『カムカムエヴリバディ』「1951-1962」2025-01-16

2025年1月16日 當山日出夫

『カムカムエヴリバディ』 「1951-1962」

このドラマは、BK(大阪)の制作で、秋からお正月をはさんで春までの放送である。お正月の前後は中断することになるので、再放送しても、ちょっと変則的にならざるをえない。同じことは、『カーネーション』でもあった。

ともかく、「安子編」が終わったことになる。

月曜日に、おじいちゃんの千吉に、椎茸が嫌いというのは英語でどういうのかと聞かれて、るいは「I hate mushroom」と答えた。ここで使った「hate」という単語を、今度は、母親の安子に対して使って「I hate you」と言うことになった。「hate」という単語は、初歩の英語の勉強で習うものではないかと思うが、「I don't like you」というよりはるかに強い拒絶の意思を示すことになる。

るいのことを思う安子の気持ちが強いだけに、そのるいに拒絶された安子の落胆が大きかったことになる。この気持ちの振れ幅の大きさを、短い時間のドラマのなかで見事に描いていたと感じる。

この週では他にもいろいろな人の思いが交錯する。

勇は安子のことを思っているが、安子は受け入れようとしない。その勇のことを、雪衣は思っているのだが、これは片思いである。さらに、その雪衣を思っているのが算太であるが、雪衣はまったく相手にしようとしない。いろいろな恋心が乱れるなかで、ロバートが安子に気持ちを伝え、結果としては、安子は、それを受け入れる。というよりも、るいに拒絶されて、日本からいなくなってしまいたかったというべきだろうか。

この時代の普通の感覚なら、安子が雉真の家に残って勇と再婚するというのが、当たり前のことだったろうと思う。そのような考え方が普通であるということを前提にして(特に、このような考え方を封建的と否定するのではなく)、安子の稔への思いと、るいへの愛情とから、るいの近くにいたいが、雉真の家を出たいという、矛盾した気持ちをかかえることになる。この矛盾した気持ちがあったからこそ、最終的に、ロバートとのアメリカ行きということになる、と考えることになる。

ところで、この週でうまい演出だと感じるのは、雪衣のこと。勇の傷の手当てをしに勇の部屋から出てきた姿をみると、帯の結び方が変わっている。勇と雪衣に何があったか想像するだけということになるが、ここはたくみな演出だったと感じるところである。

また、お金を持って算太が家出してしまうのだが、街中で窓ガラスに写った自分の姿を見て笑うシーンは、これもとてもうまい。演出としては、背景にある看板の文字が反対に写ることで、鏡像であることが分かるようになっているのだが、それが、街中で起こったこととしてごく自然に描かれている。

さて、次からるい編で、大阪に舞台が移る。

2025年1月15日記

Asia Insight 「地元住民が消える世界遺産の町 〜ラオス〜」2025-01-16

2025年1月16日 當山日出夫

Asia Insight 地元住民が消える世界遺産の町 〜ラオス〜

中国からラオスまで高速鉄道が開通して、多くの中国人観光客がやってくる。昆明からラオスまで、三〇〇〇円ほどだという。中国の中間層にとっては、気楽にいける海外旅行先ということになるのだろう。

仏教寺院があり、そこの僧たちは毎朝托鉢する。寺院の周囲のひとたちは、朝早くおきて食事を用意して、托鉢の僧たちに布施をする。そのようにして、これまで、この街の人たちは生きてきたし、寺院も維持されてきた。

それが、中国人観光客がやってきて、托鉢僧への布施の「体験」が、旅行のパッケージになっている。道ばたに並ぶほとんどの人が、観光客である。どう考えてみても、ちょっとおかしい、まちがっている、と思うのだけれども、しかし、これも時代の流れということなのかと思う。

寺院の周囲の民家は、のきなみホテルに立て直されてしまい、そこにすむ古くからの住民が激減している。やはり、これはどこかおかしいと思うべきだろう。

若い僧の考え方にも影響を与えている。寺から学校に通って、卒業したら、僧侶にはならず、仕事をするという。番組のなかでは、エアコンの修理業と言っていた。今のラオスの人びとの価値観としては、これが具体的にイメージできる職業ということなのだろうか。これも、見ていて、中国の経済圏に飲み込まれてしまうことが、若い人たちの夢を奪っているように思えてならない。(たしかに、中国との交易で国の経済の発展はあったのだろうが。)

ラオスの街角の看板は、他言語表示であったが、中国語の他に朝鮮語(ハングル表記)もあった。日本語がなかったのは、日本からの観光客は英語で分かるということなのだろうか。

