黒澤明『羅生門』2025-01-15

2025年1月15日 當山日出夫

黒澤明 『羅生門』

NHKがBSP4Kで修復版を放送したので見た。録画もしておいたが、これはリアルタイムで見た。つづけて、溝口健二や小津安二郎なども、放送があるらしい。これらについても、録画予約はしてある。

私が、『羅生門』を見たのは、慶應の学生のとき、日吉の教養のときだったと記憶する。そのころ、キャンパスのなかで、自主的な映画の上映会などがあったりした。(東京のいろんなところに名画座があり、フィルムセンターも京橋にあり、『ぴあ』が創刊されたころだった。)

高校生のとき、習った先生のひとりが、映画の研究者だった。五所平之助について著書をあらわしてもいた。そういう影響もあって、東京に出てから、映画はかなり見た。岩波ホールは何度も行った。

今となっては、名画座も『ぴあ』も岩波ホールも、過去の歴史である。

『羅生門』であるが、今の私の見方でみると……無論、テレビの4K映像としてであるが……フィルムのラチュチュード(今のデジタルカメラでいうならば、ダイナミックレンジ、明暗比をどれだけの幅で表現出来るかということ)の、限界めいっぱいを使った映像だと感じる。シャドーの部分が黒くつぶれてしまわず、ハイライトの部分が白くとんでしまわない、ぎりぎりの範囲で撮影してある。これは、フィルムの特性を完全に見極めてのことになる。特に、森の中のシーンは、どの場面も、中間調があまりない。暗い部分と明るいハイライトの部分と、まだらになって、その明暗の対立と、全体の構図が、見事である。これは、おそらくは、それまでの映画の手法からははみ出した映像の作り方だったということになるのだろう。

解説的にいえば、女性(京マチ子)が多襄丸(三船敏郎)に犯されるシーンで、女性が見上げた森の木々の間から太陽が見える……これは非常に有名なところになるが……こういうところは、旧来の映画の作り方からすると、画期的なところだったことになる。

場面として、都の羅生門のところの三人、検非違使の庭、森の中、ほとんどこれだけである。登場人物も少ない。役者は八人しか出てこない。こういうところも、かなり斬新なこころみだったのだろうと思う。

この映画、黒澤明の監督作品ということもあるが、宮川一夫のカメラの見事さ、ということで評価される作品である。

原作の、芥川龍之介の『藪の中』は、高校生ぐらいのときに読んだかと憶えている。その後、折に触れて読んだ。最近では、Kindle版の芥川龍之介の作品集で、小説のほとんどを読んだ。

話の筋は知っていることなのだが、はたしてこの映画で、真相はどうなのだろうか。最後の、木こり(志村喬)の話が最後の目撃証言、ということになるのかもしれないが、しかし、だからといって、それが真実であるとは言い切れない。事実としてどうであったかということは、ある程度は客観的にとらえることができるだろうが、その状況下におかれた三人の男女がそれぞれで、心のうちで何を感じていたかは、たぶん誰にも分からない。おそらく本人にも分からない。藪の中で何があったかということではなく、そこで人間が何を思ったのか、何を感じたのか、ということの心理の複雑さということが、この映画の描きたかったところかと思う。

また、羅生門での三人のやりとりについても、誰が正しいことを言っているということでもない。それぞれの立場で、思うところがある。

役者としては、京マチ子がとてもいい。(こんなことを書くと、一部の人たちからは非難されそうだが)女というものは、底知れない怖ろしさががある。そして美しい。昭和の映画女優とは、こんなに美人だったのか、と改めて認識することになる。

2025年1月12日記

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