NHKスペシャル「ゲーム×人類 PARTⅠ 30億人の熱狂と未来」 ― 2025-01-27
2025年1月27日 當山日出夫
NHKスペシャル ゲーム×人類 PARTⅠ 30億人の熱狂と未来
今、私は、ゲームはしない。
半世紀前、学生だったころ、大学の授業が終わって仲間と大学近くの喫茶店に行くと、テーブルがゲーム機だった。テニスだったり、インベーダーだったり、という時代である。それから、子どもに最初に買ってやったのは、スーパーファミコンだった。それが、64になって、これはかなり使った。64で、マリオをプレーしてみたとき、たかが数万円にみたないお金で、これだけの3DCGの世界を体験できるのかと、正直、感動したものであった。だが、これ以降、ゲームからは遠ざかってしまっている。今、大きくなった子どもたちは、スイッチはそれぞれ自分用に持っている。無論、スマホでのゲームもしているだろうが、もはや、私の関知するところではない。
ゲーム市場が、三〇兆円になるというのは、そうなのかと思う。この巨額のお金のかなりは、配信のプラットフォーム企業……グーグルであったり、アップルであったり……に流れていってしまっているだろうとは思うが。
ブラジルのスラム街の貧しい少年が、ゲームのプレーヤーとして成功するというのは、今の時代ならではのことである。やや天邪鬼な見方かもしれないが、スラム街の少年が、夢はサッカー選手かゲームプレーヤーか、というのを見ると、現実には、スラム街から出ることの難しさを感じる。普通に手を動かして額に汗して地道に働くということでは、もはやスラム街からの脱出が不可能であるということを、身をもって知っているという印象をもってしまうのである。だからといって、ゲームを足がかりに社会的に成功を夢見ることが、悪いことだとは言えないのであるが。
カフカの『審判』や『城』を題材にしたゲームというのは、興味深い。ただ、カフカの作品は、そのテキストの批判というところから考えなければならない。現在では、史的批判版のテキストを使うのが、研究としては本筋である。日本でも、新しい翻訳が出るようになってきている。カフカの世界をゲームにするとして、そのなかへの没入感は、いったいどんなものなのだろうか。私が関心があるのは、『変身』をもしゲームにするとしたら、それはどのような「虫」として具体的に表現されることになるのだろうか、ということがある。これは、カフカの理解として重要なポイントかなと思っている。
インディーゲームとして、コーヒートークを紹介するのはいいと思うのだが、このゲームのことにふれて、LGBT+の人物を登場させるのは、いかにもNHKらしい作り方ではあるが、しかし、今の世の中で生きづらさをかかえて、居場所をもとめている人間として、こういう人を登場させるのは、どうかなと思う。これは、こういう人たちは、生きづらさをかかえているものだ、というステレオタイプの価値観を増幅することになるかと思うところでもある。いわゆる多様な価値観を受け入れるものとしてのゲームということを言いたいのだろうが、そこに、こういう人物を都合よく利用しているという印象を持ってしまうのである。
ゲームの中で登場する人間について、それが男性か女性か、いわゆる人種、というようなことがらについて、特に問題はないような作品を選んで取りあげていたのかという気もする。一般的に、世界を視野にいれた市場としては、PCに配慮することは、今の時代としては当然であろうが、一方で、それを嫌う人たち多くいる。嫌う人たち……それはいろんなカテゴリーがあるだろうが……を敵にして、倒していくようなゲームがあってもおかしくはない。こういう種類のゲームを配信することは、大手の配信サイトでは無理かもしれないが、そうではないサイトで、配信されることはあるだろう。これは、個人レベルでの思想信条の自由として認められるべきものなのか、あるいは、PCではないとして非難されるべきものなのか、グレーな領域かもしれない。差別意識を助長するということはあるにちがいないが。
ゲームが世界に広まっていくとき、そこに文化や宗教、言語などが障壁となるのか、あるいは、それを乗り越えていくものになるのか……視点のおきかたによって、見えるものは違ってくるだろう。
ロシアで開発の愛国心を涵養するゲーム。これを作る側と、拒否する側と、両方を登場させていたことは、NHKらしくバランスをとったということにはなるが、しかし、実際には、積極的にこのようなゲームを使って人びと(国民)の気持ちを操作しようということは、専制的な国家において有りうることである。この意味では、ロシアを取材することがギリギリの範囲だったのかとも思う。それを、ロシアは隠そうとしていないという意味では、ロシアにロシアの考え方があるということになる。(この延長で気になるのは、中国のことである。中国で人びとはいったいどんなゲームをしているのだろうか。)また、ロシアからキプロスに移ったというのも、考えるところがある。キプロスは、ある種の人たちにとっては楽園であろうが、同時に、無法地帯といってもいいかもしれない。キプロスで、ロシア政府の意向をうけたゲーム開発がなされているとしても驚くことではないだろう。
この番組のなかでは言及がなかったが、オンラインゲームのディスプレイの向こう側にいるのは、もはや人間であるとは限らない。AIであることが、ごく自然な時代になってきている。コーヒートークで、それで心が癒やされると感じる人がいるかもしれないが、これも、場合によってはAIに精神を操作されている、という時代になりつつある、といってもいいだろう。ことの是非もあるが、確実にそうなるだろうということは、たしかだろう。
2025年1月26日記
