『おむすび』「おむすび、管理栄養士になる」2025-02-09

2025年2月9日 當山日出夫

『おむすび』「おむすび、管理栄養士になる」

突然、結が管理栄養士になって活躍する。

褒めるところとしては、本来の朝ドラのテイストというのは、こんなもんだったということになる。特別に面白い展開ということでもないし、逆に、特段につまらないということもない。朝の決まった時間に放送する、時計代わりのドラマとは、そもそもこんなものなのである。その本来の姿を見せてくれているということになる。

病院の仕事、そのなかでの管理栄養士の仕事とはどんなものなのか、ちょっと説明的にすぎる感じではあるが、まあ、ドラマで描くとなるとこんなものだろうとも思う。週の終わり、金曜日になって、一件落着でおさまるというのも、これはこれで安心して見ていられる。

しかし、不満が無いわけでもない。

管理栄養士になって病院に勤務するというのは、かなり無理がある。これまで、結が栄養士になったのは何だったのか、という気がしてくる。ドラマとして、管理栄養士になって仕事をするという筋ならば、始めから結は四年生の大学に入学して、まず、栄養士の資格を取り、そのうえで管理栄養士の試験の受験資格を得る、というふうにした方がよかった。(たぶん、世の中の管理栄養士の多くは、こういうルートで勉強しているはずである。結のような例があることは確かであるけれど。)

栄養士の専門学校の同級生で、卒業後に病院勤務となった友達がいたはずだが、ここは、病院で仕事をするとしても、栄養士と管理栄養士で、どのような仕事ができるのか、できないのか、ということをきちんと説明しておくべきところである。そうでないと、何故、結が管理栄養士の資格を目指したのか、説得力を持って描くことができないことになる。

もし四年生の大学で管理栄養士を目指していたら、その進路としては、病院以外にも、食品関係の会社とか、教員(栄養教諭)の道があることになり、学生生活でのことを描くと同時に、様々な仕事を通じて、今日の社会のいろんな問題を、ドラマのなかに取り込むこともできたはずである。

それにしても、娘の花が生まれてからこのかた、糸島の祖父母のことが出てきていない。どうしているのだろうか。また、結は、糸島で農業の経験があることになっているはずだが、この設定が、栄養士や管理栄養士の仕事に、そんなに生かされているとは感じられない。

番組制作のセット制作の都合かもしれないが、ヨネダの理容店で、商店街の人たちがたむろするのは、どうかなと思う。店がよほどひまなのか、あるいは、そんな店だからお客が来ないのか、と考えてしまうことになる。

2025年2月7日記

『カーネーション』「あなたを守りたい」2025-02-09

2025年2月9日 當山日出夫

『カーネーション」 「あなたを守りたい」

この週から、娘たち、優子、直子、聡子、がドラマの表舞台に登場することになる。

直子は、賞をとって服飾デザイナーとして認められ、東京のデパートで自分の店を持つことになる。しかし、その発想が奇抜すぎて、お客さんの反応は今一つである。それを見かねた糸子が何とかしようとするが、最終的には、優子が東京に行って直子の店を手伝うことになる。

女性のファッションにはほとんど関心の無い生活を送ってきたのだが、その当時のこととして、最新の流行のデザイン……それが、パリのデザイナーの発案になるものであったとして……それを、そのまま使って洋服を作るということが、どれぐらいあったのか、という気はしている。最新のヨーロッパのファッションは、それはそれとして、それをどう日本の生活の中にアレンジして着こなすか、というあたりが、この時代の日本の服飾デザイナーに求められたことではなかったろうか、という気がしている。

直子のデザインは、確かにいいものにはちがいないが、商品として売るには、お客さんの好みにあわせてどうアレンジするか、ということがポイントになる。ここのところが分かっているのが、優子ということになる。ここは、岸和田の店で、母親の糸子を手伝いながら、たたき込まれたという経緯があってのことである。

ドラマでは、糸子は常に世界で最新のファッションに追いつこうとしている。そうして頑張ってきた糸子であるが、自分の娘の直子のデザインを理解しているかというと、かならずしもそうではない。これは、世代の差というか、時代の流れである。言いかえれば、人間は時代の流れの中で、年をとっていくということである。このことを、このドラマは、正面からきちんと描いている。

朝ドラでは、女性の半生記というようなことが多いのだが、人間が年をとり、時代も変化していくものであるということを、きちんと描いたドラマは、希かもしれない。今、再放送している『カムカムエヴリバディ』は、三代にわたる家族の物語だが、世代ごとのものの考え方の変化、時代の移り変わりを、たどっている。かならずしも、古い考え方だとして、昔の人を否定的に見るということにはなっていない。

