『べらぼう』「『雛形若菜』の甘い罠」2025-01-27

2025年1月27日 當山日出夫

『べらぼう』 『雛形若菜』の甘い罠

見ていてちょっと不自然だなと感じたのは、蔦屋重三郎が、江戸の本屋の事情を知らなかったことである。この時代、どの商売であっても、基本的に仲間内の独占と規制があった、というのは、この時代の人間にとっては当たり前のことのように思っていたのだが。それも、分野や業種によって違いはあっても、誰もが自由に商売を始められるということではなかっただろう。近代になってからの職業選択の自由ということの、以前の話しである。一般の歴史の知識としては、株仲間ということになる。ただ、江戸時代の出版業の場合、あつかう本の種類(戯作なのか、漢籍なのか、仏書なのか)によって、どのように分業化されていたのかということは、知らないのであるが。

吉原だけが御公儀が認めた場所で、売春ビジネスをを独占できる、これは蔦屋重三郎が、岡場所の取り締まりを主張したときの、理屈である。この理屈の延長に、江戸時代の同業者の結束ということもあることになると、思っているのだが、どうなのだろうか。

吉原が普通の世間とはかけ離れた価値観のところであり、と同時に、江戸時代の文化の凝縮したようなところであった、この相反する二面性というべきことが、このドラマでどう描かれるか、気になっているところである。大門をくぐれば、そこは別世界で、江戸市中の価値観から解放される……こういう側面もあったかと思っているのだが、このドラマでは、こういう方向からは描かないようである。

吉原の女郎が借金まみれであった、というのはそのとおりなのだろう。最大の幸福は、お金持ちに身請けされること、吉原から出ることだったと理解している。といって、忘八といわれる人たちが全部を搾取していたということでもなく、その周囲にいたいろんな職業の人たちの生活もあっただろう。ここは、吉原の経済学、ということが気になる。

錦絵……多色刷りの版画……が、この時代、どういう流通のルートがあったかということについては、どうだったのだろうか。このあたりのことは、もう少し説明があってもよかったところである。錦絵について、蔦屋重三郎が、制作コストのことについては知識があったが、流通ルートについては知らなかった、というのも、なんだか不自然である。

吉原の女郎の錦絵を売り出す、それの着ている着物の宣伝ということで、呉服屋と組んでビジネスにする……というアイデアであった。だが、これも、もしその商品がヒットすれば、簡単に増産できるというものではないはずである。反物の色や柄のデザインは、それを織るところから企画しないといけないから、そんなにすぐ注文が来て対応できるという性質のものではなかったはずである。とはいえ、こういう錦絵で宣伝になって売れると見込んで、作っておくということはあったかもしれない。

しかし、吉原の遊女の着ている着物だからといって、一般の素人の女性が着たがるということがあったのだろうか、という気はする。これが、歌舞伎役者が舞台で着た着物ということなら、まあ、そういうこともあったろうと思うのではあるが。そもそも、吉原の遊女のことを、江戸の一般の女性たちは、どう思っていたのだろうか。

どうでもいいことのようだが、浮世絵と着物、ということについていうならば、いわゆる春画において、基本的に男女が衣服をまとっているのが普通である、ということの意味も考えなければならないことになる。おそらく、浮世絵研究においては、研究されていることだろうと思うが。

女郎の錦絵を作るとして、まず、単色(墨だけ)で描いて、後から色を考えるというのは、どうだったのだろうか。錦絵としてプランを考えるならば、始めから色をふくめたデザインで考えることになるはずだが。

こういうあたりのことは、当時の出版や浮世絵の研究についての考証を経てのことなのだろうと思う。

平賀源内のやったことは、今でいえば有印公文書偽造となるだろうか。花押まで偽造したようだから、ニセモノのハンコを作ったようなものである。ドラマのなかで出てきた文書は、吉宗が書いて、自分で花押まで描いた、ということなのだろうか。平賀源内は多才な人物として知られているけれど、文書の偽造まで手がけていたことになる。

