではない。人びとの口は硬い。だからといって、それで不幸な生活であるかというと、かならずしもそうとは言い切れないかもしれない。
ウクライナとの戦線をロシア側から取材して映像というのは、あるいは始めて見たかもしれない。特に目新しいものが映っていたということではない。登場していたのは、正規の軍ではなく、民間の軍事会社。ワグネルはなくなったようだが、それ以外の民間軍事会社が、それにとってかわっているということなのだろう。囚人を使っているという。
西欧のブランド企業の多くが、ロシアでの営業は止めているが、元の店舗のあった建物は維持し続けている。家賃を払い続けていることになる。休業するという体裁である。これは、いずれ、制裁解除なとなったときに、ビジネスを再開するために残してあるものになる。
さまざまな物資が、グレーマーケット、並行輸入、つまり、第三国を経由してロシアにもたらされている。海産物に言及したとき、なかに日本の名前も出てきていたが、どのようなものがロシアに、第三国経由で輸出されていることになるのだろうか。それが、どの国であっても、別におどろかないけれど。
番組のなかで言っていることとしては、ロシアの人びとは、戦争を肯定的に考えているようである。フランスの会社の取材であるということを意識してのことにはちがいないだろうが。
国際秩序という観点から考えれば、どうみても、ロシアが悪い。この戦争をロシアの勝利で終わらせてはならない。これは、多くの専門家の言っていることである。
だが、ロシアにはロシアの言い分があり、ロシア人にはロシア人としての、戦争のとらえ方がある、ということは理解しておいた方がいい。ロシア人だからといって、別に鬼畜であるわけではない。
プーチンも、ロシアという背景があって、それなりに合理的に判断してのことだったということは、いっていいだろう。(それは、世界の多くの国にとって、受け入れがたいものではあっても。)
映像を見ていると、画面に映っている自動車がどれも高級なものばかり、という印象であった。おそらくは、そのような地域を選んでの撮影だったということなのかもしれない。
どうでもいいようなことかもしれないが、息子を戦争でなくした女性がPCで、かつての映像を見ていたが、Windowsマシンで、グーグルクロームを使っているようだった。こういうのは、戦争の影響とは関係なく、もはやグローバルなことがらとして見なければならない。
2025年1月9日記
BS世界のドキュメンタリー 「禁じられたモスクワ 経済制裁下の市民生活」
二〇二四年、フランスの制作。
今のロシアの様子をとらえたドキュメンタリーとしては、貴重なものだろう。日本のメディアは、もうロシアやモスクワからの報告を止めてしまったかのようである。よほど、大きな事件でもないかぎり、モスクワからの映像がテレビで映ることはない。同じように、ウクライナについても、報道は減っている。
見始めて、モスクワの富裕層が、ヌードデッサンの会で楽しんでいる場面があって、ちょっと驚いた。裸のモデルの女性がいて、それをスケッチブックに描いている。日本でも、昔は、そのような形式の店があったが、実質的に性風俗業であった。だが、モスクワの場合は、お金持ちの男性も女性も、楽しんでいる、という雰囲気である。
ロシアに経済制裁が科されていることになるのだが、その効果は、ほとんどないようである。少なくとも、モスクワの一般市民や、富裕層についてみれば、以前と同じ生活を送っていることになる。ただ、密輸(とは番組のなかでは言っていなかったが)の西側のブランド品は、高騰しているようだが。
レストランでも、食材やワインなどが潤沢にはいってきている。そのお客としては、中国人と言っていたが、中国人富裕層がモスクワに遊びに行っていても、まあ、今の世界は、そういう時代なんだろうなあ、と思うだけのことである。
ロシアにはロシアの民主主義のかたちがある。おそらく、プーチンが大統領に圧倒的な得票率で当選しても、それはそれなりに理屈のとおった感覚なのだろう。これを、不正選挙と感じるのは、欧米などの感じ方ということになるだろう。少なくとも、ソ連が崩壊してから、プーチンが人びとの生活を立て直してきた、というのは、生活に根ざした実感なのだろう。
もちろん、情報は統制されている。政府や軍に表立って反対できるということではない。人びとの口は硬い。だからといって、それで不幸な生活であるかというと、かならずしもそうとは言い切れないかもしれない。
