ねほりんぱほりん「記憶をなくした人」 ― 2025-01-29
2025年1月29日 當山日出夫
ねほりんぱほりん 「記憶をなくした人」
再放送である。最初の放送は、2021年12月10日
学問的に考えると、脳科学の問題であり、精神医学の問題ということになるが、同時に哲学の問題でもある。さらには、言語学としても興味深い(というような言い方は失礼かもしれないが。)
記憶喪失ということは、ことばとして知っていることなのだが、実際にそのようになった人の具体例ということに、接することはない。これも、ひょっとして日常的に存在する人であったりもするかもしれないのだが、そうであっても、自分から自らが記憶喪失であるとは言い出すことはないだろう。
あることをきっかけにして、それ以前のことを忘れてしまう。この場合、それ以降、新しいことでも記憶として定着しにくくなる、ということである。おそらく、これは、脳の中で記憶に関係するメカニズムに障害があるということになるかと思うが、専門家の知見としては、どう考えることになるのだろうか。
過去のことを忘れるというが、日常的な生活にかかわることは忘れることがない。それだけ、深いところで人間の記憶(といっていいのだろうか)にしまい込まれた身体動作というものがあることになる。だが、これも、症状によっては、忘れてしまうことがあるらしい。
言語も忘れてしまうことがあるのだろうか。この場合、記憶喪失、というよりも、失語症ということで、言語学としては考えることになるだろうと思うのだが、言語と記憶との関係は、現代の脳科学では、どのように考えられているのだろうか。
母語として習得した言語は、「わすれる」ということがあるのだろうか。構造主義的な言語観では、言語によって世界を見ていることになる。言語を失えば、世界の認識の枠組みを失うということになる……こういう理解でいいだろうか。
この回で登場してきていた人の場合、まわりの家族が理解がありサポートしてくれたということがあった。しかし、それがないと、うまく社会生活に対応できない。というよりも、まず、自分自身が何者であるのかの感覚がないままで生きなければならなくなる。これは、かなり人間として厳しいことになる。こういう事例について、現代の社会で、どのようなサポート体制があるのだろうか、ということは気になるところである。
やはり最後に思うことは、自分が自分であるということは、自分自身の意識(記憶をふくめて)の連続性であると同時に、周囲の人間とともに構築した関係の連続性にささえられている部分が大きいということになるだろうか。
2025年1月26日記
ねほりんぱほりん 「記憶をなくした人」
再放送である。最初の放送は、2021年12月10日
学問的に考えると、脳科学の問題であり、精神医学の問題ということになるが、同時に哲学の問題でもある。さらには、言語学としても興味深い(というような言い方は失礼かもしれないが。)
記憶喪失ということは、ことばとして知っていることなのだが、実際にそのようになった人の具体例ということに、接することはない。これも、ひょっとして日常的に存在する人であったりもするかもしれないのだが、そうであっても、自分から自らが記憶喪失であるとは言い出すことはないだろう。
あることをきっかけにして、それ以前のことを忘れてしまう。この場合、それ以降、新しいことでも記憶として定着しにくくなる、ということである。おそらく、これは、脳の中で記憶に関係するメカニズムに障害があるということになるかと思うが、専門家の知見としては、どう考えることになるのだろうか。
過去のことを忘れるというが、日常的な生活にかかわることは忘れることがない。それだけ、深いところで人間の記憶(といっていいのだろうか)にしまい込まれた身体動作というものがあることになる。だが、これも、症状によっては、忘れてしまうことがあるらしい。
言語も忘れてしまうことがあるのだろうか。この場合、記憶喪失、というよりも、失語症ということで、言語学としては考えることになるだろうと思うのだが、言語と記憶との関係は、現代の脳科学では、どのように考えられているのだろうか。
母語として習得した言語は、「わすれる」ということがあるのだろうか。構造主義的な言語観では、言語によって世界を見ていることになる。言語を失えば、世界の認識の枠組みを失うということになる……こういう理解でいいだろうか。
この回で登場してきていた人の場合、まわりの家族が理解がありサポートしてくれたということがあった。しかし、それがないと、うまく社会生活に対応できない。というよりも、まず、自分自身が何者であるのかの感覚がないままで生きなければならなくなる。これは、かなり人間として厳しいことになる。こういう事例について、現代の社会で、どのようなサポート体制があるのだろうか、ということは気になるところである。
やはり最後に思うことは、自分が自分であるということは、自分自身の意識(記憶をふくめて)の連続性であると同時に、周囲の人間とともに構築した関係の連続性にささえられている部分が大きいということになるだろうか。
2025年1月26日記
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