ダークサイドミステリー「悪徳の作家サド 闇の哲学〜危険すぎる“自由とは何か?”〜」 ― 2025-01-31
2025年1月31日 當山日出夫
ダークサイドミステリー 悪徳の作家サド 闇の哲学〜危険すぎる“自由とは何か?”〜
この番組はBSだから放送できるのだろう。これをNHKでも総合では無理だろうなあ、と思う。
マルキ・ド・サドの名前は知っているが、その書いたもの(日本語訳)を読んだことはない。かつて、渋澤龍彦がその作品の翻訳などしている。もう今となっては、渋澤龍彦も過去の人になってしまったかと、思わないでもない。
人間の自由を最大限に追求するならば、どういうことがいえることになるか……そこのところを、とことん考えた人であることは確かであろう。美徳と悪徳について、なんであるのかということも、深く考えることになる。
これは、今の社会においては、二つの意味で興味ぶかい。
一つには、近年になっていわれるようになった、テクノ・リバタリアン、という考え方である。最低限のルールは守るべきだとしながらも、テクノロジーと富の独占によって、自由にふるまおうとする、と理解していいだろうか。人間は、どこまで社会の規範から自由でありうるのか、現代における挑戦の一つのあり方であるともいえるだろう。
果たして人間は、本当に自由なのだろうか。近代的な啓蒙思想は、人間の自由意志を尊重する。人間は本来的に自由なものであり、その結果としての、社会における自由であり平等であり、そして、国家である、というのが大きな枠組みということになるだろう。
だが、近年の行動科学などの立場からは、そんなに人間は自由にものを考えることはできない、判断できない、選択できない、ということが言われている。これは、たぶんそのとおりなのだろうと思う。
サド自身がいくら自由を追求したとしても、そこには、神、あるいは、神の否定ということを介在させての人間の自由ということになる。そもそも、唯一一神教信仰の無い歴史と文化……たとえば日本など……において、その考え方が、そのまま通用するということはないはずである。
だが、社会的規範やルール、道徳などから自由でありたい、ということは、かなり普遍性を持っていえることではあるだろう。
第二の点は、番組の最後に言われていたことだが、社会はタブーを生み出すものである、ということをどう考えるか、である。現代の社会は、多様性の尊重といいながら、タブーに満ちている。例えば、ある種の性的指向(たとえば同性愛)は絶対に否定されてはならないが、一方で、別の種類の性的指向(たとえば小児性愛)は絶対に許されないものとして許容されない。人間は、その性的指向を自分で選ぶことができるものなのか、あるいは、できないものなのか、というところから始まって議論しなければならないはずだが、そのようなことを考えることすら拒否するところがある。この意味では、現代社会はきわめて不寛容である。
ざっと以上のようなことを思ってみる。
番組のなかでいわれていたこととして、悪徳のことばを積み重ねていくと、逆に、そのことばから自由になっていく……これは、確かにそういう側面があるだろうと思う。これは、文学とことばの想像力ということの本質にかかわる問題である。
人間は本来的に善であるのか、正義とは何であるのか、あるいは、表現の自由とは何か、悪とは何か、ということを考えるとき、サドのことを思い返してみることは意義があるにちがいない。
2025年1月28日記
ダークサイドミステリー 悪徳の作家サド 闇の哲学〜危険すぎる“自由とは何か?”〜
この番組はBSだから放送できるのだろう。これをNHKでも総合では無理だろうなあ、と思う。
マルキ・ド・サドの名前は知っているが、その書いたもの(日本語訳)を読んだことはない。かつて、渋澤龍彦がその作品の翻訳などしている。もう今となっては、渋澤龍彦も過去の人になってしまったかと、思わないでもない。
人間の自由を最大限に追求するならば、どういうことがいえることになるか……そこのところを、とことん考えた人であることは確かであろう。美徳と悪徳について、なんであるのかということも、深く考えることになる。
これは、今の社会においては、二つの意味で興味ぶかい。
一つには、近年になっていわれるようになった、テクノ・リバタリアン、という考え方である。最低限のルールは守るべきだとしながらも、テクノロジーと富の独占によって、自由にふるまおうとする、と理解していいだろうか。人間は、どこまで社会の規範から自由でありうるのか、現代における挑戦の一つのあり方であるともいえるだろう。
果たして人間は、本当に自由なのだろうか。近代的な啓蒙思想は、人間の自由意志を尊重する。人間は本来的に自由なものであり、その結果としての、社会における自由であり平等であり、そして、国家である、というのが大きな枠組みということになるだろう。
だが、近年の行動科学などの立場からは、そんなに人間は自由にものを考えることはできない、判断できない、選択できない、ということが言われている。これは、たぶんそのとおりなのだろうと思う。
サド自身がいくら自由を追求したとしても、そこには、神、あるいは、神の否定ということを介在させての人間の自由ということになる。そもそも、唯一一神教信仰の無い歴史と文化……たとえば日本など……において、その考え方が、そのまま通用するということはないはずである。
だが、社会的規範やルール、道徳などから自由でありたい、ということは、かなり普遍性を持っていえることではあるだろう。
第二の点は、番組の最後に言われていたことだが、社会はタブーを生み出すものである、ということをどう考えるか、である。現代の社会は、多様性の尊重といいながら、タブーに満ちている。例えば、ある種の性的指向(たとえば同性愛)は絶対に否定されてはならないが、一方で、別の種類の性的指向(たとえば小児性愛)は絶対に許されないものとして許容されない。人間は、その性的指向を自分で選ぶことができるものなのか、あるいは、できないものなのか、というところから始まって議論しなければならないはずだが、そのようなことを考えることすら拒否するところがある。この意味では、現代社会はきわめて不寛容である。
ざっと以上のようなことを思ってみる。
番組のなかでいわれていたこととして、悪徳のことばを積み重ねていくと、逆に、そのことばから自由になっていく……これは、確かにそういう側面があるだろうと思う。これは、文学とことばの想像力ということの本質にかかわる問題である。
人間は本来的に善であるのか、正義とは何であるのか、あるいは、表現の自由とは何か、悪とは何か、ということを考えるとき、サドのことを思い返してみることは意義があるにちがいない。
2025年1月28日記
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