BS世界のドキュメンタリー「インビジブル・ネーション 蔡英文が語る台湾」 ― 2025-02-05
2025年2月6日 當山日出夫
BS世界のドキュメンタリー 「インビジブル・ネーション 蔡英文が語る台湾」
2023年、台湾、アメリカの制作。
こういうような番組は、もう日本のテレビ局では無理なのだろうか。私には、そんなに過激に中国を刺激しているとも、見えないのだけれども。今の台湾の人たちが、何を思っているのか、その実情を細やかに描いていると感じる。
私の世代だと、国連の代表が、中華民国(台湾)から、中華人民共和国(いわゆる今の中国)に変わったときのことは、ニュースで記憶している。私自身の感覚としては、台湾というのは、独立した国家であると思う。また、そうあるべきである。
中国共産党が、一つの中国にこだわるのは、それなりの理由があってのことではあるが、しかし、それであからまに武力で恫喝するような行為は、どうかなと思う。懸念すべきは、いわゆる台湾有事であるが、これは、すでに始まっているというのが、私の認識である。ハイブリッド戦争……ということであるなら、すでに戦時中である。ただ、実際にミサイルが飛んだり、流血の事態になっていないだけである。無論、台湾有事は、日本にとってもおおごとである。台湾周辺の制海権、制空権を考えるならば、日本の領土が範囲内に入ること、戦場になることは、理の当然である。
台湾は、民主的な国家であり、経済的に成功している、ということは誰しもが認めざるをえないことであるにちがいない。この民主的で経済的に成功、ということが、中国共産党にとっては、もっとも気に入らないポイントになるのだろうけれど。
歴史的に、台湾は、中国のものだったということはない……おそらく、学問的にはこのことが正しい。だが、中国では、学問的正確さよりも、政治が優先する。
ただ、この番組のなかで言っていなかったことは、台湾にもともとからいた人びとのことである。いわゆる先住民族、少数民族であるが、これらの人びとをふくめて、現在の台湾の政府を支持している、ということが重要なことになるかと思う。
革命を経ずに民主化したということについては、韓国も同様である。(韓国についていえば、その独立は、日本の敗戦ということでもたらされたものだし、朝鮮戦争の後の軍事政権からの民主化も、革命があってのことではない。このあたりが、日本に対する屈折した心情ということになるのだろうと思っている。)
番組のなかで、習近平が、中国はこれまでに他民族を支配したりしたことはないと言っていたシーンが映っていたが、まさか、これを額面通りに受けとめる人はいないはずである。中国の歴史は、幾多の民族の治乱興亡の歴史だと思っている。中国の今の政権は、こんなことを白々しく堂々と言うということが、印象づけられることになる。そして、このことは、かつての国民党の時代の歴史を残そうとしている、今の台湾の姿と対比されることになる。
台湾とアメリカの制作だが、映像が非常にいい。また、蔡英文が魅力的に描かれている。こういう作り方もあっていいと思う。
2025年1月30日記
BS世界のドキュメンタリー 「インビジブル・ネーション 蔡英文が語る台湾」
2023年、台湾、アメリカの制作。
こういうような番組は、もう日本のテレビ局では無理なのだろうか。私には、そんなに過激に中国を刺激しているとも、見えないのだけれども。今の台湾の人たちが、何を思っているのか、その実情を細やかに描いていると感じる。
私の世代だと、国連の代表が、中華民国(台湾)から、中華人民共和国(いわゆる今の中国)に変わったときのことは、ニュースで記憶している。私自身の感覚としては、台湾というのは、独立した国家であると思う。また、そうあるべきである。
中国共産党が、一つの中国にこだわるのは、それなりの理由があってのことではあるが、しかし、それであからまに武力で恫喝するような行為は、どうかなと思う。懸念すべきは、いわゆる台湾有事であるが、これは、すでに始まっているというのが、私の認識である。ハイブリッド戦争……ということであるなら、すでに戦時中である。ただ、実際にミサイルが飛んだり、流血の事態になっていないだけである。無論、台湾有事は、日本にとってもおおごとである。台湾周辺の制海権、制空権を考えるならば、日本の領土が範囲内に入ること、戦場になることは、理の当然である。
台湾は、民主的な国家であり、経済的に成功している、ということは誰しもが認めざるをえないことであるにちがいない。この民主的で経済的に成功、ということが、中国共産党にとっては、もっとも気に入らないポイントになるのだろうけれど。
歴史的に、台湾は、中国のものだったということはない……おそらく、学問的にはこのことが正しい。だが、中国では、学問的正確さよりも、政治が優先する。
ただ、この番組のなかで言っていなかったことは、台湾にもともとからいた人びとのことである。いわゆる先住民族、少数民族であるが、これらの人びとをふくめて、現在の台湾の政府を支持している、ということが重要なことになるかと思う。
