「人新世の地球に生きる 〜経済思想家・斎藤幸平 脱成長への葛藤〜」 ― 2025-01-22
2025年1月22日 當山日出夫
BSスペシャル 人新世の地球に生きる 〜経済思想家・斎藤幸平 脱成長への葛藤〜
斎藤幸平の『人新世の資本論』については、読んで書いたので、それを再掲載しておく。
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やまもも書斎記 2021年12月20日
斎藤幸平.『人新世の「資本論」』(集英社新書).集英社.2020
https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1035-a/
話題の本ということで読んでみることにした。結論からいうと、私は、この本には賛成しない。その理由を三つばかり書いてみる。
第一には、人間観である。
人間の社会というのは、そんなに善良なものなのであろうか。むしろ、野蛮状態というべきかもしれない。これがいいすぎならば、無秩序と混乱といってもいいだろう。既存の社会のシステムが崩壊した後に、どのような安定した社会を作ることができるか、その道筋について、具体的に何もふれていない。たとえば、現在の中東情勢など見ても、そんなに今後の国際情勢を楽観的に考えることはできないと思う。
第二には、社会観である。
3.5%の人が動くならならば、社会は変革するという。はたして、これが一般的にいえることなのだろうか。そして、重要なことだと思うのは、3.5%の人びとの行動で社会が変わってしまうならば、一般の民主的手続き……選挙であり多数決を原則とする議決である……これは、どうなるのだろうか。まあ、現在の民主的な手続きは、行き詰まりを見せているので、それに変わる代替手段があり得るということかもしれない。だが、それが一般的、普遍的に適用できるという見通しは、まだ無理だろうと思うがどうであろうか。
第三には、中国である。
この本の中には、中国のことがほとんど出てこない。問題視されているのは、日本や欧米の諸国である。しかし、実際の国際社会のなかで、これから中国の存在感が大きくなることが懸念される。気候変動について、中国の責任は大きい。では、その一党独裁専制国家のゆくすえを、どう考えるのか。これも、3.5%の人びとが行動すれば、体制変革が可能というのであろうか。
以上の三つばかりを書いてみた。
無論、この本から学ぶところはいくつかある。特に、始めの方の気候変動への危機感などは、最重要の課題というべきであろう。また、マルクスの思想についても、晩年のマルクスがどのように考えていたか、これはこれとして興味深い。
晩年のマルクスから学ぶことは多くあるにちがいない。しかし、そこで留意すべきは、マルクスの生きた時代の科学、技術のあり方、人びとの生活様式のあり方、これは、二一世紀の今日とは異なっていることである。この点を無視して、ただマルクスがこう考えたで、それをもってくればいいというものではあるまい。晩年のマルクスの主張から脱成長のコミュニズムというのは、短絡していると思わざるを得ない。少なくとも、それほど説得力のある議論とは感じられない。
また、どうして最後のところで、精神論になるのであろうか。このあたりも気になる論のはこびである。以前に読んだ白井聡の本でも、最後は精神論で頑張れで終わっていた。最後は精神論で頑張れで終わるしかないということは、どうもその論理全体が破綻しているとしか思えないのである。
他にもいろいろと思うことはあるが、一読に値する本ではあると思う。
2021年12月13日記
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この本が出てから数年になるが、斎藤幸平の言っていることが説得力が増したかというと、まったくそんなことはない。むしろ、破綻が目立ってきたというべきである。
たとえば、アメリカでの講演会で、フロアからの質問として、それは民主社会主義ではないのか、民主社会主義とどうちがうのか……と言われたのに対して、斎藤幸平はまともに答えることができていない。理想を繰り返すだけだった。
「脱成長」はたしかに、この問題に関心のある人にはうったえるところはある。だが、それは、すでに西欧文明社会において、ある程度以上の生活水準……民主的な国で、各種の行政サービスがあり、教育や医療や福祉などがそなわっており、日常の生活に不自由しない……の人びとにおいて、言えることである。自動車を止めて自転車にしようというのはいいが、日本でもちょっと地方にいけば、最寄りのコンビニまででも自動車で数十分はかかる、という地域はざらである。もし自動車を止めろというならば、こういう地域の人に対しても、説得力のある言い方を考えなければならない。(現代社会で、自動車を使わない生活というのは、めぐまれた都市部の生活者の贅沢でしかないことに、気づいていない。歩いていける店に商品があるのは、その背後で各種のロジスティクスが機能しているということが、まったくわかっていない。こういうのは詐欺的であるか、あるいは、馬鹿であるか、としかいいようがない。)
ビーガンであれば、地球環境を救うことが可能なのだろうか。場合によっては、そのための農作物の栽培によって、大きな環境への負荷になりかねないかもしれない。それでも、牛を飼育するよりマシであるというのなら、そのデータを示さなければならない。