ウクライナとの戦線をロシア側から取材して映像というのは、あるいは始めて見たかもしれない。特に目新しいものが映っていたということではない。登場していたのは、正規の軍ではなく、民間の軍事会社。ワグネルはなくなったようだが、それ以外の民間軍事会社が、それにとってかわっているということなのだろう。囚人を使っているという。
西欧のブランド企業の多くが、ロシアでの営業は止めているが、元の店舗のあった建物は維持し続けている。家賃を払い続けていることになる。休業するという体裁である。これは、いずれ、制裁解除なとなったときに、ビジネスを再開するために残してあるものになる。
さまざまな物資が、グレーマーケット、並行輸入、つまり、第三国を経由してロシアにもたらされている。海産物に言及したとき、なかに日本の名前も出てきていたが、どのようなものがロシアに、第三国経由で輸出されていることになるのだろうか。それが、どの国であっても、別におどろかないけれど。
番組のなかで言っていることとしては、ロシアの人びとは、戦争を肯定的に考えているようである。フランスの会社の取材であるということを意識してのことにはちがいないだろうが。
国際秩序という観点から考えれば、どうみても、ロシアが悪い。この戦争をロシアの勝利で終わらせてはならない。これは、多くの専門家の言っていることである。
だが、ロシアにはロシアの言い分があり、ロシア人にはロシア人としての、戦争のとらえ方がある、ということは理解しておいた方がいい。ロシア人だからといって、別に鬼畜であるわけではない。
プーチンも、ロシアという背景があって、それなりに合理的に判断してのことだったということは、いっていいだろう。(それは、世界の多くの国にとって、受け入れがたいものではあっても。)
映像を見ていると、画面に映っている自動車がどれも高級なものばかり、という印象であった。おそらくは、そのような地域を選んでの撮影だったということなのかもしれない。
どうでもいいようなことかもしれないが、息子を戦争でなくした女性がPCで、かつての映像を見ていたが、Windowsマシンで、グーグルクロームを使っているようだった。こういうのは、戦争の影響とは関係なく、もはやグローバルなことがらとして見なければならない。
2025年1月9日記
「しろくまピース 命をめぐる25年の物語」 ― 2025-01-11
2025年1月11日 當山日出夫
しろくまピース 命をめぐる25年の物語
とべ動物園のピースのことについては、昨年(二〇二四)に「時をかけるテレビ」で再放送したものがあった。「ピース5歳〜日本初 ホッキョクグマ哺育物語〜」である。そのときに思ったことなど書いている。以下に転記しておく。
==============================
やまもも書斎記 2024年5月30日
2024年5月30日 當山日出夫
時をかけるテレビ ピース5歳〜日本初 ホッキョクグマ哺育物語〜
NHKの動物が登場する番組で、私が一番好きなのは、「ウチのどうぶつえん」である。金曜日の夕方、Eテレでやっている、短い番組である。動物園の人たちが撮った映像を編集して見せるということになっている。飼育員ならではの視点、あるいは、動物に対する接し方など、いろいろと考えるところがある。それから、「ザ・バックヤード」でも時々、動物園が取りあげられることがあるが、これも面白い。
そもそも動物園というものは、人間の身勝手で作ったものなので……という議論はあっていいと思う。だが、そこで現に生きている動物たちのことをどうするか、という発想も同時にあってしかるべきである。
この番組で感じることは、一つには、動物にどうつきあっていくかということの、現代の動物園の試行錯誤の一つとみることもできるが、それよりも、最も印象に残るのは、飼育員のホッキョクグマのピースに対する愛情である。人間は、これだけ愛情を持って動物と接することができるのか、その部分が感動的である。そして、この動物に対する愛情は、広く普遍性をもっている。人間が生きものを育てるというのはこういうことなのか、と再認識させられるところがある。無論、これは、人間にとっての赤ちゃんの子育てをふくめてのことである。
ともかく理屈はどうでも、小さいときのピースが可愛い。そして、現在、もう年取ったピースを見つめる飼育員の高市さんと、それを見つめかえすピースの姿になんともいえないものを感じる。(ただ、動物の姿にあまり感情移入することはよくないことなのかとも思うのだが。)
まさに今の時代にもう一度ふり返って見るのにふさわしい番組だったと思う。
2024年5月27日記
==============================