『カーネーション』を見ると、糸子は、時代の流れのなかで遅れつつあるのかもしれないが、それでも、常に最新の情報を得ようとしているし、自分のセンスと、娘たちの新しい時代のセンスが、変化してきていることを、実感している。この変化を、特に是非を論ずるのではなく、そういう時代の流れであるという視点で描いている。ある時代、ある世代には、その時代の考え方やセンスがある、ということを肯定的に描いている。

思いおこせば、父親の善作は、家父長制的暴君であったということにもなるが、それを、その時代における一つの人間の生き方として描き、否定するということはしていない。その時代に生まれ、その時代に育った人間は、そのように生きるものなのである、という肯定的な発想が根底にある。

商店街の変化もそうである。安岡の髪結い店は美容室になったし、隣の電器屋はアメリカの雑貨店になった。これも、時代の変化である。

組合長(近藤正臣)が、いい雰囲気である。この時代、昭和三〇年代ぐらいまでは、このような長老というか、地域の大人というべき人がいて、その社会の調整にあたっていたということになる。それが、急速に失われていくことになるのが、その後の日本の社会である。次の世代としては、糸子や北村のような人間であり、さらにその次の世代として、優子や直子の時代ということになる。

時代による社会の変化や、人びとのものの考え方の世代による違い、ということを、対立的にではなく、親和的な視点で見ている。こういうところが、このドラマが、多くの世代の支持を得て名作とされるゆえんであろう。

さりげない描写だが、喫茶店の太鼓の店内で、カウンターの向こう側で動いている人の姿が、きちんと画面に映っている。無言ではあるが、仕事をしている人の姿であり、また、店を引き継いだ米の姿だったりするが、こういうところの描写がとてもいい。また、糸子がミシンを使っている描写がある。仕事をする女性としての糸子を、その仕事をする姿を通じて描いている。

2025年2月8日記

『カムカムエヴリバディ』「1962-1963」「1963-1964」2025-02-09

2025年2月9日 當山日出夫

『カムカムエヴリバディ』「1962ー1963」「1963ー1964」

この週は、るいとジョーの関係が深まる展開になり、金曜日に放送の回で、ジョーがるいとの結婚の意思を、竹村クリーニング店の夫婦に伝える、ということになった。

印象的なシーンがいくつかある。

海岸にるいとベリー、そして、ジョーとトミーで、ドライブに出かける。四人の登場人物の海辺での会話のやりとりで、それぞれが、それぞれの気持ちに気づいていくという運びになっていた。

ジョーがトランペットのコンテストに出場するための衣装選びを、るいと一緒にするシーン。最後の、試着室での場面は、実にたくみである。

Night and Day でのコンテスト。このとき、テレビの画面では、ステージでの演奏と、映画……モモケンと虚無蔵が出ている……が、切り替わる演出になっていた。これは、このドラマが、これから京都に舞台を移して、映画村や撮影所、時代劇の役者たち、こういう人びとを描くことになる、非常にたくみな伏線になっている。なるほど、殺陣のこのシーンが、これからドラマのなかでどう使われることになるのかと、思って見たことになる。

コンテストに着る衣装を汚してしまったジョーは、るいに洗濯を頼むことになる。楽屋で待っているジョーの姿と、店で洗濯の仕事をするるいの姿が、印象に残る。このドラマの良さの一つは、仕事をする人間の動作を具体的に描いていることである。るいの仕事をする姿を描くことを通じて、るいのジョーに対する思いが、画面で表現されていたと感じる。

ジョーは、クリーニング店を訪れて、竹村夫妻に、るいと結婚することを許してほしいと告げる。このとき、ジョーと竹村夫妻の前で、るいが畳のうえでお辞儀をするのだが、その動作がきれいである。るいの気持ちが表現されていると同時に、そのお辞儀の動作で、るいが岡山の雉真の家できちんとしたしつけを受けて育ってきた娘であったことが、分かる。

岡山の定一の喫茶店、ディッパー・マウス・ブルースにいた少年は、ジョーであったことが明らかになる。このとき、安子とるい、それから、ジョーが、同じ店のなかにいて、「On the Sunny Side of the Street」を聞いていたことになる。この曲は、やはりるいにとっても、ジョーにとっても、特別な曲である。

2025年2月7日記