かつてのイロコイ族のことを理想的に語るのいいのだが、それでは今の地球上に生きている人数十億人以上の人びとにとって、これからどのようなスタイルの生活をすればいいというのだろうか。
ドイツのことを先進的と紹介するのはいいが、そのドイツにおいて、移民政策の失敗ということも、これまでの政権への批判になっているはずである。どういう人びとが、地球上のどの地域で、どのような生活様式で暮らすのがいいのか……このことについての、総合的な観点がまったく欠如している。まったく説得力がない。(たしかに問題提起ではあるが。)
アメリカでトランプ大統領の再選となったが、このコアの支持層は、ラストベルトの忘れられた人びとである。もはやアメリカンドリームを信じることのできなくなった、ブルーカラーの人たちといっていいだろうか。この人たちに対して、MAGAは夢想である、これからは「脱成長」の時代です、と説得力を持って言えるのだろうか。
あるいは、中国の労働者階級、農民工というような人たち。この人たちも、中国の経済発展から取りのこされているといってもいいだろうか。この人たちに、もうこれ以上の経済成長は望んではならない、今のままで満足していなさい、と言えるのだろうか。(あるいは、中国で再び革命を起こして、富裕層を打倒して富の再配分をすればいいとでも言いたいのだろうか。社会の3.5パーセントの人が動けば、中国共産党はなくなって、中国の資本主義の暴走がとまり、民主的な国家になるとでも言いたいのだろうか。)
また、近年になって言われるようになった、テクノリバタリアン。こういう人たちが存在する今の世界を、具体的にどうしようというのか。プライベートジェットの利用を止めましょうというぐらいでは、何も言っていないのに等しい。
人新世が地質学上の年代として認定されなかったのは、学問的に人新世を明確に定義できなかったからであると私は理解している。学問的な議論と、政治的な主張を混同している。これは、研究者として(もし斎藤幸平が研究者であるならば)、理解が足りないというべきであろう。まずは、地質学の学問的判断について、考えるべきである。地質学においての学問的判断にクレームをつけるというのは、研究者ではなく活動家のすることである。
世界を解釈することではなく、世界を変えることが重要である、これは確かにそのとおりである。では、世界を変えるために、問題提起以上のことを、具体的に提言できているとは思えない。牛肉を食べないというのは、趣味の問題であっても、それで、世界を動かす議論が始まるのだろうか。マルクスは世界を変えた。今から見れば失敗であったが、社会主義国家というものが、存在する時代があった。では、脱成長世界は可能だろうか。
その他、いろいろと言いたいことはあるが、これぐらにしておく。
2025年1月21日記
BSスペシャル 人新世の地球に生きる 〜経済思想家・斎藤幸平 脱成長への葛藤〜
斎藤幸平の『人新世の資本論』については、読んで書いたので、それを再掲載しておく。
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やまもも書斎記 2021年12月20日
斎藤幸平.『人新世の「資本論」』(集英社新書).集英社.2020
https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1035-a/
話題の本ということで読んでみることにした。結論からいうと、私は、この本には賛成しない。その理由を三つばかり書いてみる。
第一には、人間観である。
人間の社会というのは、そんなに善良なものなのであろうか。むしろ、野蛮状態というべきかもしれない。これがいいすぎならば、無秩序と混乱といってもいいだろう。既存の社会のシステムが崩壊した後に、どのような安定した社会を作ることができるか、その道筋について、具体的に何もふれていない。たとえば、現在の中東情勢など見ても、そんなに今後の国際情勢を楽観的に考えることはできないと思う。
第二には、社会観である。
3.5%の人が動くならならば、社会は変革するという。はたして、これが一般的にいえることなのだろうか。そして、重要なことだと思うのは、3.5%の人びとの行動で社会が変わってしまうならば、一般の民主的手続き……選挙であり多数決を原則とする議決である……これは、どうなるのだろうか。まあ、現在の民主的な手続きは、行き詰まりを見せているので、それに変わる代替手段があり得るということかもしれない。だが、それが一般的、普遍的に適用できるという見通しは、まだ無理だろうと思うがどうであろうか。
第三には、中国である。
この本の中には、中国のことがほとんど出てこない。問題視されているのは、日本や欧米の諸国である。しかし、実際の国際社会のなかで、これから中国の存在感が大きくなることが懸念される。気候変動について、中国の責任は大きい。では、その一党独裁専制国家のゆくすえを、どう考えるのか。これも、3.5%の人びとが行動すれば、体制変革が可能というのであろうか。
以上の三つばかりを書いてみた。
無論、この本から学ぶところはいくつかある。特に、始めの方の気候変動への危機感などは、最重要の課題というべきであろう。また、マルクスの思想についても、晩年のマルクスがどのように考えていたか、これはこれとして興味深い。