賢丸は、田沼意次のことを、足軽あがり、と馬鹿にしている。これは確かに史実としてそのとおりであるが、このあたりは、どのようにして田沼意次が権力の座についたのか、その過程と時代背景について、説明があってもいいところかと思って見ている。

唐丸は絵の才能がある。これは、後の蔦屋重三郎の仕事にかかわる伏線なのかなと思うけれど、これからどう展開することになるのだろうか。

『放屁論』が登場していた。平賀源内の戯作の代表作といっていいだろう。これを、蔦屋重三郎が知っているのはいいとしても、『解体新書』はどうだろうか。一部の医者には知られた本であったろうが、一般の庶民階層の人びとが、知識として知っているようなことはなかったと思う。今では、学校の教科書に出てくる本だから、子どもでも知っているけれど。

両国のあたりの、大道芸は面白かった。こういう人たちは、日本でもほんの数十年前までぐらいは、存在していたのだろうと思うが、今では見られなくなってしまっている。

平賀源内が考えた、蔦屋重三郎の堂号は、耕書堂、であった。最終的には、この名前をつかった本屋になる。どういう経緯で、これからそうなっていくかが、このドラマの楽しみということになる。

2025年1月26日記

ドキュメント72時間「冬の新潟 ドライブスルーの先に」2025-01-27

2025年1月27日 當山日出夫

ドキュメント72時間 冬の新潟 ドライブスルーの先に

見ていて何よりも気になったのは、この店のビジネスの方式である。

ドライブスルーがあるのはいいとしても、店内を見ると、接客の店員はいない。セルフで注文して支払いもすませて、自分の席に持って行って食べる。使っている食器は、プラスチックの使い捨て。水のコップもない。まあ、ショッピングセンターのフードコートの方式なのであるが、このような方式で、人件費などの経費を節約しないと、この地域でこの値段で商売するのは無理なのだろう。また、給料を上げたからといって、働いてくれる人もいなのかとも思える。全国的に、このようなスタイルの店がどんどん増えていくことになるだろう。昔ながらに、ウェイトレス(もう、このことばは死語である)が注文をきいて、コップの水を持ってきてくれるという方式の店舗は、贅沢というべきかもしれない。その他、タブレットで注文をして、ロボットが席まで料理を持ってくる、こういう店も、私の住んでいる近くにもある。

マッチングアプリで知り合った二人についても、今の時代は、こういう時代になったのだなあ、ということである。

長岡ぐらいの都市であっても、農業の後継者は難しいところがあるらしい。これは、日本全体としての、構造的な問題なので、どうしようもない。

この番組で描かれたような人びとの暮らしは、おそらく日本中のいろんな地方都市とその周辺に見られることであると思う。

ところで、焼きそばにミートソースをかけたものを「イタリアン」というのはいいとしても(私は、この番組で初めて知った)、普通に言うイタリア料理のことを、新潟の人は、何と言っているのだろうか。純然と、日本語学としての興味であるが。

2025年1月25日記

NHKスペシャル「ゲーム×人類 PARTⅠ 30億人の熱狂と未来」2025-01-27

2025年1月27日 當山日出夫

NHKスペシャル ゲーム×人類 PARTⅠ 30億人の熱狂と未来

今、私は、ゲームはしない。

半世紀前、学生だったころ、大学の授業が終わって仲間と大学近くの喫茶店に行くと、テーブルがゲーム機だった。テニスだったり、インベーダーだったり、という時代である。それから、子どもに最初に買ってやったのは、スーパーファミコンだった。それが、64になって、これはかなり使った。64で、マリオをプレーしてみたとき、たかが数万円にみたないお金で、これだけの3DCGの世界を体験できるのかと、正直、感動したものであった。だが、これ以降、ゲームからは遠ざかってしまっている。今、大きくなった子どもたちは、スイッチはそれぞれ自分用に持っている。無論、スマホでのゲームもしているだろうが、もはや、私の関知するところではない。

ゲーム市場が、三〇兆円になるというのは、そうなのかと思う。この巨額のお金のかなりは、配信のプラットフォーム企業……グーグルであったり、アップルであったり……に流れていってしまっているだろうとは思うが。