革命を経ずに民主化したということについては、韓国も同様である。(韓国についていえば、その独立は、日本の敗戦ということでもたらされたものだし、朝鮮戦争の後の軍事政権からの民主化も、革命があってのことではない。このあたりが、日本に対する屈折した心情ということになるのだろうと思っている。)
番組のなかで、習近平が、中国はこれまでに他民族を支配したりしたことはないと言っていたシーンが映っていたが、まさか、これを額面通りに受けとめる人はいないはずである。中国の歴史は、幾多の民族の治乱興亡の歴史だと思っている。中国の今の政権は、こんなことを白々しく堂々と言うということが、印象づけられることになる。そして、このことは、かつての国民党の時代の歴史を残そうとしている、今の台湾の姿と対比されることになる。
台湾とアメリカの制作だが、映像が非常にいい。また、蔡英文が魅力的に描かれている。こういう作り方もあっていいと思う。
2025年1月30日記
100分de名著「デュルケーム“社会分業論” (1)個人化/孤立化の時代に向き合う」 ― 2025-02-05
2025年2月6日 當山日出夫
100分de名著 デュルケーム“社会分業論” (1)個人化/孤立化の時代に向き合う
デュルケームの名前は、知っているのだが、近代の社会学の祖という程度の知識しかもっていない。
時代の背景として、一九世紀から二〇世紀にかけての近代ヨーロッパというものを、歴史的に考えないといけないだろう、ということは分かる。近代的な科学的な思考がひろまり、都市部における近代的市民というものが成立してきた時代である。番組のなかでは、コッホやダーウィンやマリ・キュリーなどが出てきていたが、そのなかにマルクスやウェーバー、それから、フロイトなどをふくめてもいいかもしれない。
社会にあって人間を拘束する何かがあるのであり、それを社会的事実として客観的にモノとして観察する……たしかに、そのとおりである。
ただ、これも、現代の価値観からするならば、それを観察する自分自身が、その歴史的文化的文脈のなかに存在する人間なのであって、ということをどう考えるのか……ここのところが問題になるはずである。逆にいえば、デュルケームの時代には、単純素朴に社会的事象について、客観的に観察が可能ということが、信じることができた時代であった、ということになる。
社会と個人ということだが、ヨーロッパでもこの時代は、まだ、社会の共同体としての感覚が、まだ強く生きのこっていた時代だろうとは思う。人間が帰属する伝統的社会に帰ろうと思えば、それがまだ存在していた時代でもあったといえるかもしれない。
2025年2月4日記
100分de名著 デュルケーム“社会分業論” (1)個人化/孤立化の時代に向き合う
デュルケームの名前は、知っているのだが、近代の社会学の祖という程度の知識しかもっていない。
時代の背景として、一九世紀から二〇世紀にかけての近代ヨーロッパというものを、歴史的に考えないといけないだろう、ということは分かる。近代的な科学的な思考がひろまり、都市部における近代的市民というものが成立してきた時代である。番組のなかでは、コッホやダーウィンやマリ・キュリーなどが出てきていたが、そのなかにマルクスやウェーバー、それから、フロイトなどをふくめてもいいかもしれない。
社会にあって人間を拘束する何かがあるのであり、それを社会的事実として客観的にモノとして観察する……たしかに、そのとおりである。
ただ、これも、現代の価値観からするならば、それを観察する自分自身が、その歴史的文化的文脈のなかに存在する人間なのであって、ということをどう考えるのか……ここのところが問題になるはずである。逆にいえば、デュルケームの時代には、単純素朴に社会的事象について、客観的に観察が可能ということが、信じることができた時代であった、ということになる。
社会と個人ということだが、ヨーロッパでもこの時代は、まだ、社会の共同体としての感覚が、まだ強く生きのこっていた時代だろうとは思う。人間が帰属する伝統的社会に帰ろうと思えば、それがまだ存在していた時代でもあったといえるかもしれない。
2025年2月4日記
カラーでよみがえる映像の世紀「(1)20世紀の幕開け」 ― 2025-02-05
2025年2月6日 當山日出夫
カラーでよみがえる映像の世紀 (1)20世紀の幕開け 〜カメラは歴史の断片をとらえ始めた〜
「映像の世紀」が放送が始まったのは、一九九五年、ということは、リュミエール兄弟によって映画が作られてから、一〇〇年後のことということになる。一九九五年のころに、こういう番組を作るということは、第一には、こんな珍しい過去の映像が残っていたのか、という驚きにあった。その後、このシリーズは、全部を見たということはなかったが、気のつくかぎりは見ていた。そして、「映像の世紀」「新・映像の世紀」「映像の世紀プレミアム」とつづき、数年前に、これらをまとめて順番に再放送していったのは、全部見た。この後に、今の「映像の世紀バタフライエフェクト」になって、これはたぶん全部見ていると思う。