晩年のマルクスから学ぶことは多くあるにちがいない。しかし、そこで留意すべきは、マルクスの生きた時代の科学、技術のあり方、人びとの生活様式のあり方、これは、二一世紀の今日とは異なっていることである。この点を無視して、ただマルクスがこう考えたで、それをもってくればいいというものではあるまい。晩年のマルクスの主張から脱成長のコミュニズムというのは、短絡していると思わざるを得ない。少なくとも、それほど説得力のある議論とは感じられない。
また、どうして最後のところで、精神論になるのであろうか。このあたりも気になる論のはこびである。以前に読んだ白井聡の本でも、最後は精神論で頑張れで終わっていた。最後は精神論で頑張れで終わるしかないということは、どうもその論理全体が破綻しているとしか思えないのである。
他にもいろいろと思うことはあるが、一読に値する本ではあると思う。
2021年12月13日記
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この本が出てから数年になるが、斎藤幸平の言っていることが説得力が増したかというと、まったくそんなことはない。むしろ、破綻が目立ってきたというべきである。
たとえば、アメリカでの講演会で、フロアからの質問として、それは民主社会主義ではないのか、民主社会主義とどうちがうのか……と言われたのに対して、斎藤幸平はまともに答えることができていない。理想を繰り返すだけだった。
「脱成長」はたしかに、この問題に関心のある人にはうったえるところはある。だが、それは、すでに西欧文明社会において、ある程度以上の生活水準……民主的な国で、各種の行政サービスがあり、教育や医療や福祉などがそなわっており、日常の生活に不自由しない……の人びとにおいて、言えることである。自動車を止めて自転車にしようというのはいいが、日本でもちょっと地方にいけば、最寄りのコンビニまででも自動車で数十分はかかる、という地域はざらである。もし自動車を止めろというならば、こういう地域の人に対しても、説得力のある言い方を考えなければならない。(現代社会で、自動車を使わない生活というのは、めぐまれた都市部の生活者の贅沢でしかないことに、気づいていない。歩いていける店に商品があるのは、その背後で各種のロジスティクスが機能しているということが、まったくわかっていない。こういうのは詐欺的であるか、あるいは、馬鹿であるか、としかいいようがない。)
ビーガンであれば、地球環境を救うことが可能なのだろうか。場合によっては、そのための農作物の栽培によって、大きな環境への負荷になりかねないかもしれない。それでも、牛を飼育するよりマシであるというのなら、そのデータを示さなければならない。
かつてのイロコイ族のことを理想的に語るのいいのだが、それでは今の地球上に生きている人数十億人以上の人びとにとって、これからどのようなスタイルの生活をすればいいというのだろうか。
ドイツのことを先進的と紹介するのはいいが、そのドイツにおいて、移民政策の失敗ということも、これまでの政権への批判になっているはずである。どういう人びとが、地球上のどの地域で、どのような生活様式で暮らすのがいいのか……このことについての、総合的な観点がまったく欠如している。まったく説得力がない。(たしかに問題提起ではあるが。)
アメリカでトランプ大統領の再選となったが、このコアの支持層は、ラストベルトの忘れられた人びとである。もはやアメリカンドリームを信じることのできなくなった、ブルーカラーの人たちといっていいだろうか。この人たちに対して、MAGAは夢想である、これからは「脱成長」の時代です、と説得力を持って言えるのだろうか。
あるいは、中国の労働者階級、農民工というような人たち。この人たちも、中国の経済発展から取りのこされているといってもいいだろうか。この人たちに、もうこれ以上の経済成長は望んではならない、今のままで満足していなさい、と言えるのだろうか。(あるいは、中国で再び革命を起こして、富裕層を打倒して富の再配分をすればいいとでも言いたいのだろうか。社会の3.5パーセントの人が動けば、中国共産党はなくなって、中国の資本主義の暴走がとまり、民主的な国家になるとでも言いたいのだろうか。)
また、近年になって言われるようになった、テクノリバタリアン。こういう人たちが存在する今の世界を、具体的にどうしようというのか。プライベートジェットの利用を止めましょうというぐらいでは、何も言っていないのに等しい。
人新世が地質学上の年代として認定されなかったのは、学問的に人新世を明確に定義できなかったからであると私は理解している。学問的な議論と、政治的な主張を混同している。これは、研究者として(もし斎藤幸平が研究者であるならば)、理解が足りないというべきであろう。まずは、地質学の学問的判断について、考えるべきである。地質学においての学問的判断にクレームをつけるというのは、研究者ではなく活動家のすることである。
世界を解釈することではなく、世界を変えることが重要である、これは確かにそのとおりである。では、世界を変えるために、問題提起以上のことを、具体的に提言できているとは思えない。牛肉を食べないというのは、趣味の問題であっても、それで、世界を動かす議論が始まるのだろうか。マルクスは世界を変えた。今から見れば失敗であったが、社会主義国家というものが、存在する時代があった。では、脱成長世界は可能だろうか。
その他、いろいろと言いたいことはあるが、これぐらにしておく。
2025年1月21日記
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