あれから二〇年が経過したことになる。
今の動物園の方針なら、人工哺育ということになっても、動物園内でのこととなるだおろう。ピースが生まれた二五年前なら、飼育員が自分の家に連れて帰って育てるということもあり得た。
いろいろと思うことは、あるけれども、何よりも生きていることの意味であり、そして、よりよく生きることである。最近のことばでいえば、ウェルビーングということを考えることになる。このことに、人間も動物も関係ないだろう。たまたま動物園で生きることになった動物の生き方を考えるということが、今の社会で人間がどのように生きることになるのか、それを反映するものになっている。これは、動物園というものの存在が、まさに人間の社会のあり方やさまざまな価値観を、時代の変化とともに映し出すものだからだろう。
このようなことをあらためて思ってはみるのだが、テレビを見ていて、小さいときのピースが道路を歩いたり、家のなかで子どもと一緒に寝ていたりするようすは、なんともいえず、かわいいとしかいいようがない。
2025年1月8日記
しろくまピース 命をめぐる25年の物語
とべ動物園のピースのことについては、昨年(二〇二四)に「時をかけるテレビ」で再放送したものがあった。「ピース5歳〜日本初 ホッキョクグマ哺育物語〜」である。そのときに思ったことなど書いている。以下に転記しておく。
==============================
やまもも書斎記 2024年5月30日
2024年5月30日 當山日出夫
時をかけるテレビ ピース5歳〜日本初 ホッキョクグマ哺育物語〜
NHKの動物が登場する番組で、私が一番好きなのは、「ウチのどうぶつえん」である。金曜日の夕方、Eテレでやっている、短い番組である。動物園の人たちが撮った映像を編集して見せるということになっている。飼育員ならではの視点、あるいは、動物に対する接し方など、いろいろと考えるところがある。それから、「ザ・バックヤード」でも時々、動物園が取りあげられることがあるが、これも面白い。
そもそも動物園というものは、人間の身勝手で作ったものなので……という議論はあっていいと思う。だが、そこで現に生きている動物たちのことをどうするか、という発想も同時にあってしかるべきである。
この番組で感じることは、一つには、動物にどうつきあっていくかということの、現代の動物園の試行錯誤の一つとみることもできるが、それよりも、最も印象に残るのは、飼育員のホッキョクグマのピースに対する愛情である。人間は、これだけ愛情を持って動物と接することができるのか、その部分が感動的である。そして、この動物に対する愛情は、広く普遍性をもっている。人間が生きものを育てるというのはこういうことなのか、と再認識させられるところがある。無論、これは、人間にとっての赤ちゃんの子育てをふくめてのことである。
ともかく理屈はどうでも、小さいときのピースが可愛い。そして、現在、もう年取ったピースを見つめる飼育員の高市さんと、それを見つめかえすピースの姿になんともいえないものを感じる。(ただ、動物の姿にあまり感情移入することはよくないことなのかとも思うのだが。)
まさに今の時代にもう一度ふり返って見るのにふさわしい番組だったと思う。
2024年5月27日記
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あれから二〇年が経過したことになる。
今の動物園の方針なら、人工哺育ということになっても、動物園内でのこととなるだおろう。ピースが生まれた二五年前なら、飼育員が自分の家に連れて帰って育てるということもあり得た。
いろいろと思うことは、あるけれども、何よりも生きていることの意味であり、そして、よりよく生きることである。最近のことばでいえば、ウェルビーングということを考えることになる。このことに、人間も動物も関係ないだろう。たまたま動物園で生きることになった動物の生き方を考えるということが、今の社会で人間がどのように生きることになるのか、それを反映するものになっている。これは、動物園というものの存在が、まさに人間の社会のあり方やさまざまな価値観を、時代の変化とともに映し出すものだからだろう。
このようなことをあらためて思ってはみるのだが、テレビを見ていて、小さいときのピースが道路を歩いたり、家のなかで子どもと一緒に寝ていたりするようすは、なんともいえず、かわいいとしかいいようがない。
2025年1月8日記
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