ブラジルのスラム街の貧しい少年が、ゲームのプレーヤーとして成功するというのは、今の時代ならではのことである。やや天邪鬼な見方かもしれないが、スラム街の少年が、夢はサッカー選手かゲームプレーヤーか、というのを見ると、現実には、スラム街から出ることの難しさを感じる。普通に手を動かして額に汗して地道に働くということでは、もはやスラム街からの脱出が不可能であるということを、身をもって知っているという印象をもってしまうのである。だからといって、ゲームを足がかりに社会的に成功を夢見ることが、悪いことだとは言えないのであるが。

カフカの『審判』や『城』を題材にしたゲームというのは、興味深い。ただ、カフカの作品は、そのテキストの批判というところから考えなければならない。現在では、史的批判版のテキストを使うのが、研究としては本筋である。日本でも、新しい翻訳が出るようになってきている。カフカの世界をゲームにするとして、そのなかへの没入感は、いったいどんなものなのだろうか。私が関心があるのは、『変身』をもしゲームにするとしたら、それはどのような「虫」として具体的に表現されることになるのだろうか、ということがある。これは、カフカの理解として重要なポイントかなと思っている。

インディーゲームとして、コーヒートークを紹介するのはいいと思うのだが、このゲームのことにふれて、LGBT+の人物を登場させるのは、いかにもNHKらしい作り方ではあるが、しかし、今の世の中で生きづらさをかかえて、居場所をもとめている人間として、こういう人を登場させるのは、どうかなと思う。これは、こういう人たちは、生きづらさをかかえているものだ、というステレオタイプの価値観を増幅することになるかと思うところでもある。いわゆる多様な価値観を受け入れるものとしてのゲームということを言いたいのだろうが、そこに、こういう人物を都合よく利用しているという印象を持ってしまうのである。

ゲームの中で登場する人間について、それが男性か女性か、いわゆる人種、というようなことがらについて、特に問題はないような作品を選んで取りあげていたのかという気もする。一般的に、世界を視野にいれた市場としては、PCに配慮することは、今の時代としては当然であろうが、一方で、それを嫌う人たち多くいる。嫌う人たち……それはいろんなカテゴリーがあるだろうが……を敵にして、倒していくようなゲームがあってもおかしくはない。こういう種類のゲームを配信することは、大手の配信サイトでは無理かもしれないが、そうではないサイトで、配信されることはあるだろう。これは、個人レベルでの思想信条の自由として認められるべきものなのか、あるいは、PCではないとして非難されるべきものなのか、グレーな領域かもしれない。差別意識を助長するということはあるにちがいないが。

ゲームが世界に広まっていくとき、そこに文化や宗教、言語などが障壁となるのか、あるいは、それを乗り越えていくものになるのか……視点のおきかたによって、見えるものは違ってくるだろう。

ロシアで開発の愛国心を涵養するゲーム。これを作る側と、拒否する側と、両方を登場させていたことは、NHKらしくバランスをとったということにはなるが、しかし、実際には、積極的にこのようなゲームを使って人びと(国民)の気持ちを操作しようということは、専制的な国家において有りうることである。この意味では、ロシアを取材することがギリギリの範囲だったのかとも思う。それを、ロシアは隠そうとしていないという意味では、ロシアにロシアの考え方があるということになる。(この延長で気になるのは、中国のことである。中国で人びとはいったいどんなゲームをしているのだろうか。)また、ロシアからキプロスに移ったというのも、考えるところがある。キプロスは、ある種の人たちにとっては楽園であろうが、同時に、無法地帯といってもいいかもしれない。キプロスで、ロシア政府の意向をうけたゲーム開発がなされているとしても驚くことではないだろう。

この番組のなかでは言及がなかったが、オンラインゲームのディスプレイの向こう側にいるのは、もはや人間であるとは限らない。AIであることが、ごく自然な時代になってきている。コーヒートークで、それで心が癒やされると感じる人がいるかもしれないが、これも、場合によってはAIに精神を操作されている、という時代になりつつある、といってもいいだろう。ことの是非もあるが、確実にそうなるだろうということは、たしかだろう。

2025年1月26日記