「映像の世紀」シリーズで、カラー化するのは、これが始めてではない。しばらく前に、どの回であったかは憶えていないが、カラー化したのを放送したのを憶えている。
私は、基本的には、こういうカラー化には反対である。記録映像は、その当時の技術で何が記録できたか、ということが重要なことの一つである。その時代の技術で出来なかったことを、今の技術で再現してみてもあまり意味がないと考える。しかし、それを分かったうえで見ると、映像により説得力があるのは事実であるが。
これも、今回の企画のように、第二次世界大戦ごろまでが、かろうじて意味のある時代ということになる。一九四〇年ごろになると、カラーフィルムが実用化されるので、カラーで残る映像が存在するようになる。そうすると、その時代にあって貴重なカラーフィルムを使って、何を撮ったかということの選択が、資料として重要な意味を持つようになる。(太平洋戦争中、アメリカ軍の艦艇に向かってくる日本軍の特攻機の映像もカラーで残っている。これは、アメリカ軍にとって、日本の特攻機をカラーフィルムで記録するに価するものと考えていたことになる。)
だが、モノクロが当然である時代のことについては、カラーフィルムという選択肢がまだ無かった時代なので、かろうじて、このようなカラー化も意味が見いだせることになる。
見ていて思うことはいろいろとある。何よりも、番組を作る側の歴史観である。最初の「映像の世紀」では、一般的な歴史観に沿って作ってある。知られていないが、歴史の裏側でこんなことがあった、というような視点は、あまり持ち込んでいない。貴重なフィルムの存在によって、実際はこんなふうだったと認識することはある。たとえば、実際に踊っているイサドラ・ダンカンの映像などが、そうである。
番組制作の歴史観が表面に出るようになったのは、「映像の世紀プレミアム」からであるかと思う。これは、テーマの設定自体が、一つの歴史の見方を示すことになる。今の「映像の世紀バタフライエフェクト」は、良くも悪くも偏った歴史観、ということを感じる。最近の事例としては、「カラシニコフを持ったベトコン」が登場しないベトナム戦争、というのには、やはり違和感を感じる。
あるいは、もう一般的に共有できるような大きな物語としての歴史観を人びとが共有できなくなった、ということもあるだろう。最初の「映像の世紀」のころは、ベルリンの壁の崩壊、東西冷戦の終結、ということで、ある意味では、それまでの歴史をかなり統一的な見方で見ることが、かろうじて可能だった時期といってもいいかもしれない。
最初の放送からの研究で、評価が変わった部分があるという断り書きから始まっていたが、実際にはどの部分であるのか、分かると面白い。私の記憶にある範囲だと、ロマノフ王朝の王女、アナスタシアが実際に死亡していたということが確定したということが、あるかと思う。
あるいは、昔は本物の映像記録だと思われていたものが、その後の研究で、後になってからの、いわゆるやらせ映像であったことが判明した、ということもあるはずである。この観点では、日露戦争時の、28サンチ砲の映像は本物ということであったが、これはとても興味深い。(ちょうど、『坂の上の雲』の再放送で、児玉源太郎が出てきて、二〇三高地の戦いになるところである。)
リュミエール兄弟の作った最初の映画、工場から出てくる人びとのカラー映像は、非常に興味深く見た。また、一九世紀末から二〇世紀の初頭にかけてのパリやロンドンの映像は、『失われた時を求めて』を読んだり、ロンドン留学の夏目漱石を思ったり、あるいは、シャーロック・ホームズの活躍したロンドンの街を想像したりということで、とても面白いと思う。
始めの方で、ゴーリキーのことばとして、映画の発明は人びとの考え方を変えるだろうという意味のことを紹介してあったが、たしかにそのとおりであった。今の時代、インターネットからスマホの時代になって、大きく人びとの意識は変わった。
また、初期の映画はいうまでもなく音がなかった。しかし、このことが、音の無い世界の動く映像ということで、ある意味で非常に衝撃的な体験となったことは、興味深いことである。今の我々は、映画が登場したとき、音が出るようになったとき、このときの体験を、想像してみることしかできなくなっている。スマホひとつあれば、映像も音声も記録し、あるいは、作ることもできる時代である。
2025年2月4日記
カラーでよみがえる映像の世紀 (1)20世紀の幕開け 〜カメラは歴史の断片をとらえ始めた〜
