100分de名著「デュルケーム“社会分業論” (1)個人化/孤立化の時代に向き合う」 ― 2025-02-05
2025年2月6日 當山日出夫
100分de名著 デュルケーム“社会分業論” (1)個人化/孤立化の時代に向き合う
デュルケームの名前は、知っているのだが、近代の社会学の祖という程度の知識しかもっていない。
時代の背景として、一九世紀から二〇世紀にかけての近代ヨーロッパというものを、歴史的に考えないといけないだろう、ということは分かる。近代的な科学的な思考がひろまり、都市部における近代的市民というものが成立してきた時代である。番組のなかでは、コッホやダーウィンやマリ・キュリーなどが出てきていたが、そのなかにマルクスやウェーバー、それから、フロイトなどをふくめてもいいかもしれない。
社会にあって人間を拘束する何かがあるのであり、それを社会的事実として客観的にモノとして観察する……たしかに、そのとおりである。
ただ、これも、現代の価値観からするならば、それを観察する自分自身が、その歴史的文化的文脈のなかに存在する人間なのであって、ということをどう考えるのか……ここのところが問題になるはずである。逆にいえば、デュルケームの時代には、単純素朴に社会的事象について、客観的に観察が可能ということが、信じることができた時代であった、ということになる。
社会と個人ということだが、ヨーロッパでもこの時代は、まだ、社会の共同体としての感覚が、まだ強く生きのこっていた時代だろうとは思う。人間が帰属する伝統的社会に帰ろうと思えば、それがまだ存在していた時代でもあったといえるかもしれない。
2025年2月4日記
100分de名著 デュルケーム“社会分業論” (1)個人化/孤立化の時代に向き合う
デュルケームの名前は、知っているのだが、近代の社会学の祖という程度の知識しかもっていない。
時代の背景として、一九世紀から二〇世紀にかけての近代ヨーロッパというものを、歴史的に考えないといけないだろう、ということは分かる。近代的な科学的な思考がひろまり、都市部における近代的市民というものが成立してきた時代である。番組のなかでは、コッホやダーウィンやマリ・キュリーなどが出てきていたが、そのなかにマルクスやウェーバー、それから、フロイトなどをふくめてもいいかもしれない。
社会にあって人間を拘束する何かがあるのであり、それを社会的事実として客観的にモノとして観察する……たしかに、そのとおりである。
ただ、これも、現代の価値観からするならば、それを観察する自分自身が、その歴史的文化的文脈のなかに存在する人間なのであって、ということをどう考えるのか……ここのところが問題になるはずである。逆にいえば、デュルケームの時代には、単純素朴に社会的事象について、客観的に観察が可能ということが、信じることができた時代であった、ということになる。
社会と個人ということだが、ヨーロッパでもこの時代は、まだ、社会の共同体としての感覚が、まだ強く生きのこっていた時代だろうとは思う。人間が帰属する伝統的社会に帰ろうと思えば、それがまだ存在していた時代でもあったといえるかもしれない。
2025年2月4日記
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