NHKスペシャル ゲーム×人類 PARTⅠ 30億人の熱狂と未来
今、私は、ゲームはしない。
半世紀前、学生だったころ、大学の授業が終わって仲間と大学近くの喫茶店に行くと、テーブルがゲーム機だった。テニスだったり、インベーダーだったり、という時代である。それから、子どもに最初に買ってやったのは、スーパーファミコンだった。それが、64になって、これはかなり使った。64で、マリオをプレーしてみたとき、たかが数万円にみたないお金で、これだけの3DCGの世界を体験できるのかと、正直、感動したものであった。だが、これ以降、ゲームからは遠ざかってしまっている。今、大きくなった子どもたちは、スイッチはそれぞれ自分用に持っている。無論、スマホでのゲームもしているだろうが、もはや、私の関知するところではない。
ゲーム市場が、三〇兆円になるというのは、そうなのかと思う。この巨額のお金のかなりは、配信のプラットフォーム企業……グーグルであったり、アップルであったり……に流れていってしまっているだろうとは思うが。
ブラジルのスラム街の貧しい少年が、ゲームのプレーヤーとして成功するというのは、今の時代ならではのことである。やや天邪鬼な見方かもしれないが、スラム街の少年が、夢はサッカー選手かゲームプレーヤーか、というのを見ると、現実には、スラム街から出ることの難しさを感じる。普通に手を動かして額に汗して地道に働くということでは、もはやスラム街からの脱出が不可能であるということを、身をもって知っているという印象をもってしまうのである。だからといって、ゲームを足がかりに社会的に成功を夢見ることが、悪いことだとは言えないのであるが。
カフカの『審判』や『城』を題材にしたゲームというのは、興味深い。ただ、カフカの作品は、そのテキストの批判というところから考えなければならない。現在では、史的批判版のテキストを使うのが、研究としては本筋である。日本でも、新しい翻訳が出るようになってきている。カフカの世界をゲームにするとして、そのなかへの没入感は、いったいどんなものなのだろうか。私が関心があるのは、『変身』をもしゲームにするとしたら、それはどのような「虫」として具体的に表現されることになるのだろうか、ということがある。これは、カフカの理解として重要なポイントかなと思っている。
インディーゲームとして、コーヒートークを紹介するのはいいと思うのだが、このゲームのことにふれて、LGBT+の人物を登場させるのは、いかにもNHKらしい作り方ではあるが、しかし、今の世の中で生きづらさをかかえて、居場所をもとめている人間として、こういう人を登場させるのは、どうかなと思う。これは、こういう人たちは、生きづらさをかかえているものだ、というステレオタイプの価値観を増幅することになるかと思うところでもある。いわゆる多様な価値観を受け入れるものとしてのゲームということを言いたいのだろうが、そこに、こういう人物を都合よく利用しているという印象を持ってしまうのである。
ゲームの中で登場する人間について、それが男性か女性か、いわゆる人種、というようなことがらについて、特に問題はないような作品を選んで取りあげていたのかという気もする。一般的に、世界を視野にいれた市場としては、PCに配慮することは、今の時代としては当然であろうが、一方で、それを嫌う人たち多くいる。嫌う人たち……それはいろんなカテゴリーがあるだろうが……を敵にして、倒していくようなゲームがあってもおかしくはない。こういう種類のゲームを配信することは、大手の配信サイトでは無理かもしれないが、そうではないサイトで、配信されることはあるだろう。これは、個人レベルでの思想信条の自由として認められるべきものなのか、あるいは、PCではないとして非難されるべきものなのか、グレーな領域かもしれない。差別意識を助長するということはあるにちがいないが。
ゲームが世界に広まっていくとき、そこに文化や宗教、言語などが障壁となるのか、あるいは、それを乗り越えていくものになるのか……視点のおきかたによって、見えるものは違ってくるだろう。
ロシアで開発の愛国心を涵養するゲーム。これを作る側と、拒否する側と、両方を登場させていたことは、NHKらしくバランスをとったということにはなるが、しかし、実際には、積極的にこのようなゲームを使って人びと(国民)の気持ちを操作しようということは、専制的な国家において有りうることである。この意味では、ロシアを取材することがギリギリの範囲だったのかとも思う。それを、ロシアは隠そうとしていないという意味では、ロシアにロシアの考え方があるということになる。(この延長で気になるのは、中国のことである。中国で人びとはいったいどんなゲームをしているのだろうか。)また、ロシアからキプロスに移ったというのも、考えるところがある。キプロスは、ある種の人たちにとっては楽園であろうが、同時に、無法地帯といってもいいかもしれない。キプロスで、ロシア政府の意向をうけたゲーム開発がなされているとしても驚くことではないだろう。
この番組のなかでは言及がなかったが、オンラインゲームのディスプレイの向こう側にいるのは、もはや人間であるとは限らない。AIであることが、ごく自然な時代になってきている。コーヒートークで、それで心が癒やされると感じる人がいるかもしれないが、これも、場合によってはAIに精神を操作されている、という時代になりつつある、といってもいいだろう。ことの是非もあるが、確実にそうなるだろうということは、たしかだろう。
2025年1月26日記
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