「映像の世紀」が放送が始まったのは、一九九五年、ということは、リュミエール兄弟によって映画が作られてから、一〇〇年後のことということになる。一九九五年のころに、こういう番組を作るということは、第一には、こんな珍しい過去の映像が残っていたのか、という驚きにあった。その後、このシリーズは、全部を見たということはなかったが、気のつくかぎりは見ていた。そして、「映像の世紀」「新・映像の世紀」「映像の世紀プレミアム」とつづき、数年前に、これらをまとめて順番に再放送していったのは、全部見た。この後に、今の「映像の世紀バタフライエフェクト」になって、これはたぶん全部見ていると思う。
「映像の世紀」シリーズで、カラー化するのは、これが始めてではない。しばらく前に、どの回であったかは憶えていないが、カラー化したのを放送したのを憶えている。
私は、基本的には、こういうカラー化には反対である。記録映像は、その当時の技術で何が記録できたか、ということが重要なことの一つである。その時代の技術で出来なかったことを、今の技術で再現してみてもあまり意味がないと考える。しかし、それを分かったうえで見ると、映像により説得力があるのは事実であるが。
これも、今回の企画のように、第二次世界大戦ごろまでが、かろうじて意味のある時代ということになる。一九四〇年ごろになると、カラーフィルムが実用化されるので、カラーで残る映像が存在するようになる。そうすると、その時代にあって貴重なカラーフィルムを使って、何を撮ったかということの選択が、資料として重要な意味を持つようになる。(太平洋戦争中、アメリカ軍の艦艇に向かってくる日本軍の特攻機の映像もカラーで残っている。これは、アメリカ軍にとって、日本の特攻機をカラーフィルムで記録するに価するものと考えていたことになる。)
だが、モノクロが当然である時代のことについては、カラーフィルムという選択肢がまだ無かった時代なので、かろうじて、このようなカラー化も意味が見いだせることになる。
見ていて思うことはいろいろとある。何よりも、番組を作る側の歴史観である。最初の「映像の世紀」では、一般的な歴史観に沿って作ってある。知られていないが、歴史の裏側でこんなことがあった、というような視点は、あまり持ち込んでいない。貴重なフィルムの存在によって、実際はこんなふうだったと認識することはある。たとえば、実際に踊っているイサドラ・ダンカンの映像などが、そうである。
番組制作の歴史観が表面に出るようになったのは、「映像の世紀プレミアム」からであるかと思う。これは、テーマの設定自体が、一つの歴史の見方を示すことになる。今の「映像の世紀バタフライエフェクト」は、良くも悪くも偏った歴史観、ということを感じる。最近の事例としては、「カラシニコフを持ったベトコン」が登場しないベトナム戦争、というのには、やはり違和感を感じる。
あるいは、もう一般的に共有できるような大きな物語としての歴史観を人びとが共有できなくなった、ということもあるだろう。最初の「映像の世紀」のころは、ベルリンの壁の崩壊、東西冷戦の終結、ということで、ある意味では、それまでの歴史をかなり統一的な見方で見ることが、かろうじて可能だった時期といってもいいかもしれない。
最初の放送からの研究で、評価が変わった部分があるという断り書きから始まっていたが、実際にはどの部分であるのか、分かると面白い。私の記憶にある範囲だと、ロマノフ王朝の王女、アナスタシアが実際に死亡していたということが確定したということが、あるかと思う。
あるいは、昔は本物の映像記録だと思われていたものが、その後の研究で、後になってからの、いわゆるやらせ映像であったことが判明した、ということもあるはずである。この観点では、日露戦争時の、28サンチ砲の映像は本物ということであったが、これはとても興味深い。(ちょうど、『坂の上の雲』の再放送で、児玉源太郎が出てきて、二〇三高地の戦いになるところである。)
リュミエール兄弟の作った最初の映画、工場から出てくる人びとのカラー映像は、非常に興味深く見た。また、一九世紀末から二〇世紀の初頭にかけてのパリやロンドンの映像は、『失われた時を求めて』を読んだり、ロンドン留学の夏目漱石を思ったり、あるいは、シャーロック・ホームズの活躍したロンドンの街を想像したりということで、とても面白いと思う。
始めの方で、ゴーリキーのことばとして、映画の発明は人びとの考え方を変えるだろうという意味のことを紹介してあったが、たしかにそのとおりであった。今の時代、インターネットからスマホの時代になって、大きく人びとの意識は変わった。
また、初期の映画はいうまでもなく音がなかった。しかし、このことが、音の無い世界の動く映像ということで、ある意味で非常に衝撃的な体験となったことは、興味深いことである。今の我々は、映画が登場したとき、音が出るようになったとき、このときの体験を、想像してみることしかできなくなっている。スマホひとつあれば、映像も音声も記録し、あるいは、作ることもできる時代である。
2025年2月4日記
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