2025年1月12日記

時をかけるテレビ「焼け跡からの再生〜長田区鷹取東地区の1年〜」2025-01-16

2025年1月16日 當山日出夫

時をかけるテレビ 焼け跡からの再生〜長田区鷹取東地区の1年〜

神戸の震災から三〇年ということで、いろいろと特集番組があるが、これもその一つ。

見て思うことはいろいろとある。

まず、きれいに四角く燃えている(適切な表現ではないかもしれないが)、これは、周囲の延焼を防ぐことを消防の目的として、今、燃えている建物は、燃やしてしまうということの結果になるだろう(無論、そのなかにいる人を救助することは当然のこととして)。道路を境目として、それ以上に火災の範囲が広がることを、目的としたということがあったことになる。

このようなことは、一般に起こっている火災の消火活動についても、同じだろうと思う。

三〇年前のことなのだが、今になって、どれぐらい変わっただろうか。おそらく、土地の区画整理という作業については、デジタル技術を使っての計画の立案や、シミュレーション、ということはできるだろう。しかし、個々の土地の所有者の合意形成のプロセスということになると、はたして、どれぐらい法的な整備がなされたのだろうか。その土地の所有者が、災害の犠牲になったとして、その権利を誰がどのように継承しているかの確認、そして、地域の再開発への合意、これがより円滑にすすめられるようになっている……という話しは、あまり聞かないと思う。災害が起こった後の、復興や再開発までふくめて、防災ということだと思う。

言うまでもないが、神戸の場合、地元や近隣自治体の経済的な基盤があった。商店を再開したとして、そこにはお客さんが来てくれる、ということがあった。働き口を探そうとした場合でも、近くに働くところがあった。(こういうことは、おそらく、能登半島の災害と大きく違うところであろう。)

お米屋さんで働くことになった女性の時給が七〇〇円であった。三〇年前のことである。今の日本で、最低賃金がようやく一〇〇〇円を超えるかどうか、ということが話題になる。この間の、日本の経済はいったいどうなっていたのだろうと、思うことになる。

気になるのは、取材した地区の区画整理ということが、具体的にどのように進められたのか、どういう地元からの意見などがあり、それにどう自治体としてこたえていったのか、ということがある。場合によっては、裁判ということもあったかもしれないが、そこではどのような判断が示されたのだろうか。こういう部分が、実際には、これから起こるであろう災害への備えとして、重要なこと、少なくとも、災害後の復旧について重要なことの一つであるにちがいない。

2025年1月15日記

「“冤罪”の深層〜警視庁公安部・内部音声の衝撃〜」2025-01-16

2025年1月16日 當山日出夫

NHKスペシャル “冤罪”の深層〜警視庁公安部・内部音声の衝撃〜

警察官が手柄(といっていいかどうかとは思うが)のために、事件をでっちあげて暴走した……ということだと、思わざるをえないことにはなるのだが、いろいろと思うことはある。

これは冤罪事件であると思うが、その一方で、あくまでも一般論としてということになるが、思うこともある。まず、組織と個人の関係である。この冤罪事件を、警察官個人のこととしていいのだろうか、という気がどうしてもする。組織としての警察の問題であり、冤罪を防げなかったことは、組織のあり方としての課題ではないだろうか。個人の判断は、間違うことがあるとして、それにブレーキをかけることができるものとしては、その組織のシステムである。なぜ、立件にむけて暴走したのかということと同時に、何故、それを止めることができなかったのか、という方向からの検証も必要にちがいない。この事件の場合、警察内部で待ったをかけることが出来なかった制度の要因があるとすれば、それも、いや、それこそが重要な問題である。番組では、ブレーキをかけようとしたが出来なかったという証言もあった。

冤罪事件については、すべからく担当した警察官が悪い、検察官が悪い、あるいは、裁判官が誤った……ということで、個人に責任をもとめていくことが、はたして法治国家の考え方として妥当だろうかと、思うところはある。多くの場合、マスコミの報道は、この方向に流れがちである。

組織というのは、個人の判断が誤らないように、チェックする体制を持っていなければならない。この場合には、この機能が適切に働かなかった、あるいは、システムとして不十分だった、ということになる。内部に、疑問視する声があっても、それが有効にはたらかなかった。

この冤罪事件の場合、実定法の解釈の強引さ、ということと、警察官のテクノロジーについての見識のなさ、これが相まって起こった事件と思える。(極端にいえば、その機械で本当に生物化学兵器が作れるのか、やってみればいいと思うのだが。そこまでの実験は、無理だろうなあ。)

ところで、この事件の背景には、中国の軍備増強ということがあることは確かであり、それへの警戒心が起こした冤罪事件であったことになる。技術と軍事ということについては、この事件のこととは別に、冷静に考えてみるべきことだとは思う。

2025年1月6日記

検察は不起訴としたようだが、担当した警察官にペナルティを与えて終わりにするのではなく、やはり、なぜそのような行為にはしったのか、組織として、なぜ止められなかったのか、という観点からの検証が必要だと考える。

2025年1月8日記